井伏鱒二の『庵』は、悪餓鬼の頃よくカマッタRituチャンの家跡に建たっていた・・・ Rituちゃんは足の速い子で運動会では何時も1位だった。が、若くして亡くなった。Rituちゃんの母親とはちょっとしたエピソードがある・・・
内の親父と懇意にしていたので、よく家に遊びに来た。
或る時、センゼイ畑で親父と鍬を振るっていた。Rituちゃんの母親が通り掛り、『おじさん、まァー、この子はよく鍬が使えるねぇ~~~』等と褒めてくれた。褒められて2分と経たない内に、『イテ~~~、やったぁ~~~』、鍬で足をザックリ!!!
1ヶ月近くチンバを引き、野球も出来なく、往生した事がある・・・
こんな一件もあったので、Rituチャンの家跡:井伏鱒二の『庵』には強い愛着が湧く・・・
井伏鱒二の『スガレ追い』、いや、巨匠流に言うなれば『スガレ追ひ』(注:巨匠は、殆ど、旧仮名使いの文体で書いている)は、昭和52年3月、筑摩書房から発刊されている。昭和45年には高森の『庵』が出来ていたので、この頃から此処で書かれていたものと想像して硬くない。
今日は、『庵』の改築工事に来ていたお大工様:蜂狂ヤッさんの話を書こう・・・
『スガレ追ひ』を通して読んで見ると、ヤッさんが火付け役で、彼のお茶飲み話に痛く興味を持ち、“ヘボ”の世界へのめり込んでいった。
これからも多くの蜂狂が登場するが、申し訳ないが、“ヘボ”ちゃんの習性がよく判っておらず、巨匠に講釈:”ヘボ講”を述べているから話は厄介だ!!!
でも、巨匠が書いた“へぼ談義”と思えば、笑って済ませる話かも知れない?
毎日、ヤッさんが吹くもんで、巨匠はスッカリ虜となってしまう。随所随所に蜜柑箱を用意し、“ヘボ”を飼う準備を毎年繰り返していたようだ。家の軒先から、空に伸して行く『軍』の姿を夢見ていた・・・ 庭に石だの灯篭、庭木等はどうでもよく、“ヘボ”ちゃんの通い、飛行を夢見ていた。
これだけの巨匠が、これ程まで“ヘボ”にのめり込んでいるのに、周りの人達からの支援は貰えなかったようだ?
この頃、Masa坊とは広原のゴルフ場で何回かゴルフをした事もあるし、悪餓鬼の同級会も行われていたので、一寸、情報があれば支援が出来たであろうと思われる・・・
少なくも、『スガレ追ひ』に出て来る蜂狂さんよりは精度の高い“ヘボ”ちゃんの習性情報を持っていたのだ・・・
嫌いではなかったので、『蜂追い』の応援くらい出来たであろうに・・・と思う。
翌年、ヤッさんは、東京方面で仕事をするようになり、その翌年は、足を骨折し、長期間、諏訪の病院に入院していたらしい・・・
仕方なく、耳学問を頼りにタモを持ち、ゲーロ(蛙)を捕まえ、蜂追いの真似事をするが、『蜂追ひ』にならなかったようだ!!!
仕方なくタクシー運転手:Masa坊に別の蜂狂を依頼する事になる・・・ それがロカさんだ!!!
今日は、この位にしておきましょう・・・
画像は、晩年の巨匠:井伏鱒二!!! こんな事言うと叱られるかも知れないが、温厚なお爺ちゃんだ!!! 羨ましい!!!