その昔、博多まで汽車で4時間かかっていた頃の話。
それは私がまだ小学生の頃、子供たちは皆等しく、アウトドア派なんであった。
毎日学校から帰ると、ランドセルを放り投げ、県営アパートの公園に集合しないと、近所の悪ガキ同盟の闇の掟違反になってしまい、仲間はずれになってしまうのだ。
そこではビー玉、ぺチャ(都会ではメンコと云ったらしい)
缶ケリ、コッキン、チョッチョッパ、馬乗り、そして極めつけは三角ベースボール、遊びの天才たちは日の暮れるまで友情を確かめ合ったんである。
雨の降る日はアパートの階段の下でぺチャに興じた。
夏休みはまさに遊びのパラダイス、近くの二級河川である中川で、真っ黒になって泳いだものだ。
6年生を先頭に単位で旗を立てて水泳に行った。
随分と深みでも泳いだものだが、不思議と溺れるような子供は誰一人として居なかった。
そしてそこには儒教思想に裏打ちされたような、先輩は絶対無比なもの、
目上を敬い、年下を可愛がり護ってやるという、ガキなりのマグナカルタが自然と出来上がっていた。
テレビ放送が始まると、その路地裏の少年達は徐々に減っていき、いつのまにか塾通いなどという、実に子供のためにならぬものが流行りだした。
私はといえば、ついぞ塾などというつまらない場所には行ったことがなく、先の母が生きていた小1までは、絵画教室と習字を習い事として行かされていたくらいのもの。
ズボンのポケットはビー玉をたくさん入れすぎて、いつも穴が開いていたし、ズックの親指は成長のご愛嬌なのか、親指のところがいつも口を開けていた。
9月の終わり、実家を任せていた弟が亡くなり、その頃の悪ガキ同盟のダチが葬儀の手伝いに来てくれた。
悪ガキはそのまま「チョイ悪オヤジ」に変身していたが、当時の鉄の掟はまだ潜在意識の中で生きていた。
何にも云わず、黙って手伝ってくれたんである。
長い年月を経て、お互いの色んな人生行路を歩んできたことが、顔の皺に表れていた。
今、県営アパートは取り壊され、病院の敷地となってしまったのだが、そのうち「おーいあそぼ・・・・」と声をかけたらすぐに昔のメンバーが集まりそうな、そんな気がしてならない。
秋の夕日はつるべ落とし、この季節になるといつも少年時代の、あの路地裏の少年達のことを思い出すのである。
一体あの少年達はどこに行ってしまったのだろうか。
しましたね、やりましたね!
私にところでは、地面ではもちろんですが、地面に瓦の凸面を上にして置いて、その上でペチャをするのも流行っておりました。
瓦から落ちたら、瓦の下に一旦蓄えて、あくまで瓦の上で勝負で、勝てば下に蓄えた分も含め総取りとなり、子供心にも極めてリスキーな遊びとなっておりました。
ビー玉にしてもそうですが、今から思うとやり取りが発生する遊びも多かったような気がします。
負けたくない一心で、親にも内緒で練習をすることも、それが子供の競争心を煽ると言うか、育むというか、”健全な”心の成長があったような気がします。
懐かしく思い出しましたので、一筆啓上した次第です。
追伸(ご報告)
大学四年の娘が、幼稚園への就職活動をしておりましたが、このほど、内定したとの連絡がありました。
これで、来春からは、幼稚園の先生です。
親としての責任が、幾分和らだ気分です。
心の中にいつまでも懐かしい思い出として残っている。あの風景は今でも忘れはしないけれど
その頃のガキ大将は本当に先生以上の存在であった。