実家の庭に南天の木が植えられていた。
昭和初期に建てられた家だから、おそらく樹齢80年というところだろうか。
晩秋の今頃、赤い実が宝石のように光り出し。
やがて冬の訪れと共に、雪が積もった朝など、何ともいえぬ愛くるしさであった。
そんな南天の木であったが、さほど大きくもならず、実家の庭の片隅で、目立たぬようにひっそりと、けして自己主張などもせずに佇んでいた。
きんぱんじゃー(鹿島の方言で神経質な人という意味)であった父は、家の掃除はもとより、季節の変わり目には、必ず私を伴って庭木の手入れをした。
剪定はお抱えの庭師さんの役割だったのだが、素人でもできる手入れは父の仕事と決めている様子で、松や八重桜、ツツジなどの手入れを父と共にしたものである。
ある夏、父はこの南天の木を丸裸のように、バッサバッサと、勝手気ままにに剪定したことがあった。
私は、実はこの木がなんとなく好きであったので、父の酷い仕打ちに対して、大いに不満が募っていた。
剪定後の後片付けは小学生であった私の仕事であったのだが、憤懣やるかたない想いを、作業放棄という形で、精一杯表現したのであった。
ブスくれている私の真意が判らぬ父は、大声で私を怒鳴りあげ、
「さっさと片付けんかぁ!」と吐き捨てた。
私はまる裸にされた南天の無念さを思うと、哀しくてならず、思わず目に涙を貯めてその場に立ち尽くしていた。
やがて父は表の樫の木へと戦場を移し、私は無残に押し切られた南天の枝を仕方なく片付け始めたのであった。
「痛いよぉ・・・・・。」片付けられる南天の木がそう言ってるように感じていた。
次の瞬間、私は表で樹木と格闘中の父のところへ走り、猛然と幼いながらの抗議をした。
「こんなに切ってしもうたら、枯れてしまうバイ。可哀想かって思わんとねぇ・・・・。」
父はいつもの苦虫を噛み潰したような顔をしたまま、ただ黙って作業を続けていた。
「さっさと片付けんかぁ・・・・。」親父の雷が再び私の頭上に響き渡り、私は「ヒエツ!」とばかりに逃げ出したんである。
あの時、もし親父が・・・・
「お前は優しい子供やねぇ・・・・。」
と私の涙の抗議に対して褒めてくれていたら、こんなヒネクレ親父になっていなかったかも判らない。
その年の冬、果たして南天の赤い実はまばらであった。確かに切りすぎたのである。
そして次の年も、相変わらず不作で会った。
しかし、三年目の晩秋、実はたわわに実ったことから、私は三年越しに胸を撫で下ろしたのであった。
そんな幼い記憶の中、今年も実家の南天の実は色づいているのであろうか・・・。