最近更新が滞ってしまい申し訳ありません。もちろん連休を享受していた訳ではなく、逆に突然忙しくなってしまったのが第一の理由です。
もう一点はここ数日、心が乱れてしまって真似事とはいえ中国を「観察」するだけの心理的余裕が持てないでいるのです。
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つい先日、大学時代の恩師と十数年ぶりに連絡がとれました。
私は中国・香港・台湾・東京と流転する間に当然ながら引っ越しを繰り返していますので、その間に恩師や学生時代の友人の連絡先が書きとめてあるアドレス帳を紛失してしまいました。
……いや、どこかにしまってある筈なのですが、天安門事件当時の資料など段ボール箱に詰めたまま実家に置いてある荷物もたくさんあって、探しようがないのです。
以前当ブログで書いたことがありますが、私には卒業した大学に対する母校意識というものが全くなく、私にとっての大学は、単に卒業証明書を発行してくれる事務所でしかありません。
学生時代の私はまことに不遜で若年活気のカタマリのようなもので、自分の渇きをいやしてくれない授業は全て「愚劣だ」で片づけ、全く自己流のカリキュラムで自分を躾けていきました。
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そういう異質さが逆に幸いしたのか、恩師の知遇を得ることができ、卒業するに至るまで、まさに御恩というにふさわしい教えを受けました。
中国のこと、中国に関係ないこと、人生全般にわたることなど、恩師にとっては単なる雑談だったかも知れませんが、私にとってはその全てが宝物で、全身で聴き入るようにしてそれを自分の血肉にしようと努めました。
帰宅するとその日に学んだことをノートに書き留めて忘れないようにもしていました。……いまではそのノートもどこにしまったのか、アドレス帳同様に行方不明なのですが。
いわば恩師の研究室、恩師との対話が私にとっての母校です。
私の同期生には私より優秀な学生が何人もいました。大学のカリキュラム通りに授業に出席して、ちゃんとレポートを出して「優」をとる、というタイプの、私のように「愚劣な授業」は全て替え玉に任せていたのとは正反対の勤勉な学生たちです。それでも私のように、授業時間外でも教官から親身に丹念に育てて頂いた学生は私だけだと思います。
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日本を離れてから各地を転々とする間、アドレス帳を紛失したこともあるのですが、私は恩師に連絡することに躊躇し、いつもその機会を先延ばしにしていました。頂いた御恩にふさわしい成長を遂げていないという認識が自分にあったからです。
大学卒業、就職、3カ月目に就職先が倒産、香港の日系企業に就職。……というドタバタに始まって、香港・台湾時代の私については当ブログで折りにふれて紹介しています。が、業界の専門知識や統率のノウハウといったことを別にすれば、さほどの成長の跡もみられない……ありていは卒業までに恩師に教えて頂いた資産を喰いつぶしてきただけではないか、という一種のひるみが常に私の中にあったからです。
恩師に対する申し訳ない気持ちと、私自身の情けなさに対する自責の念です。
米国では三流のプロ野球選手が日本に助っ人外人として来日するや一流の仕事をすることがあります。それと同じで、外地にいたころを振り返ると、日本よりずっと低いレベルで高い評価を得ることのできる仕事環境に安んじて、つい怠惰に流れてしまった、という悔恨が私にはあります。「後悔先にたたず」ではなく「後悔あとをたたず」です。
それが最近、歳を重ねてしまったことと、健康に不安があるため自分の残り時間がどれほどあるかわからないという気持ちが先に立って、とにかく一度、学生時代に頂いた御恩に対する御礼と、不肖の弟子になってしまったことへのお詫びを伝えなければ、という心境になりました。
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ネット上で検索に検索を重ね、ようやく恩師への連絡の仲立ちを頼める筋にたどりつきました。10年以上も音信不通のままの教え子とは話をする気もない、と言われるのを覚悟しつつ、私の連絡先と、一度でいいからお礼とお詫びを申し上げたい、という言伝をお願いしました。
あにはからんや、その翌々日に恩師から電話を頂いたのです。「御家人君?……××です」と受話器から上品で歯切れのいい日本語を耳にした瞬間、私は絶句してしまいました。電話の主が恩師であることは最初の「御家人君?」ですぐにわかったのですが、それが信じられなくて口から言葉が出なかったのです。
恩師は「うれしい、ああうれしい」「よかった、本当によかった」を連発して私との「再会」を喜んでくれました。私はもうそれだけで胸が一杯になりました。
恩師の近況を聞き、昔話にも花が咲きました。
「天安門事件のときは行っちゃダメって言っているのにあなたは行っちゃったんだから」
と、デモ参加禁止令を平然と破って最前線に飛び出していった私のことが改めて笑い話になったりしました。……その合間にふと、
「私は、この学生は必ず中国研究の道に進むと思っていました」
と言った恩師の言葉に私は胸をつかれました。ああやっぱり先生は目にかけて下さっていたんだ、それなのに……という思いがあふれてきてしまいました。
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私は学位とか大学教授といったものには全く興味がありません。あれば大学院に進んでいたでしょう。だから中国研究者のはしくれにもならなかったことを悔やんでいる訳ではありません。
天安門事件のころと同様に、私は実社会の最前線の塹壕で香港人や台湾人と肩を並べて戦っている方が性に合っているようですし、私自身も選択できるなら象牙の塔よりは現在のような仕事を躊躇なく選ぶでしょう。
実は現在の仕事に就いてから3回、私からみればとても近寄れないような複数の大企業(多国籍企業?)からスカウトの打診を受けたこともあるのですが、それも全て断りました(なぜ私に白羽の矢が立ったのか詳細は不明ですけど、あれを受けていれば世間的には勝ち組でしたねえw)。
そういう大きな会社なら私が断っても他にも候補者はいくらでもいるでしょう。でもいまの仕事(本業&副業)は、私が抜けると代わりを務められる日本人はまずいません。代わりを務めようという酔狂な奴などいない、という方が正確かも知れませんけど(笑)。
私はいまの仕事……本業・副業ともに誇りを持って、全力で取り組んでいるつもりです。ただ、先生から頂いた御恩に見合った成長ができなかった、本当ならいまの職業でももっと高いレベルの仕事ができなければいけないのに、という申し訳なさ、情けなさ、悔しさといった思いが、恩師の言葉で一気にこみあげてきてしまいました。
私にとって中国関連といえば、せいぜいこのブログくらいです。でも所詮はこの程度のものでしかありません。素人が娯楽としてやっていることですから、広さも深さも鋭さもなく、とても恩師に見てもらえるようなものでないことは自分でもよく承知しています。……でも、
「今度ぜひ会いましょう。ゆっくりお話をしましょう」
という恩師の言葉に、救われたような、激励を受けたような気持ちになりました。私は基本的に仕事人間ですし、進むべき方向もはっきりしていますから、恩師の激励を胸に精進を重ねていかなければ、と思いを新たにした次第です。
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ただ、ざわざわしたような思いがまだ気持ちの中に残っていて、ここ数日は記事漁りをするのが精一杯でした。週明けからはいつもの調子に戻れるよう頑張ってみます。
申し訳ありませんが、気持ちが落ち着かないままなので今回はコメントの受け付けを遠慮させて頂きます。ご了承下さい。
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