礒永秀雄という詩人で童話作家のことを、まったく知らなかった。『長周新聞』に作品を連載していたとのことで、時期は60年、70年安保当時だから多分読んでいたはずなのだけれど、すっかり忘れてしまったのだろう。
最近『長周新聞』の購読をはじめて、一般広告のない紙面に掲載した自社広告と、山口県の小学校で童話の読書会などが開かれていることの記事を通じて、興味を持った。
先月、『長周新聞』の記者に会った際、礒永秀雄の本を一冊、お薦めのを購入したいと頼んだところ、『おんのろ物語─礒永秀雄童話集』(2005年)を送って来た。
長周新聞社の本は一般書店(Amazonを含む)では販売しておらず、購入するには直接申し込むしかない。そのかわり、安価だ。
『おんのろ物語』の表題作は含みの多い作品だ。「おんのろ」とは「のろまの鬼」という意味の綽名である。作品中の鬼は必ずしも悪者ではない。村人から搾取している長者の蔵から宝を盗み出し、貧しい村人達に分配しようと計画する。そのときになぜか鬼達は、これまでバカにしていた「おんのろ」を大将に持ち上げ、長者の屋敷を襲うのだが、これまで内に秘めていた「おんのろ」の優しさや聡明さが発揮される。長者屋敷襲撃は、単なる押し込み強盗に留まらず、村の仕組みを変えるほどの変化をもたらす。つまり、一種の無血革命にしてしまったのだ。
いくつか読み進めているうちに、礒永秀雄の人間像に触れてみたくなった。しかし、ネット上には満足な記述が存在しない。そこで既に絶版になっている『礒永秀雄作品集』の古書を取り寄せ、詩作品と巻末の解説を読む。
礒永秀雄は1921年に朝鮮の仁川で生まれ、東大在学中に学徒動員。22歳から3年間ニューギニアの手前、ハルマヘラ島に送られた。切り込み部隊要員にされながら九死に一生を得て1946年に福音、詩人を志す。1971年、わずか55歳で生涯を終えている。
礒永秀雄は「人民にとって帝国主義戦争が何であるかを血みどろの体験によって自己の魂に刻みつけて帰ってきた」のである。
それにしても、これほどまでに強烈な怒りを感じた作品群に、近年の作家からは味わったことがない。苛酷な戦争体験──ニューギニアで菊の紋章を削り落とした銃を海に投げ込む異邦人の姿、広島駅頭で泣くようにさよならを言って立ちつくしていた生き残った戦友(「十年目の秋に」)──からは、天皇が出来たはずのことをなぜしなかったのか、これからの平和のために出来るであろうことをなぜしないのか激しく問いつめる。
現代感覚からすれば、時代遅れかもしれない。現代の日本人には受け入れ難い感性かもしれない。しかしこれを拒絶するのではなく、まさに戦争の足音が近づいている現代だからこそ、読み返して、行間に存在する奥深いメッセージに共感することが必要ではないだろうか。
【参考】
『おんのろ物語』(長周新聞社 1500円)
『礒永秀雄詩集』(長周新聞社 1000円)
『礒永秀雄作品集』(長周新聞社 絶版 古書で入手可)