monologue
夜明けに向けて
 

一瞬  


隣の席のアルゼンチン娘、オルガはある時、「男のものは日本語でどう言うの」と訊く。わたしはそんなことを訊かれると思っていなかったので虚を衝かれて外国人にどう教えたらいいのか、あなたもきっと迷うように少し迷ってノートにchin chinと書いた。すると、そうチンチン、わたしの国では女のほうはこういうのとラテン語らしいスペルをノートに書く。わたしは確かめるためにその言葉を発音してみた。すると突然態度が変わり「声にだして読まないで」と眉をしかめて怒りだした。自分が先に訊いておいて勝手に怒るな、と思ったがまわりのラテン系の人には意味がわかるから戒めたのだろう。おかげで一瞬見たその言葉は覚えることができなかった。残念なようなそうでもないような気がした。
fumio

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LAハイスクールのわたしたちのクラスに入って来た、かわいいアルゼンチン娘オルガ(OLGA GOMEZ)は英会話力も文章力もあるので先生たちが重宝して米国公共学校の英語コラムを書けと頼んだ。それまでは、どこから来た学生もコラムを頼まれると出身国の紹介をしていたのでオルガも喜んで受けてアルゼンチンのお国自慢のコラムを書いた。それでわたしはそれまでなにも知らなかったアルゼンチンという南米の共和国の基本的な知識を得たのだった。そのコラムの評判がとてもよかったので先生たちは、次はfumioが書けとわたしに書くように迫って来たのである。
わたしはこれまでの学生たちのコラムのように出身国の紹介をするほどの英語力がまだないのでまったく違う内容の「歌を作ろう。信じようと信じまいとだれでも作れる。あなたにもできる、とにかくやってみよう。」という英語コラムを書いてみた。
すると、予期せぬ題材で衝撃的だったようで次から次へと先生たちがやってきて「fumio、どうしたらいいの。わからない」と訴えてきたのだった。
それで「でたらめでもわけがわからなくてもなんでもかんでもまず歌ってみて」と励ましたのだった。あのコラムを読んだだれかがその方法で名曲を生んだかも…。今このブログを読んだあなたが名曲を作るかも。
fumio


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66  


一時、巨大竜巻がカリフォルニアで発生したことをよく報じていたことがある。ABCニュースではキャスター、ダイアン・ソウヤーが竜巻の被害に遭ったミズーリ州ジョプリンから中継してジョプリンの町を説明するのに「ルート66」の歌を覚えていますかと視聴者に尋ねた。
「ルート66」とはシカゴからカリフォルニアまで2000マイル以上も走って達するという歌でまずナット・キング・コールでヒットして
同名のテレビシリーズができた時、主題歌としてジョージ・マハリスがロック風に歌っていた。その歌詞は「ジョプリン・ミズーリ、オクラホマシテイ 」とジョプリンや、オクラホマシテイが途中で出てくるのである。オクラホマシテイにはライブハウスに息子が大学時代「エンプティカップ」というバンドで週末に出演していた。
わたしは息子のオクラホマの大学バンドメンバーマイケルやブランドンたちとMSNメッセンジャーで交流したとき、かれらは勝新太郎のファンで実際に会ったことがあるかとわたしに尋ねてきたりしてそれからセッションしたいというのでかれらの演奏を数曲聴かせてもらったあと、わたしにもなにか歌えという。
それで歌詞にかれらの町、オクラホマシティが出てくる「ルート66」を選んで伴奏を頼んだものだった。
まだADSLの時代でインターネットで米国で伴奏し日本で歌うのは太平洋をまたぐタイムラグがあってギターの音が微妙に遅れてリズムがとりにくかった。「ルート66」の最終地点サンタモニカの海岸からそのまま海に入り海底の太平洋プレート上を走れば日本に達するのだ。その日のわたしたちのパフォーマンスは本当の「ルート66」だったのである。
あの時のインターネットのチャットに集まりわたしと楽しい時間を共有した先進的なオクラホマの大学生たちは日本人は英語で普通に会話できてアメリカのテレビシリーズの主題歌程度なら原語で歌えるのだと思っただろうか。
fumio

