「樺島勝一」
氏の名前を知ったのは亡くなった父からだ。
戦前、戦中、戦後と活躍した、挿絵画家だ。
13才の頃だったと思う。当時は漫画雑誌は「ガロ」一誌を購読するのみだったと記憶している。
たまに気に入った作家が載っていれば青年誌を買う位であまり熱心な漫画読み手ではなかった。
1964年頃、貸本時代の作家が徐々にメジャーな雑誌に登場しだした頃である。
その中に水木しげる氏やつげ義春氏もあって同誌に短篇を発表していた。
つげ義春氏が水木しげる氏のアシスタントをしていた事もあり両氏の画風に共通点があったと思う。
細密に描かれたペンタッチに心奪われたものだ。
「樺島勝一のペン画にはおよばない」父の言葉である。
樺島勝一氏は父の世代の挿絵画家である。
戦前の少年倶楽部で活躍して樺島の前に樺島なく樺島の後にも樺島なしと、記述がある。
戦後にも少年サンデーに1962年に寄稿とあるのでもうすでに自身の細胞にすりこまれていたと思う。
きっと水木しげる氏も影響を受けたのだろうか。
何十年も経って画集を手にした。
至福の瞬間である。
氏の名前を知ったのは亡くなった父からだ。
戦前、戦中、戦後と活躍した、挿絵画家だ。
13才の頃だったと思う。当時は漫画雑誌は「ガロ」一誌を購読するのみだったと記憶している。
たまに気に入った作家が載っていれば青年誌を買う位であまり熱心な漫画読み手ではなかった。
1964年頃、貸本時代の作家が徐々にメジャーな雑誌に登場しだした頃である。
その中に水木しげる氏やつげ義春氏もあって同誌に短篇を発表していた。
つげ義春氏が水木しげる氏のアシスタントをしていた事もあり両氏の画風に共通点があったと思う。
細密に描かれたペンタッチに心奪われたものだ。
「樺島勝一のペン画にはおよばない」父の言葉である。
樺島勝一氏は父の世代の挿絵画家である。
戦前の少年倶楽部で活躍して樺島の前に樺島なく樺島の後にも樺島なしと、記述がある。
戦後にも少年サンデーに1962年に寄稿とあるのでもうすでに自身の細胞にすりこまれていたと思う。
きっと水木しげる氏も影響を受けたのだろうか。
何十年も経って画集を手にした。
至福の瞬間である。