三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

五旬祭後第7主日聖体礼儀

2014年08月03日 | 東方正教会
日本正教会 東京復活大聖堂教会
(住所:東京都千代田区神田駿河台4-1-3)

7月27日(日)、東京復活大聖堂教会(通称ニコライ堂)で、五旬祭後第7主日聖体礼儀に参祷した。午前10時、聖体礼儀の始まりを告げる鐘と共に、ダニイル府主教と司祭が入堂。アカペラの聖歌が流れ、乳香の煙が漂う。福音経の誦読は、イエスが二人の盲人を癒された場面(マタイ9・27-35)。市村直巳神父は、「イイススは『わたしにできると信じるのか』と言われた。ギリシャ語の『信じる』には“神への全幅の信頼”という意味があり、イイススはその信仰を問われているのです」と話された。

「当時、障害者は社会から差別され、見放されていた。イイススの癒しは人を偏見や差別といった悪から解き放ち、神様との本来あるべき関わりの中に戻すものです。目の不自由な人は視力を得ただけではなく、心の目で世の光としてのイイススを捉えられるようになりました。それは肉体の癒しを超えた本当の救いだったのです。私たちも『はい、主よ』という全幅の信頼で、世の光のイイススを常に心の目で捉えましょう」。説教の最後に市村神父は祈りとして聖詠(詩編)の一節を引用された(注)

今、ニッポンには「偏見や差別といった悪」が充満している。公道では「ヘイトスピーチ」が凄まじい罵声をまき散らし、書店の新刊コーナーや電車内の中吊り広告は「嫌中憎韓」の文字が乱舞している。バブル崩壊後、ニッポンはその凋落しつつある現実を頑なに受け入れず、品性下劣な「偏見や差別といった悪」に染まることで、自らの「ちんけな誇り」を取り戻そうと躍起になっている。卑しいレイシズムが「国民的娯楽」の“ブラック国家、ニッポン”だからこそ、「世の光を捉える心の目」が求められよう。


ニコライ堂境内の亜使徒聖ニコライ記念聖堂の裏庭
<ひっそりと立つニコライ大主教(と思われる)胸像>

(注):「むなしいものを見ようとすることから、わたしのまなざしを移してください。あなたの道に従って、命を得ることができますように(詩編119・37)」。ところで、今年5月の瞽者(盲人)の主日の説教も市村神父だった。その時、引用された「神が共にいてくださるという目に見えない事実を見ないならば、私たちは何も見ていないに等しい」という神学者の言葉が強く印象に残っている。
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4 コメント

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レイシズム? (エズラ)
2014-08-05 16:58:55
レイシズム?
宗教書も結構ですが、最新の近、現代史の本も読まれた方がいいですよ。日本人が、いかにお人好しか判ります。

日本人は…例えば韓国のように、カトリックの法王ミサ(8/15)に、元慰安婦たちを招待して、法王を政治利用したりしないでしょうし、周辺国が不快になるような事も(キリスト信徒なら)決してしないでしょう。
浦和レッズのサポーターの愚行も、あちらさん(韓国)の方が先だったと記憶します。

と、ここまで書いて…あなた日本人ですよね?
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はじめまして。 (エウティコ)
2014-08-06 08:50:25
エズラさん、はじめまして。

「『民族』なるものは孤立化せられ絶対化せられる場合には、自己の限界を逸脱して、秩序を失ってしまうものである」(マックス・ピカート著、佐野利勝訳『われわれ自身のなかのヒトラー』みすず書房・1965年)

著者のピカートは、このような「絶対的なもの」のうちに「ヒトラー的国家主義の過激性の原因」があると見ています。そうであれば、「日本人は…決してしない」という「絶対化」から離れた複合的視点で、「最新の近、現代史」を捉えることも大切ではないでしょうか。

>>と、ここまで書いて…あなた日本人ですよね?

はい、恥ずかしながら日本人です。しかし、そんなことに「しがみつく」よりも、神の御前に立つ一人の人間でありたいと切に願っている者です。

本日は広島原爆忌です。犠牲者の永遠の安息と世界の平和を祈りましょう。
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キリスト者であるまえに (エズラ)
2014-08-06 23:25:29
私は右でも左でもありませんが、この生まれ育った国、日本が好きです。日本の平和に感謝していますし、この平和があるのも、先の大戦で犠牲になられた多くの方々のお陰だと思っています。夜、灯火管制など気にしなくても、ゆっくり聖書が読めるのは(当然のように思われがちですが)、平和あっての事です。
法王ミサの政治利用の件は、ゆるされる事ではありません。
しかし…ゆるしてしまうのが、日本人です。(何故でしょう?)文化人類的な考察が必要です。

折しも、昨日今日、かつての朝日新聞の「従軍慰安婦」に対する記事の【誤報取り消し】のニュースが流れました。「慰安婦」など、あってはならない事ですので、他の国々も、もう一度、自国の歴史を検証するきっかけになってくれたら…と思います。
米国の慰安婦像建立で、現地の日本人児童が「性奴隷」と、いじめられているそうで、胸が痛みます。
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キリスト者であるまえに? (エウティコ)
2014-08-08 21:48:41
神はご自分に似せて人を造られました。それは世俗の「国籍」を遥かに超越した神秘です。

ところで、エズラさん。

あなたは私に対して、「日本人ですよね?」とぶしつけな質問をされました。もし私が日本人でなければ、一体どうなるのですか。もし私が韓国籍を有していたら、あなたは「朝鮮へ帰れ!」とでも仰るのですか。「日本人であるか否か」、「白人であるか否か」、「アーリア人であるか否か」・・・。このような眼差しこそが「差別的」であると気付くべきです。多様な価値観を受け入れようと努めてはいますが、今や「日本が大好きな」エズラさんのコメントをいただくことは、私にとって精神的な苦痛です。

教皇様の韓国司牧訪問についての個人的なご不満は、まず駐日ローマ教皇庁大使館に抗議してください。次に、「朝日新聞」の“誤報”は「吉田証言」に関するものです。従来から「吉田証言」の信憑性が乏しいことは指摘されており、『従軍慰安婦』(岩波新書・1995年)の著者・吉見義明中大教授も論拠として採用していません。そうであれば、今回の一つの“誤報”が「従軍慰安婦の強制連行はなかった!」とする歴史修正主義者の有力説にはなり得ないでしょう。

おそらく、エズラさんの考える「日本の平和」とは異なりますが、数年前に私も身近な戦争遺跡を訪ねて、平和と戦没者への思いを巡らしたことがあります(下記URLご参照)。そして、明日は長崎原爆忌を迎えます。犠牲者の永遠の安息と世界の平和を祈りましょう。

(2011年8月1日付記事「日吉台を巡る」:
http://blog.goo.ne.jp/eutychus/e/14a13f13206babde703bee88dc03083c
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