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「いじめ自殺問題」の問題点 その2

2006年12月01日 | 社会・経済
 25日付けで『「いじめ自殺問題」の問題点』と題する記事を投稿したら大変多数のアクセスがあって、今の最大関心事であることがわかった。
 そこで、前回よりももう少し踏み込んだ内容を書いておこうと思う。
*テレビ朝日「朝まで生テレビ」(参加者:寺脇研 伊藤玲子 喜入克 鈴木義昭 中嶋博行 長谷川潤 宮崎哲弥 森越康雄 八木秀次 葉梨康弘 蓮舫 福島みずほ)で行われた「いじめ自殺問題」についての討論に関する記事は、11月25日付け。


“いじめ”の要素は誰もが潜在的に持っている

 前回、“いじめ”は永久になくならないということを書いた。だから諦めろということではなくて、無くならないということを踏まえた上での対処が必要だということなのだ。
 年配の人ならご存じだろうが、かつてすべての人に天然痘予防のための種痘が行われていた時期があった。だから、体のどこかに残された種痘の痕で、その人の年令がある程度判断できるとまでいわれたものである。
 しかし天然痘は、1977年を最後に患者発生の報告が無くなって、1980年に「根絶宣言」が出された。
 これは人類の努力によって、一つの禍を無くした代表的な例である。
 “いじめ”を病気扱いした人がいるようだけれども、残念ながらこれは病気ではないので天然痘のように根絶できない。なぜなら、“いじめ”の要素は誰もが生まれながらに持っているものであって、誰かに教えられたとかそういう性質のものではないからである。

 “いじめ”の要素が生まれつき人の中に存在していることの証拠は数々ある。
 「他人の不幸は密の味」などという意地の悪いOL。
 「ミサイルとか、いっぺん撃ってみたいじゃないですか」などと、危険なことを平然という若者。
 「ハンティングに行ってみませんか、爽快ですよ」という、金もてあましのおやじ。
 などなど。

 実際に“いじめ”という行動に現わさないまでも、“いじめ”ることに快感を覚えるであろう人は少なくない。それをおさえているのが、“理性”であって、自分の感情を自分自身でコントロールできる唯一の生物である人間の特性でもある。
 しかし、子どもは生まれながらにこのような“理性”を持って生まれてくるわけではない。「オギャー」と生まれたときから、「夜中に泣いてお母さんを起こすのは気の毒だから、今日はおとなしく寝ていよう」なんて赤ん坊がいたとしたら気味が悪い。
 子どもというのは、
 「他人のことなど考えない」
 「感情のおもむくままに行動する」
 「欲しいものがあれば現在の状況など考えずに要求し、手に入らなければ迷惑を顧みずに泣叫ぶ」
 「金魚鉢に手を突っ込んで金魚を握りつぶして喜ぶ」
 「カセットテープの中味を全部引き出して遊ぶ」
 小さな子どもは、これらが大人にとって迷惑なことだなどとは微塵も考えていない。そして、子どもならこれが普通あると、誰もがご存じのはずだ。「子どもだからしかたがない」ということなのである。
 そして大人は、これらの「災禍」を被らないようにさまざまな手立てを考える。
 物を手の届かないところに置いたり、近づかないように恐い顔を描いたり。

 やがて子どもは、年令を重ねるごとに分別を身に付け、いわゆる「いい子」になっていく。
 ここで勘違いしてはいけないのは、「いい子」になったからといって、我が儘や残虐性が子どもの中からまったく消滅したのかというと、そうではない。「大人の都合」で感情を押さえ込まれ、表面に現れなくなっただけなのである。
 猫のヒゲを抜かれて迷惑なのは猫であり、困るのは大人である。
 襖に落書きされて困るのも大人である。
 レストランで騒いでも子どもはいっこうに迷惑だとは思わない。
 このようなことをしないように育てることが“躾け”なのであって、子どもが成長して社会に出たときに絶対必要なことには変わりがない。だが、子どもにとってみればすべて「大人の都合」であって、「叱られるからやらない」だけなのである。
 子どもは、迷惑をかけられる側の立場になど立つことなどできない。基本的に自分のことしか考えないのが普通である。仮に言葉で「迷惑がかかるからやっちゃいけないんだよ」と言う子どもがいたとしても、自分が実際に迷惑をかけられた場合のことを想像できるはずはなく、「言葉を教えられた」にすぎない。

