それは小学生の頃までだったろうか、学校に行く前と、帰ってきてから必ずやらなければならない日々のルーチンがあった。
仏壇の仏さんに・・・・
「行ってきまーす。」と唱えてチーンと鐘をならす。
「只今帰りました。」と唱えて、またチーン
高校受験や大学受験の時などは「念入りに」拝んだものである。
その後も仏前に手を合わせるしきたりはまだ衰えてはいないのだが、
幼い時のこの「一種の躾」は、今の日本の教育にとても大切なことのように思えてならない。
頂き物を仏前にお供えする習慣も大切なことであろう。
日本は大乗仏教、東南アジアは小乗仏教だといわれる。
しかしてそのルーツはまったく同じBuddaなのだからして、たいした違いはある筈がない。
この岸からあの岸へ渡る乗り物が違う程度のことなのだ。
ワット・ジェイリー・ルアンという、650年前の古い寺院を訪ねたのだが・・・・・、
そこには敬虔な仏教徒が、静かに祈りを捧げる光景をたくさん目の当たりにした。といっても普通の人々なんであるが・・・・。
タイは仏教の国・・・・それが微笑みの国といわれる所以なのだ。
人々は挨拶を交わす度に丁寧に合掌をする。
市場で買い物をしても、タイ式マッサージに行っても
ゴルフ場に行っても
必ず丁寧な合掌と、丁寧な挨拶が施されるのである。
これは仏教国としては当たり前のことなのだろうが、
国民が挙って合掌する風習を守っているってのは、
実は凄いことではなかろうか。
合掌をするということは、感謝を表すというのは勿論のこと、
あなたにけして敵意はありません、
相手に対して、謙(へりくだ)るという意味も含まれる。
ハイというのはまさにそういう言葉・・・「拝」から来ているのだとか。
確かに我が日本も同じ仏教国だとはいえ、
この国には私たちがどこかに置き忘れてきた、
セレモニーの時だけの仏教ではない、
心の拠り所としての仏教が根付いているのだ。
そんなことをしみじみと思わされた小旅行であった。
人が合掌して祈る姿は、まさに仏様そのものだと思わされた。
滞在したホテルの近く、朝の散歩の途中で出会った托鉢中の二人の少年僧侶は裸足であった。
あんまり綺麗に舗装されている道ではないのに・・・と心が痛む。
しかし、托鉢は裸足で歩くのが戒律なのだ。
50バーツ紙幣を寄進して手を合わせると、
短いお経を唱えて頂いた。
その少年僧はどこかで見たような・・・・・、
人なつっこい表情で、私を見て微笑んだ。
あれはひょっとしたら・・・・、
去年他界した、下の弟だったのかも知れないと思ったりしている。