タブレットの文字打ち込みに外付けのBluetooth仕様のキーボードを使っているのだが接触不良のせいか通じが悪い。で、この文章はようやく繋がったキーボードで文字打ち込みをしている。
正直、何を書いていいのかアイデアが浮かばないし、朝方寝床でこういう事を書こうと思っていた事も忘れている。折角通じたキーボードを意味もなく試しているわけで、これといって書くものがない。
今日で十一月も終わりである。寒い日が続いている。
三船敏郎扮する島左近を模した。
司馬遼太郎原作の「関ケ原」は近年映画化されたが、1980年代にテレビドラマ化されていた。最近、動画サイトで視れたので幸運だ。
絵は見ないで描いたので、三船敏郎にはほど遠い出来だが、雰囲気は良しとしよう。鉛筆書きをスキャニングしてフォトショップで加工処理した。ペン入れして仕上げるのが本来だが、これも良しとしよう。
生成AIとやらに挑戦しているのだが、ままならない。言葉を入力して絵を作るという代物なのだが、入力言語が英語でなければならいというのが首を絞めている。
そればかりではなく、パソコンのスペックが低いというのも壁になっている。世の中の流れは急速で、気がつくと二十年以上も前の古いパソコンを、いまだに使っているし、ソフトも当時のままだ。
世の先人たちは昨今のAIを使わないのは愚であると言っている。その言葉に踊らされている節もある。無料の体験版に、あちこちと手を出している。踊れぬ猿に、踊る猿である。もちろん自分の事である。
本日は十一月には珍しく大雪であった。昨夜玄関前の雪はねをやり、今日は更に屋根の雪下ろしをした。世の中がどのようになろうとも冬は来るし雪は降る。一昨年は災害級大雪であった。今年はどうであろうか。
降る雪はソフトでもこちらはハードである。ソフトにハードとなんだかコンピューター用語のようである。もし降る雪が石のようにハードだったらどうしよう。子供の頃には、この雪が砂糖だったらと夢想したものだ。
チャットGPTや生成AIも使う手前が砂糖の頭の猿であれば、宝の持ち腐れである。先人たちに怒られそうだが、さっさと身を引いた方がよいかも知れない。彼の地は半年近くも冬である。ソフトにハードと、もう充分である。
絵は画像生成AIでポチッとな。自分の絵を取り込んで、手を上げる女性とプロンプトを打ち込んだ。