憲法記念日の朝日新聞の《多事奏論》にベテラン記者の岡崎明子が「雑談力」について書いていた。
ちょっと面白い話なので、彼女の話しをまとめると、つぎのようになる。
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彼女が新人記者のとき、口の堅い警察官から「ネタ」をとるための雑談を仕掛けることができなくて、「雑談力」のなさを感じた。コロナ感染拡大で在宅卓勤務になったとき、雑談で自分が癒されていたことに気づいた。ところが雑談を仕掛けると不快感を抱く人が少なくないと知って「雑談力」のなさを再び痛感した。
最近、彼女は、AIの研究者から、チャットGPTは物知りだが、「個」がないから、チャットGPTと雑談ができない、と教えられた。雑談の目的の1つは相手を知ることだ。警察官と雑談できなかったのは、「共通の話題がないから」ではなく、「そもそも相手のことを知りたいとは思っていなかった」からだ。
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何気ない話をすることは相手と仲良くありたいという意思表示だと、精神科医の斎藤環がどこかで書いている。家庭崩壊を立て直すとき、雑談ができることを私は目標にする。自分の都合をぶつけてばかりだと、いかに論理的であろうと、一度壊れた家族関係を修復できない。
また、とりとめのない話が癒し効果があるのも本当だと思う。うつに陥っている子どもたちや若者たちは話しかけれたいと思っている。そして、それ以上に話したいと彼らは思っている。
しかし、「雑談力」というものが本当にあるのか、また、必要なのかを、私は疑う。「共通の話題」を無理して作り出す必要はないと考える。ニコニコして、「へー、そうなの。それで?」と合いの手を入れるだけでも良い。NPO活動の仲間が、私を話の引き出しが多いと誤解することがあるが、じっさいは、私は何も知らなくて、子どもたちや若者から教えられているだけである。
いっぽう、私はビジネスや政治の世界では単刀直入に核心にはいるべきだと思う。論理的な世界であるべきだ。料亭で無駄話しながら相手の本心を探ることはやめるべきだ。
岡崎の記事に戻ると、警官から「ネタ」をとるために雑談を仕掛けるとは、昔の三文小説の女諜報員みたいだ。こんなことを新聞社は新人記者にやらしていたのなら、これもやめるべきだ。