猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ドストエフスキーの「大審問官」、「降臨」か「再臨」か

2019-03-28 18:45:43 | ドストエフスキーの宗教観

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫)が、ネットで、ずいぶん評判が悪いようだ。

すでに色々な人々が訳している古典を、もう一度訳しただけなのに、売れたことへの嫉妬も、その要因の一つだろう。

訳者は、わざと、これまでの訳を踏み外し、聖書や教派や歴史の知識を不要にし、大胆に、自分の好きなように読めるようにしているようにも思える。

たとえば、光文社古典新訳文庫では、第5編の「大審問官」の章で、「これはあの降臨じゃない」とイワンが言ったと訳されている。
これは、正教会でも、日本語では、伝統的には「再臨」というところだ。
「降臨」は、聖霊が人間におりることをいう。
「あの再臨」がふつうの訳になる。

「降臨」としたのは、何か理由があるのだろうか。
「その彼が自分の王国に約束して」、もう1500年がたって、「彼を待ちつづけている」民衆をあわれに思い、ふたたび、地上に人間の姿で現れたのだ。
このロシア語の原語は何で、何と訳せば、良いのだろうか。

聖書との関連を見て行こう。

ドストエスフキーは、「あの降臨」を、「『稲妻が東から西へひらめきわたるように』生じるあの降臨のこと」、と書く。
実は、この句は、新約聖書の『マタイ福音書』だけにしか出てこない。24章27節である。
これにたいし、24章30節の「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」の文は、『マルコ福音書』、『ルカ福音書』にも、共通して現れる。
なぜ、この章で、ドストエフスキーは「稲妻」を選び、「人の子」を選ばなかったのか。

ドストエフスキーは、「人の子」がイエスなのか否かの論争があるのを知っていたのだろうか。

この「人の子」は、旧約聖書の『ダニエル書』の「人の子のようなもの」とは異なる。
『ダニエル書』の「人の子」は人間を意味し、「天の雲」の上に「人間のようなもの」が見えたという「幻視」を述べているだけだ。
新約聖書の『ヨハネ黙示録』では「人の子」ではなく、「人の子のようなもの」と『ダニエル書』と一致している。
『マタイ福音書』、『マルコ福音書』、『ルカ福音書』は「人の子」で、イエスとも解釈できるのである。

しかし、殺され、復活し、天に昇ったイエスが、わざわざ、「天の雲」に乗って戻ってくるのだろうか。
『再臨』は「人の子」が人間たちを罰するために「天の雲」に乗ってあらわれるのだ。
だから、ドストエフスキーは「あの再臨じゃない」と言いたかったのだろう。

実は、福音書を読む限り、復活したイエスは、天に昇った後、再び地上に戻ってくると、明確には約束していない。
しかも、新約聖書の『ヨハネ福音書』には、他の三福音書のような「再臨」も「世の終わり」もない。

最後になるが、光文社古典新訳文庫では、
第5編の「大審問官」の章で、ふたたび地上に降り立った彼が
「はかり知れない慈悲の思い」をもってセヴィリアの広場を無言で歩くさまを
「胸のなかでは愛の太陽が燃えさかり、栄誉と啓蒙と力が光のように瞳から流れ、人々の上に降りそそぎ、彼らの心をたがいの愛によってうちふるわせている」と、
ドストエフスキーが書くのに、違和感を感じる。

日本で育ったものとロシアでそだったものの感覚の差か。
翻訳の問題か。私はロシア語が読めない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