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宮下フミオの自宅スタジオに集まるアーティストのひとり、「走れコウタロー」でヒットした山本コウタロー(本名・山本厚太郎)は1年間アメリカで暮らしていた。かれはパチンコが好きだったらしくリトルトーキョーでパチンコ台と玉を買ってきて遊んでいた。
その頃のロサンジェルスには梁山泊のような芸術家集団が共同で大きな家に暮らしていた。ある日、かれらがサンフランシスコに自生するマジックマッシュルームを採ってきてカレーを作ったことがあった。わたしがその家に行って将棋をしていると昼食を食べろというのでキノコが入っていることを知らず勧められるままに食べているところにコータローが来てかれも勧められて一緒にそのカレーを食べたのである。わたしは将棋をしているうちにそのキノコの成分が効いてなにがなんだかわからなくなっていつも勝つ相手に負けかけた。コータローはサンタモニカ海岸までドライブしてきて帰ってくると太陽がすごい勢いで海に落ちたように見えたという。やはり感覚がおかしくなったらしい。そして、一休みした時わたしが将棋を指そうか、というと嫌がったのだった。
それからある時かれはシゲ(中島茂男)とわたしがコンビで出演してるハリウッドのクラブを訪れてじっと聴いていた。わたしたちはその頃、今は日本でもCD化されているプログレッシヴロックアルバム「プロセス」を作るために曲をクラブで実際に色々演奏しながら仕上げていたのだった。未完成で曲はまだ中途半端だったのであまりよく思えなかったことだろう。
そして日本に帰ると「アメリカあげます」という本を書いて中島に送って来た。その「アメリカあげます」の中でコータローはわたしの相棒ギタリスト、中島茂男を名指しでがんばれ、と応援している。
そのコータロー自身アメリカでレコードを作ろうとしたがカラオケはできたけれど最後のヴォーカル録音で満足できる歌が録音できなかったので発売までゆけなかったという。2022年7月4日、山本コウタロー、73歳で脳内出血で死去。合掌。
fumio

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憧れ  


その頃、米国でハリウッド制作戦国ドラマ「Shogun」が大ヒットしていた。
そのヒロイン島田陽子も宮下フミオの自宅にやって来た.
映画「人間の証明」で主役の黒人ハーフの青年を演じたジョー山中は家が見つかるまで居候していた。わたしが相棒のシゲさんをエンターテイナーの仕事で迎えに行くと
「行ってらっしゃい」とわたしたちを送り出してくれた。すごく礼儀正しい好青年だった。クラブの仕事が終わってわたしが車でシゲさんを宮下家に送ってゆくと「おかえりなさい」とリビングルームで待っていたのである。
京都駅前のデパート「丸物」屋上の海外ニュースでよく動静を採り上げられていた、ミッキー・カーチスと「サムライ」もその頃ツアーで、ロサンジェルスに廻って来たのである。それでわたしがしばらくのちにプログレッシヴロックアルバム「プロセス」を製作する時、宮下にプロデュースを頼みミッキーカーチスのバンドのツアーで来ていた島健にピアノを頼んだのだった。思えば、丸物デパートでの憧れがそんな風に実を結んだようだ。
fumio

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わたしは幼い頃、映画「スターウオーズ」のヨーダのモデルになった脚本家、依田義賢の依田家の嫁に入った富子叔母さんに連れられて太秦撮影所見学に行ったことがある。その時、新人、勝新太郎が遠山金四郎を演じていた。

