Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ノット/東響

2022年11月28日 | 音楽
 ノット&東響の比較的地味なプログラムの定期演奏会だったが、満足度は大きかった。1曲目はシューマンの「マンフレッド」序曲。ヴィブラートが控えめで、クリアーな音が鳴った。他の方のツイッターを見ると、スダーンのころの音が残っていると書いている人がいた。なるほど、そうなのかもしれない。

 2曲目はシューマンのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はアンティエ・ヴァイトハースAntje Weithaas。1966年、ドイツ生まれ。わたしは知らないヴァイオリン奏者だが、東響には2018年に客演したことがあるそうだ。長身痩躯の女性で、ドイツ人によくいる飾り気のないタイプだ。

 演奏も良かった。わたしは惹きこまれた。この曲は演奏によっては退屈しがちだが、ヴァイトハースは滑らかに、かつ滋味豊かに演奏した。わたしの記憶に残っている演奏の中では、優れた演奏のひとつだ。

 とはいっても、他の演奏家(というか、スター演奏家といったほうがいいが)とは多少ちがう点があった。それは音だ。現代のスター演奏家の、張りのある、大きな音とは異なり、ヴァイトハースの音は、やわらかく、くすんだ音色で、温かい音だ。そのためオーケストラに埋もれ気味になる。こちらが神経を集中して音を追わなければならない。だが、その点を呑み込むと、そこで展開されている演奏の豊かな音楽性に気付く。ドイツの日常に立脚した、落ち着きのある、自然体の音楽といえる。

 演奏が終わると、バッハを聴きたくなった。すると、嬉しいことには、アンコールにバッハが演奏された。これもドイツの日常を感じさせる、地味なバッハだが、それが好ましかった。曲は無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番からサラバンドだった。

 なお、付け加えると、ノット&東響の演奏も良かった。第1楽章など、第二ヴァイオリンとヴィオラが延々と三連リズムを刻んでいるような、なんとも気の毒な譜面だが、そのリズムがべったりしないで、明瞭に聴こえた。

 3曲目はベートーヴェンの交響曲第2番。これも良かった。わたしはもしも「ベートーヴェンの9曲の交響曲の中でどれが一番好きか」と問われたら、第2番と答えるかもしれないが、それにしても、実演で第2番を聴くと、第1楽章と第2楽章の充実度にくらべて、第3楽章と第4楽章が物足りなく感じることがある。それがノット&東響の演奏ではなかった。第3楽章では個々のフレーズのキャラが立ち、第4楽章では快速テンポに乗って、音楽の薄さを意識する暇がなかったからではないだろうか。
(2022.11.27.ミューザ川崎)
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新国立劇場「ボリス・ゴドゥノフ」

2022年11月24日 | 音楽
 新国立劇場の新制作「ボリス・ゴドゥノフ」。会場入り口でもらった「あらすじ」に目を通すと、原作をかなり変えているようだ。ボリス・ゴドゥノフの息子フョードルを重度の障害児と設定した点をはじめ、ディテールで変えている点がかなりある(もちろん基本的なプロットは変わらないが)。これはおもしろそうだ。一気にスイッチが入った。

 上演が始まると、フョードルが現れる。ベッドに横になっている。フョードルの顔がスクリーンに映される。たしかに障害が重そうだ。視覚的に大きな衝撃を受ける。ボリスがベッドに寄り添う。心痛にいたたまれない様子だ。その姿は大国ロシアの絶対的な権力者というよりは、障害児をもつ苦悩の父親を思わせる。

 原作ではフョードルがロシアの地図を学ぶ場面が、本演出ではフョードルは、学ぶことはおろか、言葉を発することもできないので、ボリスはフョードルのうわごとを聞き、フョードルがロシアの地図を学んでいると想像する場面になっている。ボリスは本来フョードルにロシア皇帝を継がせたかったが、重度の障害児にできるわけがない。それはボリス自身がよくわかっている。ボリスの辛い心中が察しられる。

