発達障害特有のこだわりや集中力が発揮されたのでしょうか、浪人中の1年間はそれこそ寝食を忘れるほど徹底的に勉強に打ち込みました。そのかいあってか、翌年、福島県立医科大学医学部に合格。家からは通えない距離なので、大学の近くに安アパートを借り、人生初のひとり暮らしを始めることになりました。

発達障害を抱える私にとって日常生活全般における「管理」は難題でした。使った鍋や食器は洗わずにそのまま放置し、食べたら食べっぱなし、服も本もすべてが出しっぱなしです。先の見通しやビジョンを描くことが苦手な私は、お金の使い方もまるで計画性がなく、1カ月分の仕送りを2週間で使い切ってしまい、いつも親に無心していました。どうしたってライフスキルが低くなりがちな発達障害者には「ひとり暮らしは向かない」というのが、自身の経験から痛感したことです。

精神科への関心と、愛妻との出会い

大学での生活もまた困難続きでした。板書をしない教授の授業がとりわけ苦手でした。耳からの情報だけでは頭の中が混沌となり、物事を理解、整理できないのです。またレポート課題はいつも先延ばしにし、提出期限を守れません。

在学中、医学生はすべての診療科を回りますが、私は精神科に興味がありました。特にこのころからすでに発達障害に強い関心を寄せていました。当時は自分が発達障害だという認識などありませんでしたが、やはり潜在的に魅かれるものがあったのかもしれません。

医学部の5年生になると、県内の精神科の専門病院を訪れ、患者さんとの面接をさせていただくようになりました。その病院の受付にいたのが、現在の妻です。週に1回、日曜日に病院を訪れる私と彼女は顔なじみになり、自然と親しくなっていきました。5年生から2年近く付き合い、大学卒業後の医師国家試験の後に結婚する約束をしました。妻と出会えたことは私にとってこの上ない幸運であり、神様からの恩恵だったと思っています。

しかし、彼女との結婚を果たすためにはクリアしなければならない問題がありました。まずは医学部の卒業です。このときに手厚くサポートしてくれたのが彼女でした。ノートさえろくすっぽ取っていない私にとって、頼みの綱は優秀な同級生のノートをコピーさせてもらい勉強することしかなかったのですが、彼女が病院のコピー機を使って膨大な数のノートをコピーしてくれたのです。おかげで卒業目前の2月にようやくすべての科目に合格することができました。

しかし、喜びもつかの間、すぐさま国家試験という最大の難関が待っていました。彼女との結婚がかかったこの試験だけはなんとしてでも受からなければなりません。両親には卒業試験に合格した際に、「結婚したい人がいる」と打ちあけていましたが、案の定、「認めない」「とんでもない」と反対されました。両親はかねがね、病院つきのお嬢様のところへ私を婿入りさせる気でいたからです。しかし、私にはみじんもその気はありませんでした。「もう決めたんだ。国家試験に受かったら結婚する。反対なら反対でもいい。結婚式には父さんたちを呼ばないまでです」と宣言しました。頑固は父親譲りでもある気性です。

そんないきさつもあり、医師国家試験は私と妻にとってはどうしても受からなければいけない人生最大の試験になりました。

そこで、過去10年間に出題された、いわゆる「過去問」を徹底的にリサーチし、ヤマを張ることにしたのです。そのとき大いに役立ったのが、10代の頃に夢中になった高校野球の予測分析と、妻の支えでした。ヤマは見事に当たり、医師国家試験に合格することができました。ここでもまた私は、興味を感じる対象には過剰ともいえる集中力が向けられ、もくもくと努力することができる「発達障害」の特性に助けられたのです。

自分の障害を「俯瞰」できるようになった

私は自身も発達障害の当事者であるためか(気がついたのは研究してしばらくたってからのことですが)何かに導かれるように発達障害の研究をライフワークとし、40年以上も夢中になって、臨床、研究に打ち込んできました。その一方でこの分野の医師や研究者を目指す学生への教育指導活動や、発達障害への理解をうながす啓発にも情熱を注いできました。発達障害を抱える私がなぜ今日まで医者としてやってこられたのか、不思議に思われるかもしれません。それはひとえに妻をはじめとする、多くの先輩や友人、同僚たちの理解とサポートのおかげであり、寛容と愛情あってこそだと身にしみて感じています。

