奈良

不比等

古都奈良・修学旅行と世界遺産の街(その562)

2018-03-09 08:15:00 | 奈良・不比等
渡来人が彼の地の政権争いに敗れた人たちである事は容易に想像がつく。現代ならば与党から野党に替わるだけだが、当時は前政権の支配者は命も危なかったのだ。中国であれば周辺国へ朝鮮半島であれば日本列島へ逃げ込むのは当り前であろう。20世紀のベトナム難民がボートピープルとして日本に亡命してきた事はそれ程過去の事ではない。------
但し、逃げてくる人達は逃げるための舟を用意したりすることが出来る支配階級とその家来である。その他の民百姓は其の儘彼の地に留まり、次の支配者のために生産活動に従事し年貢を納めるのである。日本の戦国時代でも戦国大名は年貢の徴税権を争っていたようなものである。民百姓にとっては迷惑千万な争いであったろう。農民でも土地を相続できない次男・三男は戦国大名の戦の輜重隊などの荷駄運びに参じて口減らしを図ったのだろう。戦自体も稲の収穫期を避けていたとも云われている。-----
老齢人口が増加するのに対して東南アジアから外国人介護人を受け入れようとしているのだが、これにしても日本語が話せるとか勿論介護スキルは持っている事と条件を付けている。だから、古代においても誰でもが日本列島に移り住めたかと云えばそうではないだろう。何代も前に渡って行った同族を頼って行くか、其れとも文字が読めるとか文が書けるとか、通訳が出来るとか知的なレベルの高さが必要であったろう。-----
日本の平家の落人にしても山奥に逃げ込んでどのようにして開墾し住み着いたのかとその苦労が偲ばれるが、大陸や半島からの渡来人も最初は同様の苦労を続けたのであろう。簡単に出来あがった耕作に適した沃野を宛がわれる筈もなく、未開の土地で水利の当てもないような原野であったのだろう。まだ明治の北海道開拓ならアイヌ人を追い出して勝手に土地を取り上げて最初の北海道開拓民は良い土地を手当てされたに違いない。後になると当然にして開墾の難しい奥地の原野になって行ったようだ。------
日本史で渡来人の文化レベルの高い事が当たり前のように説明されるのだが、文化レベルが高いだけではなくて彼の地の支配者が中心であるのだから、日本列島の小国などは乗っ取られてしまったのだろう。文化レベルが高いとは戦をしても強いのである。インカ帝国が10数人のピサロたちスペイン人に滅ぼされたのと同様のことなのだろう。世界史を見ると大明帝国が60万人程度の満州族に滅ぼされている。モンゴル帝国のジンギスカンにしても一族郎党の数は僅かである。如何にして征服したその地の使える人材を要職に就かせるかと云った支配のノウハウがあったのだろう。------
日本列島では先住民の縄文人は小国を形成していたと思われるが、何の抵抗も出来ずに渡来系の弥生人の軍門に下ったのだろう。でなければ、北へ南へ逃げるしか生き延びる道は無かったに違いない。-----
奈良県では橿原考古学研究所が県内の遺跡の発掘をしてきたその累積から、高度な文化レベルを持った渡来人の遺跡跡からはオンドルなどの遺構も発掘しており、大和朝廷がその渡来人の高い文化を吸収して日本列島を統一したと説明されているが、アメリカに移住したヨーロッパ人がインディアンに色々と教えてやって、インディアンが高い文化レベルの国家を形成できるように援助してあげたかと云うと全くその気配は無い。同様に考えれば日本列島にずっと以前に渡来して住み着いていた人達は新たな高い文化を携えた新しい渡来人の足下に平伏すしかなかったに違いなかろう。このように明快な歴史認識を示す必要が、インバウンドで稼ぐと云って観光立県を目指している奈良県には特に重要であるのだろう。
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