
雪景色の玉川学園礼拝堂
(住所:東京都町田市玉川学園6-1-1)
(住所:東京都町田市玉川学園6-1-1)
1963年、カトリック信徒で作家の遠藤周作氏は東京郊外の町田に転居し、その柿生(かきお)の里の家を狐狸庵(こりあん)と名付けた。小田急線の玉川学園前駅を右に出ると、玉川学園の広大なキャンパスがある。構内の丘の上に立つ礼拝堂は1930年の建築で、「好奇心のかたまり」の遠藤氏も拝観しただろう。遠藤氏は玉川学園2丁目に住み、春になると駅周辺の桜並木を愛でたという。この界隈には遠藤氏が免許取得のために通った自動車学校もある。
再び小田急線に乗って、隣り駅の町田で下車。駅周辺は遠藤氏が立ち寄った書店(久美堂)や飲食店(柿島屋など)、そして遠藤夫妻が通ったカトリック町田教会がある。遠藤氏が町田に住んだ約25年間、『死海のほとり』『侍』などの傑作が生まれ、「狐狸庵もの」「ぐうたらシリーズ」のエッセイは好評を博した。それらの中でも、キリシタンの転び者を描いた小説『沈黙』(1966年)はベストセラーとなったが、日本のカトリック教会内では戸惑いや反発も生じたようである。
遠藤氏の思いは『切支丹の里』(1971年)に記されている。「弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼等がそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう」。遠藤氏は「殉教者の背後にうなだれる多くの弱虫」に目を注ぎながら、自分の内に潜むキチジローの姿を認めたのではないか。今、狐狸庵先生はカトリック府中墓地に眠っている。

カトリック町田教会
(住所:東京都町田市中町3-2-1)
◆主な参考文献など:
・「遠藤周作とPaul Endo」 町田市民文学館編(町田市民文学館・2007年)
・「沈黙」 遠藤周作著(新潮文庫・1981年)
・「切支丹の里」 遠藤周作著(人文書院・1971年)
・「夫の宿題」 遠藤順子著(PHP文庫・2000年)
遠藤周作氏との貴重な思い出、いかにも“狐狸庵先生”の優しいお人柄が偲ばれるエピソードですね。
私は遠藤氏の『切支丹の里』(人文書院・1971年)という作品を愛読しています。本書の中で、キリシタン研究家のフーベルト・チースリク神父が遠藤氏に「なぜあなたは転び者(棄教者)に興味を持つのですか」と問う場面があります。これに対して、遠藤氏は「それは・・・私が小説家だからです。そして私が彼等に近い・・・からです」と答えました。「彼等に近い」という言葉には、遠藤氏の様々な思いが込められているのでしょう。
エウティコさんは歴史学者阿部謹也さんの著書はなにか読まれたことはございますか?筑摩書房プリマーブックスシリーズの「自分のなかに歴史をみる」に氏のカトリック観が垣間見れる箇所いくつかあります。ご感想うかがいたいところです。
阿部謹也氏と言えば、私は西欧史や「世間論」などの著作でお世話になりました(余談ながら、阿部氏は私の妹が卒業した某女子大の学長でした)。また、R・シュトラウスの交響詩でおなじみの『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(岩波文庫)の名訳も強く印象に残っています。今回、バジルさんからご紹介いただいた『自分のなかに歴史をよむ』はまだ読んでいないので、早速図書館などで探してみます。ありがとうございました。
先日、ご紹介いただいた阿部謹也氏の『自分のなかに歴史をよむ』(筑摩書房・1988年)を読みました(近所の図書館は本書を「児童和書」のコーナーに分類していました)。良い本をありがとうございました。
ドイツ留学中の阿部氏が列車のコンパートメントの中で、相席になったドイツ人紳士と挨拶を交わす場面がありますね。阿部氏は「(西欧では)道ですれちがったとき、あるいは電車のなかで目が合ったとき、必ず男女をとわずほほえみをかわす習慣が今でも残っているのです」と記されていますが、私も同じような、ささやかな体験をしました。
私は東欧を独りで旅行したことがあります。列車のコンパートメントの中で、現地の乗客は「怪しい東洋人」に臆することもなく笑顔で挨拶を交わし、別れ際には“ Gute Reise!(良い旅を!) ”と声をかけてくれました。夜行列車ではビールの回し飲みもしました(笑)。「親切」や「人情」という言葉は、東欧の人々のためにあるのではないかと思ったほどです。それ以来、私も「ヨーロッパとは何か、なぜ戦争が繰り返されてきたのか」を(ぼんやりと)考えるようになりました。
阿部氏が本書の中で「日本は文化としては十分に成熟した国ですが、文明としての特質はいまだきわめて不十分な形でしかもっていないのです」と指摘されていますが、昨今の(内向き指向の)日本人はその言葉を重く受け止める必要があるのではないかと思います。そのヒントは「キリスト教の浸透」を説く本書の第七章に譲りますが、ひょっとすると「コンパートメントの中」にもあるのかもしれません(?)。
本書の冒頭で阿部氏が恩師の上原専禄先生(一橋大学元学長)を訪ねる場面がありますね。1925年、上原先生は欧州留学から帰国されるとき、たまたま同船していたチマッティ神父と知り合って、9人の宣教師たちに日本語を教えたそうです。この一行は初めて日本を訪れるサレジオ会の宣教団でした。
上原専禄先生が阿部謹也氏に問われた「生きてゆくということ」は「いかに食べるか」に尽きるのではなく、「何ひとつ書物をよまず、何も考えずに生きてゆけるか」(本書p.16)ということなのですね。目先の「飲み食い」にとらわれている現代人には耳の痛い言葉ですが、使徒パウロも次のように警告しています。「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」(フィリピ3・19)。
最近はニッポンを「自画自賛」しつつ、他国を貶める本や雑誌が「売れている」ようですが、阿部氏が本書で指摘されたように、私たちは「他の文化を理解する努力を、今後ともつづけていかなければならない」(本書p.201)と痛切に感じています。そして、「ニッポン礼賛本」を読み漁るダメなオトナたちよりも、本書を手にした若い人たちが「文明としての特質」を創造することに将来の希望を託します。