 本当の意味で、他人の痛みが分かるようになるまでは、相当成熟するまで待たなければならないわけだが、人によっては一生そこに到達しない人もいる。
 猫のヒゲを抜いたり、エレベーター内やトイレに落書きをする大人はたくさんいる。
 どこかの大国の大統領や、近くの国の将軍様などは、外国どころか自国の国民をいじめて自分は悦に入っている。まさに“いじめ”の権化である。

 “いじめ”の要素は誰もが持っていて、普通はそれが悪いことだと知っているから行動には出ない。しかし、悪いことだという意識がなく、感情を押さえているタガが外れれば、“いじめ”はいくらでもエスカレートする、ということだ。


小事は必要、大事をなくす

 小学校で小刀を使って作業する授業があった。そのときに教師から「手を保護するために手袋を持参するように」と言われたらしい。
 実はこれ、PTAから「ウチの大事な息子を怪我させた、どうしてくれる」とクレームに対する教師の防御策なのだろう。
 手袋をしての作業はかえって危険である。道具を扱い難いし、ものが切れたり削れたりする感触が手に直接伝わらない。だいいち小刀で手を切るときは、生半可な手袋など簡単に切り裂いてしまうから、気休めもいいところである。
 「素手でやりなさい。先生に何か言われたら『うちの人に怪我をしてもいいから手袋はするな』と言われた」と言えばいい。たしかそのように伝えておいた。
 小さな怪我は、大きな怪我をしないための学びである。一度も手を切ったことがなければ、切られたときの痛みが分からない。
 真っ赤に焼けたストーブを見て「熱そうだ」と思うのは火傷した体験があるからで、一度もやけどをしたことのない人にはわからない。 
 僕がレポートしたモンテッソーリ教育の幼稚園では、子どもが使う食器はすべてガラスか焼き物製で、プラスチックなどの壊れ難い食器は基本的に使わない。自分で洗わせて片付けるところまでやる。当然、壊すことも度々あるわけだが、それによって「物は壊れる」ことを学び、割れた食器で手を切ることも知る。

 言いたいことは何かというと、いじめたりいじめられたりしないための「小さないじめられ体験」は必要である、ということである。
 ところが大人の間では最近、前述の教師のように防波堤を設定してしまうことが多いようだ。
 ちょっと喧嘩したからといって、「もうあの子と遊んじゃいけません」という親。仲が悪そうだというだけでクラスを分ける学校。
 子どもどうしは喧嘩するものだし、仲良しが突然仲が悪くなったり、その逆も短期間のうちに頻繁に起こるのだから、いたちごっこで何の解決にもならない。

 中学生の上の子のクラスはとてもうまくいっているらしい。いろいろ話を聞いてみると、担任が遠慮せずにどやし付けるということだ。しかも、そのタイミングが非常にいいのだろう。
 「何やってるんだてめえら」
 「そんなこと許さねえぞ」
 そうどやし付けても、けっして後に残さないという。実に小気味いいらしい。
 「他の先生はね、『いいところを見つけて仲良くしなさいね』ってそればっかり」
 それじゃあ、うまく行くわけがない。“いじめ”は良いとこも悪いとこも関係ない。ちょっと乱暴ないい方かも知れないが、いじめっこというのはいじめたいからいじめるのだから、ごちゃごちゃ理屈をいうよりも「どやし付ける」ほうがよっぽど効果的だ。
 そして同時に、多少の喧嘩はほっておいて、他人の痛みを身を持って教えることも大切なのだ。その繰り返しが、やがて「自分自身で感情をコントロール」できる、高い理性に育っていくのである。
 
