ひまわり博士のウンチク

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「東京大空襲」から70年

2015年03月10日 | 昭和史
 今日は、「東京大空襲」から70年にあたる。東京への空襲はこれだけではなかったが、3月10日未明の空襲はことさら大規模なものだった。
 ここに一冊の写真集がある。石川光陽が警視庁のカメラマン時代に東京大空襲の全貌を撮った写真を日記形式の手記とともにまとめたものである。
 『グラフィックレポート 東京大空襲の全貌』1992年3月10日、岩波書店の発行で、東京大空襲から47年目にあたる日であった。
 

 
 戦争が始まれば空襲があることは予想していたのだろう、防空演習は昭和8年(1993)頃から行われていたらしい。しかしそれが本格的になったのは太平洋戦争が始まってからで、隣組単位の防空演習が定期的に行われた。「逃げるな、消火に務めよ」というのが国からの通達であった。しかしそれを守った多くの庶民が命を落とす結果になった。
 

 
 18ページに掲載された1枚の写真(昭和18年=1943撮影)。バケツリレーと細いホースでの放水、まるで植木に水をやっているような長閑な写真であるが、ほとんどの人がこれで焼夷弾の火が消えると信じていた。あらゆる情報が極秘扱いされ、焼夷弾の実態を人々はまったく知らなかった。これが防空演習である。
 同時に「防空」と名のつくグッズがいくつかあった。人々を蒸し焼きにした庭先の浅い「防空壕」、火が燃え移って人間バーベキューを作った綿入りの「防空頭巾」など、役に立たないどころかかえって被害を拡大した。「防空頭巾」は戦後、防寒具として使っていた記憶がある。
 

 
 昭和20年(1945)3月10日、墨田区本所の焼死体。死体をここに集めたわけではない、このように、いたるところ焼死体だらけであった。この日、数時間のあいだに約10万人の人が犠牲になった。
 石川光陽は3月10日付の手記で次のように書いている。(抜粋)
 
 3月10日 土曜日 晴 強風 風位北
 さきに房総半島沖をはるかに遁走した筈の敵機は、B29の約130機を主力にして、超低空で午前0時25分頃江東地区に襲いかかってきたのだ。探照燈の光芒は銀色の敵機を捕え、その周囲にいくつかの高射砲弾の作裂するのがよく見える。来たなと思った瞬間、江東地区の夜空が真紅に染って大火災の発生を知らせた。
 私は急いで屋上から防空本部室に入ると、正面の大管内図に青赤の豆ランプが本所、深川、江戸川、浅草地区に無数に光っていた。
 原警務課長の前に行って、これから現場へ急行する旨を報告すると、課長は私の手をしっかり握って「そうか行くか。今夜の空襲は今までとは違っている。充分気をつけてな、死ぬなよ、元気で帰ってくるんだぞ」。課長は部下思いで常に部下の身を案じておられたが、こんなことを言われるとなにか異常なものを感じた。
 すぐ裏庭の車輛班にいき、何回も猛火の中を私とくぐり抜けてきた老朽のシボレーにエンジンをかけて出発した。オートバイの伝令も飛び出して行った。
 (中略)
 火は倍々たけりたって強風を呼び、その強風は火を煽って、多くの逃げ感う人びとを焼き殺していった。私の目の前でも何人かが声もなく死んでいったが、どうすることも出来なかった。倒れた死体は路面を激流のように流れる大火流に、芋俵を転がすように流されていってしまった。猛火は横に唸りを発して街路を火焔放射器のように走り、その火流の中を荷物や布団が大小の火の玉になって無数に転がっていく。眼前の建物は屋根を残して、筒抜けに猛火が突き抜けて、隣から隣へと劫火は突っ走っていくのがよく見える。
 私は最早これが最後だと覚悟した。然し勝利の凱歌を聞かずにここで死んでいくことはなんといっても口惜しい。
 じっと眼をつむっていると心のどこかで、猛火渦巻き狂うこの修羅場にわれ等同僚は今ぞすべてを擲って、ただ醜敵の猛攻撃の前に敢然と立ちはだかって、1人でも多くの都民を救出しようとの一念に燃えて、鬼神も哭く働きをしているのだと思うと、じっとしていられなくなった。
 (中略)
 それからどこをどう這い回ったか判らなかったが、劫火はまだ空を蔽って流れる猛煙を真っ赤に染めていたが、いつの間にか敵機の姿はなく、煙の間を通して東の空がうす明るくなってきた。その時、私は生きていたんだとはじめて感じた。
 周囲にも何人かの人が生きていた。その人たちの姿を見て私はとめどなく涙が出て仕方がなかった。悲しかったのではない。見知らぬ人びとだがよくぞあの猛火を潜って生きていてくれたと思うと嬉しかったのだ。すぐにも抱きついてみたい衝動にかられた。そしてこの試練に打ち勝った人びとに「さあ戦友よ、前進あるのみだ、一切の退路は断たれ道は焼けただれているが、ひたむきの前進あるのみだ。それが勝利へのただ一つの道なのだ」と叫びたかった。
 その人たちの顔は真っ黒にくすぶり、眉毛や頭髪は焼け、煙と灰塵で目がただれたようになっている。衣服はボロボロになって焼け焦げだらけ、手首はやけどで赤く腫れ上っていて痛々しい。そういう私も同じ状態で、まだ燃え盛る道路に出た。
 電車通りには至るところ架線がおちて蜘蛛の巣のように垂れ下がり、電車は焼けて骨だけ残り鉄の大きな鳥籠のようになって焼け残っていた。昨夜来の強風はきなくさい煙を焼け跡からしきりに送りつづけている。
 私は死体の多い言問橋を渡り、浅草花川戸に行き、両国橋の交番まで来たが、私の乗り捨てておいたシボレーも完全に焼けていた。私はトボトボと警視庁へ向って歩き出した。
 (以下略)
(86~92ページより)
 
 近頃は、東京が空襲を受けたことすら知らない人が増えていると聞く。自分には関係ないと考える無関心な人の多さに驚く。関心があろうがなかろうが、戦争が始まれば頭の上から爆弾が降ってくる。そのときになって、反対しておけばよかったと後悔しても手遅れなのだ。
 戦闘員だけでなく、非戦闘員(一般人)も多大な悲劇を被る、それが戦争だ。
 戦争で平和は創れない。憲法で戦争をしないと誓った日本だからこそ、世界中の紛争に歯止めをかけることができるはずだ。けっしてどこかの国と一緒になって闘ってはならないのだ。
 しかし今、安倍晋三極右政権(アメリカの新聞で「ウルトラライト」と表現された)によって、不戦を誓った憲法9条は風前の灯である。日本がなぜ70年もの長期にわたって平和だったのか、自衛隊は人を殺さず、日本人で戦争の犠牲になった人はアジア太平洋戦争以降まったくない。憲法9条があってこそであることを肝に銘じるべきだ。
 ある人が言った。「脱原発も、秘密保護法も、集団的自衛権も、TPPも、憲法改定も、私たちの生活を大きく左右する重大な問題であるにも関わらず、まるで人ごとである。反対か賛成かと聞けば、ほとんどの人が反対と答える。それなのになぜ、これらを推進する自民党が大勝するのか。ようするに、ほとんどの日本人が自分の暮らしを守ることに本気になっていないのだ」

 その通りだと思う。
 日本人よ、本気になろう!


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