そして時と場所は移り、後年渡米した勝新太郎は宮下フミオの自宅スタジオに居候していた時、映画「座頭市」の音楽としてティアック8トラック・レコーダーに三味線を弾いてレコーディングした。杵屋の跡取りとして修業していたので弾けたらしい。コードはE一発だった。わたしは宮下に請われてその三味線に合わせてベースをレコーディングしたことがあった。
芸能界で一番洋楽のスタンダードのうまい歌手は石原裕次郎か勝新太郎かということがよく話題になったが、その勝新太郎はたった一度、宮下フミオのアコースティックギターのバックでリトルトーキョー劇場でライヴを行ったというニュースが翌日の羅府新報に掲載されたものだった。
海外でも勝新太郎は人気でヨーダ依田義賢 が脚本を書いた映画「悪名」シリーズに勝新太郎演ずる八尾の朝吉親分が鉄砲光三郎の太鼓で河内音頭を唄う場面があった。それでわたしの息子の友達のオクラホマの大学生たちマイケルやブランドンたちは勝新太郎のファンで実際に会ったことがあるかとインターネットのチャットでわたしに尋ねてきた。かれらにとってはなにか、近寄りがたい存在のようだった。
fumio

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わたしは英語の歌を歌って生活するために渡米したのだが働かなければ暮らしてゆけないので生活のために俳優の若山富三郎がオーナーのロイさんと親しいのでアメリカに来ると寄るというロサンジェルスのダウンタウンの「栄菊」というレストラン寿司店のエンターテイナーとしてギターの弾き語りに入った。そして、しばらくしてある時、クラブ「エンカウンター」という大型クラブのオーディションが催されてシゲさん「中島茂男と初めて会ったのである。二人でエンターテイナーをしているとヨーロッパツアーからアメリカツアーにやってきたファーイーストファミリーバンドの宮下フミオと会った。フランスではかれのバンドの曲がベストテンヒットに入ったと言っていた。別の国のことなのでそれがすごいことなのかどうかもその時はわからなかった。
宮下家は妻のリンダの才覚で維持されて来る者は拒まずだった。それで、その家は渡米した芸能関係の人々のたまり場のようになっていた。ジョー山中、ミッキーカーチス、勝新太郎、などなどが居候したりパーテイしたりレコーデイングしていたのである。
fumio

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スリーフィンガーピッキングといえば加藤和彦を思い出す。
NHK教育テレビの「スリーフィンガーピッキング奏法講座」で弾き方を教えていた。おかげでわたしもスリーフィンガーピッキングができるようになったのだ。
日本中のフォーク系のギタリストの先生のような存在だった.音楽的感性が秀でていて「帰って来たヨッパライ」「あの素晴しい愛をもう一度」「タイムマシンにおねがい」など新たな感覚で時代を開く存在として生きた。ロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」ではイギリスに行き活躍した。すごいと感心した。
 当時、加藤和彦の母校、龍谷大学の講堂でライブコンサートがよく開かれて、わたしがスリーフィンガーピッキングで歌った 「打ち上げ花火」を女性デュオで歌いたいというのでOKした。その頃はまだ二番までしかなかったがかの女たちの参加したコンサートを見に行くとでスリーフィンガー奏法で立派に演奏していた。男のわたしが歌うより詩情に溢れているような気がした。京都という土地柄、わたしの知らないうちにご当地フォークとしてかの女たちのまわりでヒットしていたようだった。加藤和彦が拡めたスリーフィンガーピッキングは日本国内にとどまらず多くのアーティストに受け継がれた。
わたしはアメリカのハイスクールでアルゼンチン娘、オルガのエキゾチック日本語発音の「打ち上げ花火」のバックをスリーフィンガーピッキング演奏してクラスメイトや学校中に大好評になって日本でデビューさせるといいと盛り上がったものだった。日本でヒットしたかも…。しかし、オルガはすぐに中国系アメリカ人と結婚してアメリカ永住権をとったので日本には来なかっただろうとふと思う。
fumio