 最近とみに感じることは、親が自分の子どもに対し過保護になっているので、他人の痛みがわからない子どもが増えていると思う。ちょっとしたことで学校に殴り込んだり、そうまでしなくてもすぐ電話で問い合わせたりする。
 最近の小学校では、放課後の職員室で電話の音がなりやまないそうだ。そのほとんどが親からのクレームだという。
 いかに自分の子どもが正しいか、教師や他の子どもたちがいかに悪いかを必死になって“証明”しようとする。これは「親バカ」どころか「バカ親」だ。
 何かあれば親が守ってくれる、自分は絶対悪くない。そう思い込んでいる子どもがどれだけいることか。この育て方が、大人になってからどれだけマイナス要素になるか想像すると恐ろしくなる。
 本当に自分の子どもを守りたいのなら、「もしかすると、自分の子どもにも非があるのではないか」「もしかすると、親が気づかないマイナス面があるのではないか」そう考えることも重要だと思う。
 「ウチの子は悪いことなんか絶対しませんから」という親。
 そのとおり。悪いことを悪いことだと知っていてやる子どもはほとんどいない。
 これは、自分の子どもを信じるとか信じないとかのレベルではない。子どもが知らないことを教えるのが、大人の役目であることを知ってほしい。
 もっとも、善悪の区別が付かない大人というのは論外だが、残念なことに、そういう大人も少なくない。

 大事(おおごと)にしないように注意すべきは注意し、しかし多少のことは見のがす、これが大切なこと。小さな出来事を「大人の都合」で押さえ込むことで、結局はそれが大事を招くことになる。これがまさに、今起きている“いじめ”の元凶である。
 これは、親だけでなく、教師にも言えるし、街の住民にも言えることである。
 教師は、自分の保身が第一になってしまっているのではないか。無事に定年まで勤め上げて、年金で悠々自適の生活をしたいと思うのはわからないでもない。しかし、子どものことを考えているように見えて、ほとんどはそうしなければ勤務評定が下がり、自分の身が危うくなるからというので、事なかれ主義を貫かれたのでは子どもはたまったものではない。
 実際、自分のクラスで起きていることを把握していない教師が山ほどいることを、日々の報道で知らされる。
 商店街で悪さをしている子どもたちを見かけても、注意する大人はほとんどいない。めんどうに巻き込まれたくないのか、叱る勇気がないのか。


無くならないものは無くし続けること

 またまた、自分のレポートしたことで恐縮だが、モンテッソーリ幼稚園の先生が「昔はなかったことなんですが」と前置きしてこんなことを言っていた。
 「家に帰って子どもがいたずらをしきりにやるそうなんですね。そしたらそこのお母さんが怒鳴り込んできて、ウチ(幼稚園)の躾が悪いっていうんですよ。『子どもというのは悪戯するものなんです』っていくら説明してもわかってもらえなくて、『お金を払って(幼稚園に)預けているんですから、躾をするのはお宅の仕事でしょう』って言うんです」
 「この親は、完全に子育てを放棄しています」と言って先生は怒っていた。まったく、犬を訓練所に預けるようなつもりで子どもを幼稚園に送り込んでいる。その間自分は遊び回っているのである。
 「ハウス」と言えばすごすごと部屋に引っ込むような子どもにして欲しいのだろうか。
 これは小中学校になっても同じことが言える。多くの親が「学校でやってくれているからいい」と、家では甘やかし放題にしている場合が少なくない。
 度々言うように、“いじめ”の要素である残虐性や我が儘は、すべての子どもが顕在的、潜在的に関わらず持っているものなのだから、自分で感情をコントロールする理性や分別を育てるためには、教育の連続性が絶対に不可欠である。学校と家でメッセージが異なってしまってはいけないのだ。
 学校では悪いことと教わっていても、家では悪いことになっていなければ、子どもはどうすると思うか。学校でだけ気を付けていて、他ではやりたい放題になるだろう。

 親は、学校でどういう指導がなされているかを知り、学校との間で充分な意見交換をすること。これをめんどうだと思わずにやらなければならない。その上で、共通のメッセージを子どもに送り続けることである。
 そして、今現在自分の子どもがどのような分別を持っているのかを把握する必要がある。悪いことを悪いと思っていないことが、多々あるからである。そしてそれは、自分の子どもを信じないということとは違うのだ。

 無くならないものは、無くし続けなければならないのだ。
 そしてこれは、大人たち全員の仕事である。

 そしてなによりも、親も先生も、子どもを叱る技術を身に付けなければならない。というより、なぜ最近の大人は子どもを叱れなくなってしまったのかが不思議であるが。


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