80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

花子とアンと焼夷弾

2014-09-15 15:43:23 | 最近のできごと
NHKテレビ、朝の連続ドラマ"花子とアン”は、とても楽しいドラマ

で、私は毎日欠かさず見ているが、たまに、何かに夢中になっていて、

見過ごしてしまうと、すごい大損をしたような気がして、あわてて

昼の再放送を録画する。昼には見れるのだからとは思うのだが、それ

でも、万一見逃したら大変と思うからなのだ。

出演する方々も魅力的な方ばかりで、明るい気持ちになれるし、早く

次が見たくて、早く明日になればよいぐらいの気持ちになるのである。





ところが、今朝の空襲の場面は、どうも私のような空襲体験者には

あまりにも現実と違いすぎて、何か心が落ち着かないのである。

それがドラマだとは思ってみても、やっぱり、心が、騒ぐ。



大体、花子さんの家の中に火が飛んで来て、原稿用紙に火がつき、

その火は消したようだが、周りには火があったのに、みんなで

逃げてしまって、家に戻ったら、ほんの一部が焼けただけで、後は

焼け残っているなんて、他の家も柱の一部が焦げたり、焼け残って

いるなんて、とても考えられないのである。


今の火事と違って消防の人が消して回ったわけではないし、当時、

火を消そうとした方々もごく一部にはおられたようだが、もの

すごい火力で一瞬にして周りが火の海になってほとんど、焼け死

なれてしまったようであった。

ごく一部が黒焦げになっていて、すぐ傍のものが焼けていないのには

まったく、納得がいかない。



アメリカは、日本を爆撃するためにドイツに使ったような爆弾では

なく、木造の日本の家を効率よく焼くために、わざわざ、焼夷弾と

いうものを開発したというのである。



当時日本に使用されたE46集束焼夷弾は、M69焼夷弾をを束にしたもの

で、M-69は一つが長さ50センチ、正六角形で、直径8センチ、(私が

見たものは直系6センチぐらい)で、それを19本束ねたものが二段に

なっていて、つまり、19の二倍で、38本で一個のE49焼夷弾になって

いたようで、アメリカのB29という大型の爆撃機には、一機に、E-46を

36個、つまり、M-69にして、1368本のM69が搭載されていた。

横浜大空襲の時には約500機(475機と言う説もある)が来たわけ

だが、E-46(M69)とか、M47だとか他にも落としたそうで、そのほかに

P51等戦闘機約100機もきた。





日本に落とされた焼夷弾は屋根を突き破ったり、着地すると、五秒以内

に、まづ、TNT爆薬が炸裂。その中のマグネシュウムによりナバームに

着火する。その燃焼する力で、鋼鉄製の筒をフッ飛ばし、30メートル

四方に燃焼したナバームを撒き散らす。

ナバームはゼリー状の油脂ガソリンで、ナフサネート(石油精製の副産

物)と、パーム油(椰子油などの油脂に水素添加したもので、引火する

と、激しく燃焼する。M-69のほかにも M 47とかあったそうだが、

M-69の場合には、さらに亜鉛、鉛、ガソリンを混入し、着火率を高め

でいたという。

M69一発の重さは約2,7キロで、頭に直撃を受けて亡くなった方々も

多かった。



上空(高いときには一万メートル)で落とされた焼夷弾は1500米

ぐらいまで落ちてくると、分解して、その際、布で出来たリボン(長さ

一メートルに着火し、地上に落下したら、内部の燃焼材が噴出し、

あたりが火の海になる仕組みであった。


ものすごい火力だから、消そうとしても消えないぐらいのもので

焼け跡にはほとんど、何も残らない。柱の焼け残りはせいぜい5,60

センチぐらいの焼けぼっくいがところどころに残ってぶすぶすいっている

ぐらいのものなのである。だから、遠くの方まで見通せるようになって

しまうのである。


そういうことで強制疎開といって、急に軍の命令で、移転させられた家も

あったのである。つまり、家と家の間の道路を広くして、類焼を止める

意味があったそうだ。

祖父の家の近くに、祖父の家にいったときによく遊んでいた敏子ちゃんの家

があったが、ある日曜日に行ったら、確かに敏子ちゃんの家があった所が

大通りになっていたことがあって、たった一週間くらい行かなかっただけ

なのに、こんなに変わってしまうのかとびっくりしたが、

それは強制疎開の命令を受けて、どこかに急に引っ越したのだと言うことで

敏子ちゃんにさよならもいえなかったことが今もって悔しいのだが、どん

どん類焼していくことを避けるために軍が要所要所に広い道路を造ったから

だとか。 なかなか消せないような火の強さであったのだ。




その上、お芋の配給しかないとか言っていて、おいしそうな赤い金時芋の

ようなものがあったが、当時そんなお芋があったら、私たちはどんなに

驚喜乱舞したことだろうか?  お芋というのは、薄茶色というか

農林何号とか名づけられた、収量だけ多くなるように開発された,全く

味のない代物で、ただ、空腹を少し満たすだけの食べ物であったし、それ

さえも、十分には手に入らなかったのである。




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