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渡米  


その頃、京都駅前の丸物デパートの屋上の海外ニュースコーナーでミッキーカーチスとサムライというバンドが海外ツアーをしているというニュースを読んで憧れたわたしは英語の歌を歌って生活するには本場アメリカでなければと思って渡米を決意して、ロサンジェルスのアソシエイテッドテクニカルカレッジに留学した。そしてすぐに転校したLAハイスクールのわたしたちのクラスにアルゼンチンから来たオルガ(OLGA GOMEZ)というかわいい白人系女生徒が入ってきた。アルゼンチンで撮ったフイルムを学校で映してみんなにアルゼンチンの紹介をしたりしてものおじしない外交的な性格だった。わたしがギターを弾くと知ると「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」や「ユー・ライト・アップ・マイ・ライフ」「ウイ・アー・オール・アローン」などのバックを弾いてくれと頼んで歌った。声も良くてうまかった。歌手になりたいようだった。わたしの作った歌も歌いたがったので京都で女性フォークデュオが歌って人気があった「打ち上げ花火」の1番と2番をローマ字で書いて教えるとすぐにエキゾチックな香りのする発音の日本語で歌えるようになった。わたしはスリーフィンガーピッキングでバックを弾きながらコーラスしたのだった。
fumio

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十字屋楽器店が主催する音楽サークルの天下一を争う演奏コンテストの結果は次週の十字屋の広報誌に掲載された。
ナンバーワンは石塚成孝(いしづかしげたか),越智友嗣(おちゆうじ)、井上博(いのうえひろし)のフォークグループ「ザ・ヴァニティー」だった。そして2位はキーボードが口髭(マスタッシュ)を蓄えているのでタッシュグループと名付けた関西ナンバーワンのソウルロックバンドと謳われたバンド「タッシュグループ」
 「・高畑晃   バンド・リーダー。エレキ・ギター。
  ・荒木卓郎  パーカッション。ギター。
  ・河合循   オルガン。
  ・古城たかし ヴォーカル。
  ・小川修   ドラムス。
  ・葵和行   ベース。」であった。
かれらのパフォーマンスはオーティス・レディングの「トライ・ア・リトル・テンダーネス」をスリードッグナイト風
に白熱演奏してすごかった。まだそのころ高価で普及していなかったテープエコーをマイクにつなぎヴォーカルのスリムな古城たかしが足踏みして踊りながら歌うのだがリーダーのギター高畑晃の合図でいっせいに決め(キメ)で盛り上げる。何度か繰り返し終わったかと思うとバックが再び決め(キメ)を演奏し、古城がはじけるように踊り息も絶え絶えに歌い上げる。オーティスやジェームス・ブラウンのステージをよく研究していたようだ。その圧倒的なステージにはだれもがスゴイものを見たと魅了された。わたしは古城たかしのリズム感とヴォーカルフィーリングに一目おいていた。古城は普段地味な青年で話をしていても控えめな態度だった。舞台に出て歌いだすと変貌するのである。かれらはのちに古城たかしとブルー・タッシュと名乗り京都レコードから「東京の夜に泣いている」をリリースしてレコードデビューした。
わたしはその演奏会に飛び入りのように参加して弟のギターの伴奏でアンチェインドメロデイを歌ったのである。作曲家山室紘一氏がサークルの顧問をしていて「ギター一本ではなくオーケストラのバックで聴きたい」とのコメントをくれたのを記憶している。しかしながら、その後わたしはアメリカでソウルやロックを歌って生活することを選択して渡米してクラブのエンターテイナーやレコード製作などミュージシャン活動したのだった。
fumio

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saigo  



 1968年後半に日本のフォークグループの草分け「ザ・フォーク・クルセダーズ」が解散して同志社大学出身の端田宣彦(はしだのりひこ)がシューベルツを結成する時、同志社大学の後輩たちのフォークバンド「ザ・ヴァニティー」から越智友嗣(おちゆうじ)と井上博(いのうえひろし)をメンバーに加えた。石塚成孝(いしづかしげたか)だけは学業を優先した。
   そして,メンバーの抜けた「ザ・ヴァニティー」の方は石塚成孝(同志社大) 岡田恒夫(京都産大) 松田伸昭(大阪工大)という他校のメンバーとの「ザ・ヴァニティー」を再結成して1969年9月に「最後のお話」というシングルをキングレコードからリリースしている。
fumio

