Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

高関健/東京シティ・フィル

2022年03月27日 | 音楽
 東京シティ・フィルが第350回の定期演奏会を迎えた。記念すべきその演奏会のプログラムは、高関健の指揮のもと、マーラーの交響曲第9番が組まれた。指揮者とオーケストラが全力を傾注するにふさわしい曲だ。

 いつものように高関健のプレトークがあった。高関健は伝説的なバーンスタイン/ニューヨーク・フィルの1970年の来日公演でのマーラーの交響曲第9番を聴いた。そのときは感激のあまり、さっそく同曲のスコアを買い、1時間半かかる通学電車の中で読んだ。その後、ベルリンに留学して、カラヤンのアシスタントを務めた。そのときバーンスタインがベルリン・フィルに客演して、同曲を振った。そのリハーサルの間に起きたことをつぶさに目撃した。それから1~2年後、カラヤンが同曲を振った。全部で9回振った。その演奏をニューヨークのカーネギーホールをふくめて(最後のカリフォルニア州のパサディナを除いて)すべて聴いた。今回この曲を振るにあたって、過去の巨匠たちの録音は一切聴かず、スコアと向き合った。マーラーの草稿と出版譜とのちがいを検討し、国際マーラー協会の了解のもと、自分の責任で、出版譜の音を変更する箇所がある(自分としては「訂正する」という意識だ)。

 以上、長くなったが、そのような話だったと思う。1970年のバーンスタイン/ニューヨーク・フィルの演奏は、わたしは聴けなかったが、友人が聴きに行った。そのときの思い出話もあるのだが、それは省略しよう。

 ともかく高関健としても思い入れのある曲のようだ。演奏はその思い入れにふさわしく、張りのある音で、テンションが高く、記念碑的なものになった。東京シティ・フィルとしてもベストを尽くした演奏だ。そこには一種のすがすがしさがあった。

 両端楽章(第1楽章と第4楽章)の充実した演奏はいわずもがなだが、中間の第2楽章と第3楽章も気を抜かず、激しいアタックの激烈な演奏になった。それがこの曲全体の高揚感を支えた。息をのむような第3楽章の後で、第4楽章が弦楽器の分厚い音で開始された。その音はわたしの頭の頂上で鳴りわたった。

 わたしはこの演奏からどんなメッセージを受け取ったのだろう。よくいわれるように、マーラーの死とか、人生との別れとか、(すでに崩壊していたアルマ・マーラーとの夫婦関係だが、それにもかかわらず)アルマへの思慕とか、そんなものだろうか。わたしはむしろ、人生は偉大だと思った。人はだれでも、人生は偉大だと思える瞬間がある。卑小な存在にすぎないわたしにもいつかは……。そのような肯定的なメッセージをこの演奏から受け取ったように思う。
(2022.3.26.東京オペラシティ)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 河村尚子「シューベルト プロ... | トップ | 夏目漱石「硝子戸の中」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

音楽」カテゴリの最新記事