机の上

我、机の上に散らかった日々雑多な趣味(イラスト・劇画・CG・模型・HP・生活)の更新記録です。

寅さん

2015-09-14 04:58:00 | 映画の味方
 そう言えば若い頃の話し。勤め先で年輩の職人さんが、社長の奥さんと口論をしていた。
どうやら残業代がしっかりと付いていないというやりとりだ。奥さんの言葉がふるっていた。
「アンタ達だってオシッコくらいするでしょう」

 寅さん映画の中では、その時々の世の中の事情が、さりげなく描かれている。

 今は朝の五時、35作目を聴き乍ら久し振りに劇画のペン入れをしている。
パソコンが直って良かった。
 
 

パソコン熱と情熱

2015-09-11 09:33:00 | 日々是茶飲み話
 パソコンには熱暴走というのがあるようだ。ネット等からの受け売りである。多くはPC内の埃が原因で冷却ファンの回転不足等で高熱を感知してPCが勝手に止まるという症状だ。

 思いかえせば一年余り前である。二台のウィンドウズが起動しなくなった。XPは時々きまぐれに起動するのだが実用にはいたらない、二三時間でダウンするし、場合によっては何ヶ月も起動しない。

 7の方はこの一年まったく起動しない。スイッチを入れてもすぐ切れるという症状だ。去年の夏の暑いある日、突然ブツッと切れて以来、ただの塊になってしまった。

 ウィンドウズが壊れてHPの更新がままならぬ様になってしまった。古いMacでは原稿を仕上げる事は出来るが、旧式なのでHPの編集が出来ない。すかっり劇画執筆の意気が消沈してしまった。(言い訳である)

 所詮電化製品、紙や鉛筆の類いと一緒で消耗品なのだから、安い物でも購入してサッサと前を向いていけばよさそうなものだが、生来の貧乏性である。なかなか処分出来ず、あちらこちらいじくり回す日々が続く有様である。

 機械いじりは嫌いではなく、昔からデッキやプレーヤーにラジカセと直して使ってきた。振り返ればそういう事にけっこう時間を浪費した事になる。口の悪い人なら買った方が安上がりだと言われそうだ。確かにそうだ。

 先立つ物がないのもそうだが、二台のPCは死んではいないと信じていた。時折、素人判断でいじくり回す事に至福を感じているから、これも娯楽と納得している。

 ネット上では親切にQ&AもあるしPCの分解の仕方や事例の動画もある。TV(PCが壊れて以来TVでネットを見ている)で動画を見ていると自分もやってみようという気になった。正直PCの分解などメモリーの抜き差し位しかやった事がない。

 この数ヶ月は胃の調子も良い。二台のPCの分解も苦にはならない。おそらく劇画執筆をサボっているせいだろうか。(また言い訳)終日、根を詰めても胃酸がこみ上げてこない。

 メインの冷却ファンとグラボの冷却ファンを分解して基板との接点部分をきれいにカスを拭き取り、シリコーングリスを塗るというネットからの情報を試してみた。

 しかし、それでも回転しないのでメインの冷却ファンを手で押し付けてみたら、 静かに回転をし続けているではないか。
7は自作PCである。見た目、冷却ファンの座りが悪いと思ったからである。
通常はビス止めが多いのであるが、これはベルトで左右から止める方式だ。
試しに片方のベルトを緩めてみた。この方が座りが良さそうだからである。

 するとどうだろう。静かにうなりを上げて起動して回転し続けているではないか。ウィンドウズ7は奇跡の復活を遂げたのである。XPの方は一度は復活したがその後、立ち上がらない。
一台で充分である。これでネット徘徊が出来る。劇画もアップ出来る。感無量である。

 先の事は分からない。明日には動かないかも知れない。この一年は無駄に過ごしたのかも知れない。
ただ、ネット検索や動画鑑賞をTVに移した事によって奥さんと情報を共有できたのは有意義だ。
しかし反面、自室で机に向かう時間が半減したのも事実だ。

 劇画執筆が中断した事が幸いして体調が良くなったのも事実だろう。
よって、PCの分解もする気なったわけでもあるし悲観する事もあるまい。

 これを機に、自身が熱暴走する番である。いやいや暴走ではなく爆走だ。情熱をもって止まる事なく。

 ウィンドウズ7は今もかたわらで、静かに動いている。

 

 

 

子供御頃(ごころ)の手塚治虫

2015-09-07 06:06:00 | 本の読味
 世間で言うところのマンガを描いて生き甲斐としている。生業ではない素人である。 

 よく尋ねられる「やはり手塚治虫に影響されてでしょうか?」と。面倒くさいから「そうです」と答える。大体は納得して、そこで話はとぎれる。世間にはマンガを知らない人、マンガを読まない人が多数いる。知らない人でも知っている手塚治虫は世間が認めるマンガの神様だ。こういう時には便利な人だ。

 子供の頃、つまり小学校に上がる前からマンガを見ていた。見てはいたが数も少なく、当時は作家の名前を意識していなかった。
心に残る名作もあったのだろうが、作品名は忘れ今では一コマ二コマ断片的なイメージしか思いだせない。

 先にのべた手塚作品も、後年書籍や今日のネットなどであの作品もこの作品も見た事があると分かった次第である。しかし当時は手塚治虫のファンではなかった筈だ。
 
 絵を描き始めたのは小学校にあがる数年前からだが、おもに学習雑誌の挿絵や絵本の影響が大だった。 それも家にはなく隣の家に御邪魔してそこの子の本を横目で見ていた。「めばえ」「幼稚園」とか今でもあるのだろうか。

 町でみかけるポスターや商品パッケージ、新聞広告やちらしも絵を描くヒントにした。それらを見て記憶して家で紙に描いていくという事に幼年期には熱中していた。やがて小学校にあがり友達も増え情報量も多くなり手塚治虫を知る事になるのだが、それでも他の作家の作品に傾倒していた。
 
 多くの作品に感銘を受けたのだが、ほとんど忘れてしまった。白土三平作品がその頃からその後まで影響を受ける主軸となり、やがて貸本漫画を知り、劇画という世の動きに心酔してゆくのである。



写真は手塚治虫の著作本。内容は御本人の事より戦後の漫画史に詳しい。目次の中の「イガグリくんの事」は興味深い。後に記する事を約束して筆をおく。
 


 

お兄ちゃんのスカウト

2015-09-06 12:53:00 | 本の読味
 いつもながら、折角の蔵書を全部読まない癖がある。パラパラとめくって興味のある目次を見てそれだけを読むのだ。実に勿体ない。

 このタイトルはエッセイ「さくら日和」さくらももこ著の目次タイトルである。親友のお兄ちゃんを、自分のプロダクションに入れようとするくだりを、ほのぼのとした文章で描いている。

 しかしこれは前にも読んだ事がある様な気がする。前にも同じ経験をして、なおかつそれ以上読む興味を起こさない。これでは、まるで本屋の立ち読みだ。それにしても何故、この本が書棚にあるのだ。買った記憶が無い。

 親友とは女優の賀来千香子だとという一点で読んでしまった。けっこうミーハーである。不覚だ。

 そういう身に憶えの無い蔵書を探検する不思議な楽しみ。奥さんに尋ねても自分のではないと言うし、そうだこれはきっと娘の本だ。

 そういう本がけっこうある。