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isi  



大ヒットアニメ「ケイオン」のモデルになった十字屋楽器店からスタート。
1960年代後半のある日曜日、京都市内に遊びに行っている弟から電話があった。「今からギターを持って十字屋の二階に来い」という。京都の三条通にある十字屋楽器店が主催する音楽サークルの演奏会があったのだ。わたしはギブソンハミングバードギターを携えて三条通り新京極角の十字屋に入った。階段を登って会場に着くと多くの人々が楽しそうに演奏会を盛り上げている。ただのコンサートではなくコンテストのようだった。
わたしは弟を見つけて隣に座った。次々にバンドが出てきて得意曲を演奏すると作曲家の山室紘一がパフォーマンスを批評してゆく。先日は大阪で演奏会が開催されて谷村新司のアリスを見出してデビューさせることを決めたらしかった。
出演バンドのひとつに同志社大学在学中の学生たちの「ザ・ヴァニティー」というフォークバンドがあった。メンバーはギターとヴォーカル石塚成孝(いしづかしげたか),ギターとヴォーカル越智友嗣(おちゆうじ)、ウッドベースとヴォーカル井上博(いのうえひろし)の三人。得意曲サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」で聴かせた石塚のリードヴォーカルと切れの良いギターストローク、越智の柔らかいハーモニーの組み合わせは抜群だった。
そして、かれらは日本コロンビアからカレッジフォークとして「ザ・バニティー 愛に吹く風」 というシングルを発売したのだった。十字屋のサークルグループの演奏会は当時のミュージシャンの登竜門となっていたのだ。
fumio


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1965年、男性向け月刊ファッション雑誌「MEN'S CLUB」の募集欄で龍谷大学生加藤和彦がフォークグループ結成を呼びかけ、下京区在住の北山修が妹の自転車で七条通りを東に走り交差点で右に折れて南下して伏見区深草の加藤の自宅を訪ねた。それがフォーククルセダーズの始まりだったのである。
北山修の自宅の北にはジローズの杉田二郎の自宅の金光教島原教会があった。わたしはその近くの島原裏片町に住み高校三年になっていた。北山修の自宅の東の酒屋からのちに「ケメコの歌」でダーツが出てきた。中京区の北野中学校の同級生たちがコメディアン、ジェリー・ルイスの息子のバンド「ゲイリーとプレイボーイズ」の名前をもじった「サリーとプレイボーイズ」を結成してライブ喫茶「ナンバ一番」でグループサウンドの先駆けリンドアンドリンダースに名付けられた「ファニーズ」から東京で「タイガース」へと変貌していった。京都の呉服屋のボンボンの加賀テツヤもリンドアンドリンダースに加入し、その頃の京都には右を見ても左を見てもアマチュアとプロの境ぐらいのバンドがうろうろしていた。演歌界でも西陣出身の都はるみが64年にデビューしていた。運とやる気と才能の量でその後の運命が左右されていった。
そして、わたしが高校を卒業して洋楽にのめりこんでいた頃、京都駅前の「丸物(まるぶつ)」というデパートの屋上に海外ニュースのコーナーがあって、ミッキー・カーチスとサムライというバンドが海外ツアーをしている、という記事がよくあったので憧れた。外国で音楽のツアーをするというのはすごいことのように思ったのだった。
fumio

