二日前の朝日新聞の〈耕論〉は『世論ってなんだ』という問題提起だった。私も「世論ってなんだ」と思っている。
『中国化する日本』(文春文庫)の与那覇潤は、「世論(せろん)」と「輿論(よろん)」との違いを指摘し、感情的なのが「世論」で、知的なのが「輿論」だとしている。そして、「世論」はポピュリズムの温床となるうえ、正反対の内容に急変する「危うさ」があるとする。「世論に対して輿論を回復する」ことを主張する。
しかし、与那覇潤の問題意識は私には見当違いのように思える。
岩波の国語辞典を見るとつぎように説明している。
『世論』世間一般の人びとの議論・意見、世間の大勢を制している意見。
『輿論』世間一般の人びとに共通した意見。
私が「世論ってなんだ」と思うのは、「大勢を制している意見」とか「共通した意見」とかいうことがどうしてわかるのだろうか、ということである。また、世間一般の人びとの議論・意見をどうして知ることができるのだろうか、ということである。
私の子ども時代、あるいは、私がまだ若いときのことを思い出すと、新聞、ラジオ、テレビのようなマスメディアを通してしか、世論を知りようがなかった。だから、世論とはジャーナリストの意見であった。
当時、デモ行進でもしないかぎり、「世間一般の人びと」の声が聞こえてこなかったのである。60年前の首相、岸信介は、「声なき声」が自分を支持しているといって、新宗教関係者や暴力団関係者を動員して、安保反対のデモに対抗しようとした。
現在では、その事態が変わったのか。改善されたのか。現在、はたして、ツイッタ―を見れば、「大勢を制している意見」とか「共通した意見」がわかるのだろうか。私はそう思わない。ネットに過度にはまり込んでいる一部の者が、寝る間を惜しんで、考える時間も惜しんでツイッターに書きこんでいるだけである。それが、「大勢を制している意見」や「共通した意見」とは思えない。
また、「世間一般の人びと」の定義もよくわからない。民主主義国家であれば、主権は「一般の人びと」にある。
以上から私が思うに、「政府に逆らう意見」こそが「世論」であって、それが「大勢を制した意見」とか「共通した意見」であるかは、知りようがないのである。また、「大勢を制した意見」や「共通した意見」がわかったとしても、それが正しいとは限らない。それに、個々人が自分の意見をもつなら、「大勢を制した意見」や「共通した意見」がない可能性のほうが高いのではないか。
大事なのは、現在でも、各自自分の意見を誰かに述べ、相手の反応を通して、相手の意見を知るコミュニケーションを日ごろから積み重ねることではないか。
[補遺]
調べてみると、「世論」は英語の”public opinion“の日本語訳らしい。Oxford Advanced Learner's Dictionary of Current Englishで意味を確認すると、public opinionが
what the majority of people think
と説明されている。多数派の人びとが思うことが「世論」となる。ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』(光文社古典新訳文庫)の中で、言論の自由は、単に政府からだけでなく、public opinionからの自由も保障されなければいけないと言っていた。
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