離婚に苦しむ人へ

今、苦しんでいるあなたに寄り添って。

想像もつかない

2019-06-17 06:11:11 | 日記
今、自分自身を考えて、離婚した当時からは、想像もつかない。

あれから10年以上も経つが、

想像もつかないような人生となっている。

人生哲学も、仕事も、友人も、趣味も、環境も。

正直なところ、離婚しない方が良かったのか?と聞かれたとき、

イエスともノーとも言えない。

どちらにもそれなりの人生があるだろうし、

もし離婚しなかったら、

離婚という事実そのものよりも、

あれだけの苦しみと悲しみを経験しなかったら、

違う人生となったかもしれない。

逆に、あの苦悩を越えてきたから、今があるとも言える。

そう、いつも言うことだが、

こうであったらという人生はない。

今が人生である。

今が、私の唯一の人生であり、それしかないのだと深く気づく。

離婚して、何かに気づく人もいる。

何も気づかずに、そのままいく人もいる。

ほんとうの意味で自分を見直すきっかけとなった。

人として、完全な人はいない。

恋愛やら、愛情やら、自分のトラウマは難しい。

だからこれだけ、だめだと知っていて不倫が多い。

長年一緒にいて、熟年離婚が多い。

要するに、人間はそんな計算どおりにいかないし、

そもそも理屈どおりにも動けない。

今、あなたは自分の未来を悲観しているかもしれない。

将来になんの希望もなく、どうでもいいと思うかもしれない。

でも未来はわからない。

良くも悪くも、予測できない。

それが今の私の本心だ。

そう、未来はどうなるかわからない。

だから、未来を見るために、予想外の自分と出会うために、

今日も、今を見つめて歩みたいと思うのです。

コメント (6)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 人はわからない | トップ | 気づけるかどうか »

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2019-06-18 02:23:24
私は復縁したいと思って頑張ってます。

やっぱり元の家族で繋がりたい。
Unknown (Unknown)
2019-06-18 05:50:32
毎日毎日、四六時中苦しいです。
いつになったら楽になるの?
楽になりたい。それだけ。

でも いつか
いつか、楽になる日がくると思いたい。
マイナスの海にのまれたまま死にたくない。
だから、毎日ブログをみています。

子供達が大きくなり、社会にでるまでは
私の母親が元気なうちに。
いつか、いつか。
望みはあると信じたい。
Unknown (Unknown)
2019-06-18 21:54:12
自他共に認める仲良し夫婦だった筈が、ある日突然の妻からの離婚要求。

家庭内別居から丸2年…妻が家を出てから丸1年…離婚決定から丸半年…離婚を切り出された時には楽に死ねる方法ばかり考えて…それでも死にきれなくて。生きていくなら仕事だけは失いたくない…いや、むしろこの精神状態で新たな仕事・見習い・人間関係なんてとても出来ないと考え、毎日の辛さを必死になって隠しながらなんとか仕事を維持することが出来ました。

元妻と復縁出来る事ばかり夢見て、またそれを生きがいにしながら騙し騙し日々を過ごして行く中で少しずつ自我を取り戻せてきた実感が湧いてきました。

ここに来て漸くいま、元妻にこだわる気持ちを自分の中で咀嚼出来るようになった気がします。

そして新しい一歩を踏み出す勇気が出てきました。

まだまだ不安定な自分ですが、焦らずゆっくりこの気持ちを大事に歩いて行きたいと思います。
Unknown (Unknown)
2019-06-19 08:00:04
「生きる理由」という課題にぶつかってしまった。こうすれば安心、というものはない、手に入れたと思ったものは失った。自分の努力したところで、それが必ず結果につながるわけではない、どんなに積み重ねても、どんなに手に入れても、最終的には老いて死ぬ、老いる前に病魔かなにかで死ぬことも。その答えが見つからない限り、この離婚でつけられた足枷は外れないような気がする。
Unknown (behonestasmyself)
2021-10-18 20:18:30
最近、著者様の仰る

自責 他責 の意味するところ、

以前とは異なる感覚があります。

書き様が難しいですが

たとえば、相手の異常性を認めることと 他責は違う、と、どこかで著者様が記事にされていて

それが、いまひとつ そう考えることが こわかった。

相手の異常性を認めたら、それはやはり 他責であって
学ぶべきこと、向き合うべきことから 逃げることになりはしないかと。

いま、それについて、 私がいま 相手の異常性を認めても、 私は他責でない と、言えます。

私は他責ではない。そして、自責でもない。
誰も責めるものではない。
そういうことじゃない。

じゃあ どういうことか と言われると

これが、言葉にすることができないのですね。

なにかのせいにして なにかを責める
そういうことじゃ、ないのですね。

なにのせいでもなく なにかのせいでもなく
自分のせいでもなく 

ということしか、表現できないです。


そして 他責であれば 当面は、苦しむことは少ない…という感じも なんとなくわかります
それは、自責であっても同じ なにかのせいにしたり
なにかを責めていることは

なにのせいにもせず なにも責めないことよりも

向き合う必要のあるものと 向き合えなくなってしまう

相手は 他責 です、それはもう、別に認めてよいこと。
おそらくこの事態から 学ぶことは少ない
あまり、変わらないんだろうと、思えます

それは残念ではありますが、変わってゆける 私にとっては なんといいますか…どうでもよい、ことです

私は、私が 変わっていっている

その変化に 注力したい そう感じています

調停のたびに 相手に感情を 翻弄されることも、
おおいなる変化の糧になると

とてもその最中には、そう思えなくなりますが

それでも、そういうことなのだろうと 予感します。
Unknown (behonestasmyself)
2021-10-19 11:57:36
他責な思考をすることがない、ということではなく、

根本的に 他責傾向というか
なにも考える前に 自動思考的に、

何かのせいにしてかたをつけてしまったり
誰かのせいにして それについて考えるのを停止してしまったり
なにか 誰かを 責めることで 解決方向にすすんでしまったり

うまく言えませんが 思考の全体が 他責、自責、という なにかのせいにしたり なにかを責める、という
思考傾向の 膜におおわれているような

そういう 風では、いまの私は ない…

と、感じます。
つまり、他責思考になることがないわけではない、です。

時折 どうしても なんでもかんでも、自分の親のせいにする考え方に 陥ることはあります

ただし、それが、妥当でないこと 健全でないこと
良い未来につながらないこと やめたほうが良いのこと

そういうことを、感じながら…その思考になります。

そのおかげで、その思考を止めなければ、とあまり否定する必要性も感じません
心の底で、そのままでは良くないと気付いていることも 感じているので

おかしな表現のようですが、安心して ときおり訪れる、他責思考に 身を任せることができるような

そんなときがあります。

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事