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加賀  



1960年代、毎日テレビ放送に「みんなの広場」という音楽バラエテイ番組があった。坂本スミ子が司会を務めジャズサックスの古谷充とザ・フレッシュメンなどがレギュラーで出演して、トランペットの日野皓正のバンドも出演して先鋭的なロックフィーリングの演奏を披露していた。この番組は日曜朝の楽しみだった。やがて時代がベンチャーズやアストノーツなどのエレキブームを迎え番組でもエレキバンドをデビューさせると宣伝した。芸能事務所「ターゲットプロダクション」の社長古川益夫がジャズ・ギタリスト加藤ヒロシにエレキバンド結成を指示して加藤が京都のダンス喫茶シアター「田園」に出演していたバンドのメンバーを集めて65年8月に「ザ・リンド」を結成した。ザ・リンドは「みんなの広場」にレギュラー出演して人気を博したが時代はビートルズの登場からヴォーカルグループサウンドに移行した。それで「みんなの広場」の番組中にザ・リンドにもヴォーカル部門「リンダース」を作ると宣伝した。視聴者は楽しみにして何週間も待った。そしてついに67年2月にヴォーカル部門「リンダース」の加賀テツヤのソロ名義で「ギター子守歌」をリリースした。それで演奏部門とヴォーカル部門を合わせて「ザ・リンド&リンダース」という形のバンドになったのだった。
●加藤ヒロシ(リーダー、リード・ギター)
●島 明男(ドラムス)
●宇野山和夫(ベース)
●高木和来(カズキ)(ギター、ボーカル)
ヴォーカル部門「リンダース」
●加賀テツヤ ●榊テルオ
その加賀テツヤは1979年に渡米してロサンジェルスでわたしのバンドSFの相棒中島茂男の住んでいた長屋の一室に居を構え自動車の整備工として働いていた。中島とわたしと加賀の3人でギターのセッションをしたこともあった。1981年1月のわたしたちSFのジャズクラブ「処女航海」でのコンサートに加賀テツヤも色々と手伝ってくれたものだった。加賀テツヤは1994年に帰国したようで14年間ほど米国に滞在してそして帰国後音楽活動を再開してしばらく活動しているうちに肺の持病が悪化して2007年(平成19年)12月30日に持病の悪化による肺病で61才で急死していている。合掌…。
fumio

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プログレッシヴロックグループSFのアルバム「プロセス」のミックスダウンについて

ミックスダウンとはトラックダウンとも呼び、8チャンネルトラック、16チャンネルトラック、24チャンネルトラックなどに録音したばらばらな楽器や歌をひとつにまとめ作品に仕上げる作業のことである。そのとき、各楽器の音色を調整し音量のバランスをとり、エフェクターをかけたりヴォーカルにエコーやリバーブをかけたりする作品完成のための最重要な作業なのである。
レコードのレコーディングはエジソンが「メリーさんの子羊」を歌ってレコード盤に直接刻んだ時代からテープを使用する1チャンネル1トラックのモノラルから2チャンネル使用するステレオへそしてビートルズの4チャンネル多重録音に始まるアナログ多重録音へと移りそして倍々(バイバイ)ゲームで8チャンネルそしてすぐに16チャンネルのスタジオが主流になりそれからなんと24トラックという大きい立派なスタジオが当たり前になってしまった。それでわたしたちもアルバム「PROCESS」のプロジェクトではハリウッドのチャイニーズシアターの向いのビルにあった「ガナパーチ」というインデイアン名のエンジニアがやっている24チャンネルスタジオPARANAVA STUDIOを録音に使用しのだがプロデューサーとしての宮下富実夫は厳しくて最高の作品を製作するためにはガナパーチのPARANAVA STUDIOはレコーディングには使用してもミックスダウンには機材がふさわしくないと判断した。理由は基本的な設備、装置や機材。それで当時最新最高の機材やエンジニアを揃えた有名スタジオインディゴランチ・スタジオ(INDIGO RANCH STUDIO)に予約を入れた。それでPARANAVA STUDIOにおいてすべての録音を完了してできあがったレコーデイング済みテープのミックスダウンにはインディゴランチ・24トラッスタジオ(INDIGO RANCH STUDIO)を使用することになったのだった。
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わたしは高校時代アメリカのヒットランキングをノートにつけていたのだが1965年のブリティシュ・インヴェィジョンの頃、Moody Bluesという英国のバンドのGo Now という曲がヒットした。おきまりのリズム&ブルースを基調にしたロックバンドだと思っていたのだがのちにポ-ル・マッカートニーに誘われてウイングスに参加するギターのデニー・レインが脱退してから採り上げる曲想が Tuesday Afternoon のようにがらりと変わってしまった。それからかれらの音楽はプログレッシヴロックと呼ばれるようになった。ヒットを目指すのではなく独特の思想性や内省的な世界観を表現しているようだった。
わたしたちがミックスダウンを行うことになったインディゴランチ・スタジオはそのムーディブルースが始めたスタジオでマリブの丘の上にあった。ニール・ダイアモンド、ヴァン・モリソン、ビーチボーイズ、ニール・ヤングといったミュージシャンたちがレコーディングに使用し、オリヴィア・ニュートン・ジョンはアルバム 「Totally Hot」 を78年にそこでミックスダウンしている名スタジオだった。

