猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

失われていた息子が帰る、ルカ福音書

2019-04-03 10:23:22 | 聖書物語


新約聖書に4つの福音書がある。
物語としてイエスの言動をまとめたものである、といわれる。

しかし、実際には、イエスは、1年の、長くても3年の、おおやけの活動で、すぐに殺された。無学なイエスもイエスの弟子も、字が書けず、その後、30年以上して、マルコ、マタイ、ルカの福音書がまとめられた。さらに、40年して、ヨハネ福音書ができた。
だから、福音書の中身は、当時の民衆の間に伝えられていた労働歌、ことわざ、寓話を集めたものと考えたほうが、良いであろう。
だからこそ、イエスの語ったとされる話に、教会で民衆が耳を傾けたのではないかと思う。

イエスが何を言いたかったのかは、もはや、わからない。

ルカ福音書15章11節から32節にかけて、有名な「放蕩息子のたとえ」の寓話がある。これは、失われたと思っていた息子が突然帰ってきて、父が喜ぶという話である。

私は、この寓話の父親の気持ちがよくわかる。

この寓話では、次男が、父の財産を分けてもらって、他の土地に移ったとされる。そこで、次男は財産を失い、雇われて豚の世話をする。ところが、飢饉で、豚のえさの「いなご豆」さえも食べさせてもらえなくなった。自分は父のひとりの雇い人でよいから、父のもとに帰えろう、と思う。

多くの若者は、良い生活を求めて、あるいは、何者かになりたくて、故郷を離れる。そして、世俗的な意味で成功するのはわずかである。
父としては、それでも、自死せずに、生きて帰ってきたことがうれしいのである。

ところが、このとき、畑で働いていた長男は、喜ぶ父に、不公平だと怒る。
父は長男に答えて言う。

「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。わたしのものはすべてお前のものだ。だが、お前の弟は死んでいたのに生き、失われていたのに見つかったのだから、楽しみ、喜ぶべきではなかったのか。」(ルカ福音書15章31, 32節田川建三訳)

聖書研究者の田川建三は、この寓話を「放蕩息子」と呼ぶのは不適切である、という。
彼は『新約聖書 訳と注』(作品社)のなかで、この寓話でἀσώτωςを「放蕩」と訳すのは行き過ぎではないかと言っている。

実は、ἀσώτωςという単語は、新約聖書、旧約聖書を通して、この一か所、『ルカ福音書』15章13節でしか出てこない。
これまで「放蕩」と訳されてきたのは、次男が、父からもらった財産を失い、また「罪」をおかしたと告白していることからの、また、父の財産を女で次男が失ったのだと、長男が父をののしったことからの、推定である。

ギリシア古典では、似たつづりでἄσωτοςが出てくるが、これは「安定の望みがなく」という意味である。田川建三も、語の由来を考え、ἀσώτωςを「安定を欠く」という意味ではないかと推定した。
当時は土地を耕す以外の職業は、現在の「投機」のように、「不安定な」職業とみなされていたのではと、私は思っている。

したがって、「失われた息子かえる」がこの寓話の呼び名にふさわしい。
なお、もともと、聖書の寓話に「見出し」などついてはいず、単に、聖書の翻訳を出す団体が勝手につけているだけである。

ちなみに、昨年の12月に日本聖書協会からでた新翻訳の聖書では、『「いなくなった息子」のたとえ』となっている。
「放蕩息子」よりましだが、「たとえ」はいらない。
寓話は、「教え」や「教訓」ではない。共感するものである。

仏法の『法華経』にも似た話「長者窮子」があるが、戻ってきた息子が自分の父に気づかないという設定になっている。
息子だと知っている父は、素知らぬ顔で息子を雇い、知恵を尽くして、時間をかけて、貧しさにゆがんだ息子のこころを高貴なこころに直していくという物語である。
こんな上から目線の父に、私は、共感できない。

[参考図書]田川建三:「新約聖書訳と註 第2巻上 ルカ福音書」、作品社、ISBN: 978-4861821370、 2011/2/26