今日はいつもと違い、
少し、哲学的なお話にしましょう。
離婚という大きなライフイベントは、
人生を揺るがすことであると同時に、
これ以上ない学びの機会でもある。
辛さを望む人はいないだろうが、
そうなったら、なったで、学ばなければ
辛いだけになってしまう。
だから、この辛さを経験したならば、
そうでない人よりも、よりよく生きたくはないでしょうか?
自分のための人生を。
大きな喪失体験をした人は、
人生、生きること、死、そういう人間としての根本的なことを
より深く考えるようになる。考えざるをえなくなる。
なぜなら、今まで安全だと考えていた人生が
そうではないのだと、強制的に気づかされるから。
自分が想っていたような人生は幻であり、
何一つとして保障されていないのだということに
気づかされるのです。
「人生とは、
他人と比較できるものではない。」
たくさんの人がそう言いますが、
そのことを理解することと、実践することは
大きな違いがあるし、実践するのは、とても困難なことです。
自分と全く同じ誕生日の時間に
全く同じ遺伝子の人間は生まれていないですよね。
家族、会社の人、友人、すべては違う人生のはじまり。
たしかに、同じ空間で、同じ仕事をしたり、楽しんだりしているけれど、
人間とは、一人で生まれて、一人でこの世を去っていくもの。
それは間違いないこと。見守ってくれるかどうかはあっても、
息をひきとる瞬間は、やはり一人で立ち向かうしかない。
誰も交代できない。
生れるときも、死ぬときも、自分ではどうしようもない。
お金も地位も、何も役には立たない。
私たちは、本当の死というものも知らない。
知っているのは、臨死体験談や、自分以外の死であって、
ほんとうはどうなのかを知らないし、
どうしてそれを恐れるのかも、本質的にはわからない。
心理学的には、恐怖というのは、明確な対象があるもので、
死のように、なんとなくわらかないものについては、
「不安」という言葉のほうが適切かもしれません。
そのことを虚しいと捉えるか、
だからこそ、
どんなことをしても良いし、アリなのだと捉えるかは
その人の認知の問題。
虚しい、虚しいと言っても、
なにひとつ変化はしない。
人生には、誰かと、併走することも、交わることも、すれ違うことも
たくさんある。
たとえ、パートナーと、同じ方向を向いて、
同じ道を歩んでいるように思えても、
レールは二本ある。
同じレールを歩くことはできない。
長く続くこともあれば、途中で別の方向へ向かうこともある。
自分の人生の終着点を、だれ一人として、知って生きている人はいない。
だから、今を後悔のないように生きるだけ。
結局は、それしかできないということに、気づくのです。
ゲシュタルト療法のパールズという方の有名な詩を掲載します。
カウンセリングを学ぶ人で知らない人はいませんし、
生きることの本質的な深い意味が込められています。
都度、自分の心に違う形で響くのです。
そのときの自分の心の状態によって、得られる気づきは異なると思います。
私もはじめて知ったときは、とても冷たい印象でしたが、
何度も、聞くうちに、その本質的な部分がわかってきました。
深く、腑に落ちるまで味わいました。
そして、私なりに、理解しているつもりです。
もちろん、正解はないのですよ。
<ゲシュタルトの祈り>
私は私のことをします。
ですから、
あなたはあなたのことをして下さい。
私は、あなたの期待に添うために
生きているのではありません。
そして、あなたもまた、
私の期待に添うために生きているのではありません。
あなたはあなた、私は私です。
私たちの心が、
たまたま触れ合うことがあったのなら、
どんなに素敵なことでしょう。
でも、もしも心が通わなかったとしても、
それはそれで仕方のないこと。
(私とあなたは、独立した別の存在なのですから)
***********
Frederick Perls
フレデリック・パールズ
少し、哲学的なお話にしましょう。
離婚という大きなライフイベントは、
人生を揺るがすことであると同時に、
これ以上ない学びの機会でもある。
辛さを望む人はいないだろうが、
そうなったら、なったで、学ばなければ
辛いだけになってしまう。
だから、この辛さを経験したならば、
そうでない人よりも、よりよく生きたくはないでしょうか?
自分のための人生を。
大きな喪失体験をした人は、
人生、生きること、死、そういう人間としての根本的なことを
より深く考えるようになる。考えざるをえなくなる。
なぜなら、今まで安全だと考えていた人生が
そうではないのだと、強制的に気づかされるから。
自分が想っていたような人生は幻であり、
何一つとして保障されていないのだということに
気づかされるのです。
「人生とは、
他人と比較できるものではない。」
たくさんの人がそう言いますが、
そのことを理解することと、実践することは
大きな違いがあるし、実践するのは、とても困難なことです。
自分と全く同じ誕生日の時間に
全く同じ遺伝子の人間は生まれていないですよね。
家族、会社の人、友人、すべては違う人生のはじまり。
たしかに、同じ空間で、同じ仕事をしたり、楽しんだりしているけれど、
人間とは、一人で生まれて、一人でこの世を去っていくもの。
それは間違いないこと。見守ってくれるかどうかはあっても、
息をひきとる瞬間は、やはり一人で立ち向かうしかない。
誰も交代できない。
生れるときも、死ぬときも、自分ではどうしようもない。
お金も地位も、何も役には立たない。
私たちは、本当の死というものも知らない。
知っているのは、臨死体験談や、自分以外の死であって、
ほんとうはどうなのかを知らないし、
どうしてそれを恐れるのかも、本質的にはわからない。
心理学的には、恐怖というのは、明確な対象があるもので、
死のように、なんとなくわらかないものについては、
「不安」という言葉のほうが適切かもしれません。
そのことを虚しいと捉えるか、
だからこそ、
どんなことをしても良いし、アリなのだと捉えるかは
その人の認知の問題。
虚しい、虚しいと言っても、
なにひとつ変化はしない。
人生には、誰かと、併走することも、交わることも、すれ違うことも
たくさんある。
たとえ、パートナーと、同じ方向を向いて、
同じ道を歩んでいるように思えても、
レールは二本ある。
同じレールを歩くことはできない。
長く続くこともあれば、途中で別の方向へ向かうこともある。
自分の人生の終着点を、だれ一人として、知って生きている人はいない。
だから、今を後悔のないように生きるだけ。
結局は、それしかできないということに、気づくのです。
ゲシュタルト療法のパールズという方の有名な詩を掲載します。
カウンセリングを学ぶ人で知らない人はいませんし、
生きることの本質的な深い意味が込められています。
都度、自分の心に違う形で響くのです。
そのときの自分の心の状態によって、得られる気づきは異なると思います。
私もはじめて知ったときは、とても冷たい印象でしたが、
何度も、聞くうちに、その本質的な部分がわかってきました。
深く、腑に落ちるまで味わいました。
そして、私なりに、理解しているつもりです。
もちろん、正解はないのですよ。
<ゲシュタルトの祈り>
私は私のことをします。
ですから、
あなたはあなたのことをして下さい。
私は、あなたの期待に添うために
生きているのではありません。
そして、あなたもまた、
私の期待に添うために生きているのではありません。
あなたはあなた、私は私です。
私たちの心が、
たまたま触れ合うことがあったのなら、
どんなに素敵なことでしょう。
でも、もしも心が通わなかったとしても、
それはそれで仕方のないこと。
(私とあなたは、独立した別の存在なのですから)
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Frederick Perls
フレデリック・パールズ