私という人間は自由奔放で、超がつくほどのマイペース、そして何より指図されたり束縛されることが嫌いです。「同調」を強いられる窮屈な組織の中では伸び伸びと生きてはいけなかったでしょう。しかし、医師という、比較的自由で変化と刺激に富み、探究と検証が求められる職業を選んだことは幸運でした。そしてなにより、自らも発達障害であるおかげで、患者さんの悩みを理解し共感することができます。精神科医は天職であったと思えるのです。

とはいえ、もともと私は人の話をじっくりと聞くのは苦手な性分です。しかし、長年、さまざまな患者さんと接するうちに、私は自らの「発達障害」を俯瞰(ふかん)できるようになりました。反面教師というのは失礼な物言いかもしれませんが、患者さんから学ぶことはとても多く、診察とともに自分の感情を冷静にコントロールできるようになっていったのです。

障害への理解が2次障害を防ぐ

私の診療は「とことん話を聞いて、これでもかとしつこく尋ねる」問診が主です。まずは患者さんが抱えた思いを存分に語ってもらい、次に患者さん本人だけではなく、家族やパートナーにも質問をします。どんな子ども時代だったのか、両親の言動は? 兄弟や姉妹との関係は? など、詳しく聞きます。小児期における生活ぶりをあきらかにするためにも、家族からの聴取は重要です。「星野流根掘り葉掘り」と言われる入念な問診で、必ず治療の糸口が見えてくるのです。

またご家族やパートナーの方には、一方的に本人を叱ることや感情的に泣いたり落ちこんだりすることは発達障害の改善につながらないことをお知らせし、2次障害を防ぎ、家族がともに考えていく基盤を作るようにしています。

私の育った家庭はいわゆる「機能不全家族」(家族としての機能が果たせず、子どもが健全に育つ条件が欠けている家族のこと)でした。発達障害に機能不全家族が加わると症状の悪化や2次障害を起こしやすくなります。虐待や暴力、ネグレクトなど、自分が子どものころにされたことを自分の子どもにしてしまう世代間伝播という問題も顕著です。しかし、「自分は機能不全家族に育った」という自覚がしっかりあれば、世代間伝播は食い止められます。傷ついた過去をうやむやにしたり、なかったことにするのではなく、しっかりと受け止めて「知ること、感じること、悟ること」が大事なのです。

発達障害者の“純粋なエネルギー”を活かす

70年近い発達障害者としての自身の経験からも精神科医としての臨床経験からも確信を持って言えることは、発達障害は決して無意味で厄介なハンディなどではなく、上手にコントロールし仕事や生活の中で活かせば、人生を深く豊かにする才能であり能力であるということです。

●興味を持ったことに集中し、決してあきらめないこと
●独自のこだわりは強力なエネルギーを生むこと
●人が思いつかないようなことがひらめくこと
●ひらめいたことは猪突猛進で実行すること

など、この純粋なエネルギーは、興味や関心の的と仕事や学業とが一致すれば、きっとその分野ですばらしい業績を残せるはずです。

そのためには、目の前の現実を虚心坦懐に観察すること。

自身も家族もありのままの姿を受け入れ、広い視野で将来を見るようにすれば、苦手なことに悩むことだけに陥らず、得意なことを見つけてそれを活かし生活することができるのです。「気づくこと、受け入れること、そして情熱を注いで生きること」。

本人やご家族、職場を含む周囲の人間が、現実に気づき自分を冷静に見つめなおすことができれば、治療の効果も上がり、改善の方向に向かう可能性は十分にあります。

さらに必要に応じて、薬の使用を検討することも必要です。適切に薬物療法を施していくと、発達障害は調整できます。

そしてぜひ、心から楽しめる「好きなこと」や「わくわくする時間」をみつけていただきたいものです。それが愚にもつかないことに見えても、発達障害を抱えて生きる方や家族の助けとなるでしょう。

星野 仁彦(ほしの・よしひこ)
心療内科医・医学博士。福島学院大学大学院教授。1947年福島県生まれ。福島県立大学卒業後、米国エール大学児童精神科留学。福島県立医科大学神経精神科助教授などを経て現職。専門は児童精神医学、スクールカウンセリング、精神薬理学など。発達障害を専門とする児童精神医学の第一人者。著書に『発達障害に気づかない大人たち』『発達障害に気づかない大人たち<職場編>』(祥伝社新書)、『発達障害を見過ごされる子ども、認めない親』(幻冬舎新書)などがある。
 
政治・社会 2017.11.27       PRESIDENT Online