monologue
夜明けに向けて
 



 ♪あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る♪
♪紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも♪

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  天智七年(668)五月五日、天智天皇が自らの権勢を誇るために催した額田王の出身地、蒲生野(近江八幡市東部・蒲生郡安土町・八日市市西部にわたる野)行幸中、設けた蒲生野特設ライブ会場で華やかに幕を開けた移籍お披露目の宴(うたげ)において額田王は♪あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る♪と歌い艶(あでや)かに舞い踊って人々を魅了した。かの女は子を生んでもなお才色が輝いていたのだ。それに返して♪紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも♪と感情を抑えつつも狂おしく歌い舞う大海人皇子の姿は観衆の心を撲(う)った。時の権力者とその弟君との美貌の人気シンガーソングライターを巡るスキャンダラスな三角関係をあからさまに詠んだこの二首の歌は近江京に集う都雀たちのもっぱらの話題となり大ヒットしたのである。このとき、大海人皇子が心にひめていたものが恋だけではないことは取り巻きやファンたちには通じていた。

 天智天皇はそれまでの同母兄弟間での皇位継承の慣例により同母弟の大海人皇子を一応皇位継承者としていたが、天智天皇10年10月17日(671年11月26日)、それに代わって唐にならった嫡子相続制を導入して自分の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継者としようとした。天智天皇の意向が大友皇子への政権委譲であると知った大海人皇子は政権への意欲を見せれば自分の身が危険であると判断して心ならずも大友皇子を皇太子として推挙し出家を申し出て奈良県吉野の吉野宮に入った。まだ政権への意欲はひめ続けねばならなかったのである。我慢、我慢。いつか花が咲くその日まで。

  そして天智天皇10年12月3日(672年1月7日))、近江宮においてついに天智天皇が46歳で没して大友皇子が二十四才で政権を継いだ時、大海人皇子は兄の存命中ひめにひめてきた政権奪取の心を解き放ち天武天皇元年6月24日、吉野を出立した。各地で兵 を集め近江朝廷へと進撃したのである。瀬田橋(滋賀県大津市唐橋町)の戦いで大友皇子が自決したことでこの壬申の乱は終結し、翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は都を飛鳥に戻し飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位したのであった。かれは国を統治する者の呼称をそれまでの大王から天皇に改めて天武天皇と呼ばれることになった。

♪紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも♪という自作の歌は大海人皇子時代のかれを内側から支え続けたのだ。
fumio


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