夏休みは本当に愉しいものでしたね。
中でも、近くの中川へ泳ぎに行くのは最高の楽しみでありました。
東町という小の悪がき仲間と泳ぎに行くのですが、6年生は全体を掌握して、旗を持って整然と、団体行動らしきものを自然と学ばされたものでありました。
焼けた石の上を裸足でピョンピョンと飛び跳ねながら、準備体操をして、ドボンと飛び込むのが常でした。
今と違って清流そのもの・・・・。
学校にプールが出来たのは、私が卒業してずっと後のことのように思います。
僕らの水泳場所はずっと中川でしたし、中学になると横田堤でありました。
小学校も高学年になるとどうしても通らねばならない、洗礼を受けねばならない水泳ポイントが「鉄橋下」でした。
ここは水深が4メートルと深く、ここで泳ぐ勇気を試されるのです。そして鉄橋の欄干から5メートルほど下の水面まで飛び込む勇気も試されるのでした。
ここで泳ぎきらねば仲間から認められないという、一種の割礼の儀式の場所でもありました。
4年生の夏だったでしょうか・・・・。
その関門を何とかクリアした私は、何か大人の入り口に立ったような妙な興奮を覚えたことを思い出します。
目を瞑って、エイとばかりに足から飛び込むのですが、それでも小さい私たちは水底まで足がつきませんでした。
深く潜ると表層とは違い、水がとても冷たく、その分恐怖心もあったように思い出されます。
慣れてくると汽車が通るその瞬間に飛び込むというような、今考えると、ゾッとするような無謀なこともやっておりました。
教育者の息子だというのに・・・・・。
まあ48年ほども前の話ですから、すっかり時効成立なんであります。
鉄橋下・・・・男の勇気の証
その時の思いが後々逆境に遭遇した時にも、
妙に腹が坐って対処できたことのベースになっているような、
そんな不思議な、禁断の水泳禁止区域でありました。
現在みたいに快適なプールで、大勢の監視付きで泳ぐ子供たちとは違い、危険そのものの夏休みでありましたが、不思議と水の事故はありませんでした。
生きた教育・・・実学というところでしょうか・・・。
私の場合は、海ですが、子供だけの縦社会で、年長者の命令一つで、ついて行きました。
溺れ掛かった時も助けて貰いました。
何事もなかったように、家に帰ったものでした。
洗礼はありませんでしたが、橋げたから飛び込んだり、潜って魚を追っかけたり~。
中学生になると、禁断のため池遊び。
深いところの水の冷たさに恐怖を覚え、叫んだのでした。「カッパが足をひっぱったーっ!」
そして何とも懐かしく、みんな等しく貧乏で、それでいて優しくて、とてもいい時代でしたね。あの頃・・・昭和30年代
今のお若い方々には殆ど伝わらない体験だと思います。
幼い頃のプロセスが今の精神構造に繋がっていると思えてなりません。