作品は、オランダのデルフト・欧州のピューター・初期伊万里・明治期の日本の洋食器などその時代の暮らしから、必然的に生まれた食器を当時の作り手達が器に込めた思いを探求し再現されている。
ピューターとは、スズを主成分とし、これにアンチモンや銅を加えて調整した合金。ピューターの歴史は古く、少なくとも2000年前に中国でつくられていたことが知られてる。ピューター工芸は、ローマ帝国占領下のイギリスで始まりまり。中世からルネッサンスにかけて、イギリスの主要な輸出品だった。中世になると、ピューターの人気は急速に高まっていきました。1290年頃、イングランド王エドワード1世は300ものピューター製の皿や塩壺を所有していて、銀製の皿は一枚も持。さらに1348年までには、ロンドンが世界最大のピューター製品生産地になります。ヨーロッパでピューター製品が一般の人々に使用されるようになったのは15世紀頃。また、16世紀末までにはピューターギルドがパリやマルセイユなど各地に設立され。17世紀にはピューター製品はその最盛期を迎えた。18世紀になると磁器製テーブルウェアの大量生産が始まり、ピューター製品の人気は翳りを帯びて。ビクトリア時代に電気メッキ製品が生産されるようになり、ピューター製品は日常の食卓からは姿を消していった。その後日常用品としての生産量が減少する一方、クラフトマンシップに支えられた良質な工芸品としての評価が確立していき。19世紀後半のアーツ・アンド・クラフツ運動とそれに続くアール・ヌーヴォーの流行の時代には、ピューターの鋳造による優れた作品が製作された。
デルフト陶器とは、16C頃にはオランダ各所に陶器の窯元があり、マジョルカ焼きの流れを汲む陶器や、イタリアやスペインから伝えられたガラス細工などを製造していた。デルフトにもこれらの製造元があり、小規模ながら陶器産業が発達していた。17Cになり、東インド会社が中国から大量の陶磁器を輸入し始める。中国陶器の持つ独特の色合いやエキゾチックな模様に魅かれ、地場の陶器の人気がなくなっていく。そこでデルフトの陶工達は中国陶器のイミテーションを作ることで生き残りを図る。中国陶器の製作過程を見たこともなかったため、独自の作り方で試行錯誤を重ね、陶工の創意と独創性が反映された白地にデルフトブルーと呼ばれる青い模様のデルフト焼きが生み出されていった。中国陶器だけではなく、ペルシアや日本の伊万里の影響も受け、デルフト焼きはそれまでの西洋的な陶器とは異なり、また、中国陶器とも一味違った魅力でヨーロッパでの人気を獲得していく。その後18Cまでたくさんの窯元がデルフト焼きの看板を掲げていたが、イギリス製陶器との競合や経済の悪化が理由で多くの窯元は閉鎖、当時から残るのは王立ポースレン・フレスのみ。