1980年11月4日、その日、わたしの一家は朝からピクニック気分でおにぎりを作って用意した。インディゴランチ・スタジオの中では昼食は買えないということなのでエンジニアの分まで作って持っていった。宮下富実夫の家族、島健の家族とみんなで曲がりくねった坂道を宮下一家の大きなヴァンに乗り込んで登って行った。着いたところはUFOが飛来するという噂にふさわしい趣(おもむき)のあるスタジオだった。わたしたちがスタジオに入っている間、家族たちはロビーや丘陵の広い庭で過ごすことができる環境であった。INDIGO RANCH(インディゴ・ランチ) 24chスタジオは当時最高のレコーデイング設備を備えていた。 スペイン語のランチョ(別荘)のように山の中腹にあるのでミキシングの日はピクニックのようだった。それで朝から妻が多くのおにぎりを握り、付け合わせのおかずを用意して行ったのだ。
プロデュースの宮下フミオの指揮の下、各楽器の音決めから試行錯誤のミキシングが進んだ。エンジニアはメインとサブがいて数人の助手がテープ類を用意してくれた。プロデューサーとしての宮下富実夫がまず中央に陣取りわたしと中島がその左右に座る。宮下は普段の友達関係の仮面を脱ぎ真剣勝負モードに入った。
24トラックの元テープをまわし、まずドラムスの音から音色を決めてゆくのだがそれに一番時間がかかった。スピーカーはJBLで音が粒立って聞こえる。細部まで視覚化して見えるように再生する。他の楽器やヴォーカルの音決めはあまり問題なく進んだ。それから一曲ずつ各楽器と歌のバランスやリバーブ、エコー、エフェクターなどのかけ具合など時間をかけてミックスしてステレオマスター・テープを作ってゆくのである。初めの録音時、キーボードの杉本圭がまだ不慣れなためにいわゆる白玉全音符でコードを押さえていただけのストリングアンサンブルのパートを宮下がこのミックスダウンの際に演奏のリズムに合わせて調整卓のフェーダーを上下してリズム感を出した。昼には宮下家の家族、関わったミュージシャン仲間、ミキシングエンジニアなど弁当を持ってきていない、みんなにおにぎりをふるまった。昼食はアメリカ人のエンジニアも和気藹々とおにぎりを食べてくれた。宮下が個人的に多重録音した「嵐」だけはミックスをひとりにまかせた。じゃまにならないようにわたしたちは席をはずしたのだ。一休みしてふたたびやり直して最終曲まで進み多くの耳で何度も何度も聴きなおしてみんながOKした時、やっと終了する。午後も集中してミックスを続けついにマスター・テープができあがってスタジオの壁に埋め込みになっている大スピーカーから出る音をみんなで聴き直していると「ドラゴン・ライダー」 でスタジオ全体が飛んでいるような錯覚に襲われたのだった。
fumio

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