猫じじいのブログ

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ケインズの「美人コンテスト」、岩井克人の『21世紀の資本主義論』から

2022-06-28 23:19:34 | 経済思想

(怪物化した桜の大木、散歩道にて)

岩井克人の『21世紀の資本主義論』(ちくま学芸文庫)は、2000年1月1日出版のエッセイ集の文庫版である。そのなかの巻頭のエッセイ「21世紀の資本主義論ーグローバル市場経済の危機」は書下ろしで、78ページに渡り読みがいがある。商人資本主義、産業資本主義を経て、現在、金融資本主義の時代にあるという認識のなかで、金融資本主義の本質はリスクを売買する世界として議論をしかける。

2000年当時、日本では、1990年の株や土地のバブルがはじけて銀行や大企業が大きな負債をおって、まだ、傷が癒えていない時期である。とくに、銀行はいつ倒産をしてもおかしくない状態であった。

私は外資系IT会社にいたから、金融商品を扱うアメリカやヨーロッパの金融業界の羽振りのよさに目を見張っていた。欧米では、金融業界はIT企業にとって最上のお客さんであった。金融取引を滞りなく、しかも、速く行うために金の糸目をつけない状態であった。2000年のITバブルも金融業界の需要があってのものであった。

岩井は、日本にいたが、アメリカのリスクを売買する金融資本主義、グローバル化する市場を見て、それを批判している。そのキーワードが「投機」である。

そこで、岩井はケインズの「美人コンテスト」を引用する。私はアダム・スミスの著作もジョン・メイナード・ケインズの著作も読んだことがない。それで、ケインズの「美人コンテスト」の話は、株価はみんなの思いこみだけで決まり意味がないという たとえだとおもっていた。岩井はそうではないとする。

ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)の第12章にでてくる「美人コンテスト」は、新聞の読者が投票してきめるコンテストであり、もっとも投票が集まった6名の美人に投票した読者に多額な賞金が出るのであった。

したがって、賞金を得たいと思う読者は、他の読者がだれに投票しようとするかの平均的感性を推測しなければならない。しかし、他の読者も同じように推測してくるとすると、他人の平均的感性をどうとらえているかを推測しないといけなくなる。しかし、これも、みんながそう推測してくると、さらにその上を行く推測をすることが求められている。

ケインズはそんなことを書いていると岩井はいう。金融取引とはそんなものだと岩井はいう。自分のリスクを最小にしようと合理的な判断を各自しているのではなく、相手の戦術・戦略を推測してゲームに勝とうしているだけだという。

したがって、合理的な判断が行われて、市場のリスクが極小化されるというミルトン・フリードマンの主張は、幻想だと岩井は言う。

当時、金融取引の確率論が流行っていて、プログラムによる先物取引などが行われた。プログラムのもととなる金融確率論は大同小異だから、たくさんのデータを収集して瞬時に処理することがゲームに勝つために要求される。また、金融市場の提供者は、それらのプログラムが集中的にアクセスしても、滞りなく高速に公平に処理する環境を提供できなければ、金融会社から見捨てられる。私の業界からすると、最高のネットワークシステム、コンピュータ、高速メモリが金融業界に売れたのであった。

現在は、確率論が行きづまっていて、数量的データによる確率論だけではなく、企業の人事、政治の出来事を集めてAIに瞬時判断させるようになっている。

しかし、それはますます合理的な判断からほど遠くなって、ケインズや岩井が言うように、リスク取引は囲碁や将棋のように相手に勝つという対戦型心理ゲームに陥っているように見える。

2008年にリーマンショックが起きた。同じころ、私のいた会社で人間の非合理的判断を実証的に調べていた経済学研究者が、金融危機のさなかに、モルガンスタンレーに転職した。

金融資本主義は、人間の欲望と同じくしぶといが、どうなっていくか、混迷を極めている。アレキサンダー大王の逸話ように、複雑化してほどけない「ゴルディオンの結び目」はズバッと切り捨てるしかないと私は思っている。