5月28日から始まる「赤木明登ぬりもの展」のDMがソロソロ仕上がってくる。そんな矢先赤木さんから「美しいこと」発売のお知らせメールが届いた。↓6月6日にはギャラリーにて赤木さんの「ぬりもの」+「職人」をキーワードにしたギャラリートークとささやかな宴会を行う予定!
新刊のご案内
「美しいこと」赤木明登(新潮社)1995円
好評既刊「美しいもの」続編
「美しい」って何だろう?さらに深まった問いを胸に、気鋭の漆職人が、もの作る人々と対話し紡ぎ出した15の物語。
ー美しさをもとめて、こんなに豊かな出会いを重ね、こんなに真摯な思索を紡いでいたとは。 木田元(哲学者)
書評
美しいもの、そして、こと 山口信博
塗師・赤木明登は、漆を塗りながら哲学をしているのだと思う。市井の人々の中にも時々いるではないか。農夫だったり下駄職人だったりという直接世界に触れながら思索を深めている人が。 どうも僕等は、哲学というと抽象的な思弁を追求している哲学者だけが哲学しているように思いがちだが、それは哲学を研究している人であって、哲学しているとは限らないのかもしれない。 赤木明登は問う。問いかける相手は、ものをつくりながら、ものに直接触れている人々だ。
例えば、かつて赤木明登の弟子だった新宮州三に向かって、こう問う。
「弟子として修行しているあいだは、何を考えていたの?」
「親方のことばかり考えてました」
「親方の何を?」
「自分の作っとんのは、親方のもんなんで、親方の作るもののことだけ、いう意味です」
「いろいろと教えてもらえたの?」
「いえ、全く何も教えてはもらえませんでした」
「そう、それでいいんだよね」
「はい。僕が輪島を離れるとき赤木さんが『弟子に入ったら、自分のことは全部捨ててしまえ、滅私奉公やぞ』って言うてくれた意味が、七年たってようやくわかりました」
続けて、赤木明登は弟子になることは、自分を徹底的に消しさる時間のことだと言う。弟子とは、何かを教わる者ではなく、小さな自己を捨てる者だと綴る。赤木明登もそのような弟子の時間を生きたのだろう。
「そしたら、自分の中に、見えへん形が確かにあることに気づいたんです」と新宮州三は答える。
それは、小さな自我から生み出される癖や好みのレベルを超えた、本来の大きな自己を掴みとったものだけが発しえる確たる自信と喜びにあふれたことばだ。
「木は、板の状態でもう完璧なんです。そこに僕が鑿を入れたとたんに、バランスが崩れて変なものになってしまう。一度鑿を入れたら、もう一度完璧な形になるまで手を加えてあげないとあかんのです」
「僕のお椀とか見てて、どう思う」
「ときどき、ええ形やなあ、思うもんがあります」
「ときどきかいな」
禅の師家と弟子との公案を介しての問答のようではないか。主客が入れ替わる美しい関係が対話の中に描かれている。何か広々としたところで、風にふかれながら、同じ月を見ているような会話だ。
他にも十八名の人々が登場する。ドイツ人の万年筆の職人、陶芸家、家具デザイナー、服のデザイナー、和紙職人、染色家、ガラス作家、料理家、建築家など、ものづくりをする人々だ。
その人々が、赤木明登の真摯な問いに対して真摯に答える。その答えに赤木明登は、さらに悩み、混乱し、苦しみ、思索の深みへと降りたっていく。
本書『美しいこと』の中で語られる懊悩は、赤木明登一人のものではなく、この時代に生を受けたものが共有しているものだろう。それは、ものをつくることに関わっている人だけのことでもないだろう。多くの人々に読んでもらいたい一書である。
(やまぐち・のぶひろ グラフィック・デザイナー)
赤木明登著/写真・小泉佳春『美しいこと』978-4-10-302572-6 発売中