 ボリスにとって致命的なのは、フョードルのうわごとが、ボリスによる前皇帝の皇子暗殺を告発しているように聞こえることだ。原作では聖愚者がボリスの皇子暗殺を告発するのだが、本演出ではフョードルが告発する(フョードルと聖愚者は一体化している)。ボリスにとってはこの上なく残酷な設定だ。

 本演出はその先に、子どもの血と涙のうえに築かれた国家は正当か、という問いをふくんでいるように思われる。そんな普遍性を感じる。フョードルを重度の障害児にしたことは、本演出が投げかける問いを先鋭化する働きをしている。

 演出はポーランドの演出家マリウシュ・トレリンスキ。美術、衣装、照明、映像その他のスタッフも(個々の名前はあげないが)すばらしい仕事だ。上記の「あらすじ」とプログラム誌上の「プロダクション・ノート」の執筆はドラマトゥルクのマルチン・チェコ。注目すべき人だ。

 タイトルロールのギド・イェンティンス、シュイスキー公のアーノルド・ベズイエン、ピーメンのゴデルジ・ジャネリーゼの外国勢がそれぞれ好演。日本勢ではグリゴリー(偽ドミトリー)の工藤和真が外国勢に伍して熱演した。コミカルな場面の「カザンの町であったこと」と「コッコ、コッコ、小さな雄鶏さん」ではもっと弾けてほしかった。大野和士指揮の都響は、ロシア的な野太い音ではないが、叙情豊かな演奏だった。忘れてならないのは、フョードル(黙役)を演じたユスティナ・ヴァシレフスカ。怪演だった。
(2022.11.23.新国立劇場)
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ルルー/日本フィル

2022年11月19日 | 音楽
 ロシアに住むラザレフが(たしかモスクワ在住だったと思う)、ロシアのウクライナ侵攻以来、来日が難しくなっている。その代役に世界的なオーボエ奏者のフランソワ・ルルーが立った。オーボエの腕前はトップクラスだが、指揮はどうかというのが興味の的だ。

 1曲目はドヴォルジャークの管楽セレナーデ。ルルーがオーボエを吹きながらアンサンブル・リーダーを務めた。それにしても、ルルーの音だけが目立ち、日本フィルのメンバーの音が背景に退きがちだった。日本フィルのメンバーにはさらなる積極性がほしかった。ルルーとの共演に緊張したのか。

 2曲目はドヴォルジャークの「伝説」から第1番、第8番、第3番。わたしは「伝説」という曲を知らなかったが、全部で10曲あるそうだ。今回演奏された3曲は「スラヴ舞曲集」に通じる民族色豊かな曲だったが、「スラヴ舞曲集」にくらべると小ぶりな曲だ。地味ではあるが、しっとりした味がある。ルルーはその3曲を精彩ある演奏で聴かせた。けっしてオーボエ奏者の余技ではなく、本格的な指揮者であることを印象付けた。

 3曲目はルルーのトレードマークといってもいいモーツァルトのオーボエ協奏曲。自由自在な演奏だ。その歌いまわしはだれにも真似ができない。そしていうまでもなく鋭い美音が展開する。まさに天下一品の演奏だ。もう何度聴いたかわからない曲だが、ルルーの演奏は凡百の演奏とは一線を画す。

 おもしろいことには、オーケストラの演奏が、最初はモヤモヤしていたが、ルルーの演奏が始まると、締まってきたことだ。そこはやはり演奏家同士、ルルーの凄さにすぐに反応するのだろう。ルルーならではの緩急があり、加えて第3楽章の終わりには大胆なパウゼもあったが、それにもよくついていった。

 まさかのアンコールがあった。大サービスだ。曲はモーツァルトの「魔笛」からモノスタトスの「だれでも恋の喜びを知っている」。一陣の風が吹き抜けるような曲だ。弦楽器の小刻みな波動のうえをオーボエが駆け抜けた。

 4曲目はビゼーの交響曲第1番。これは構えが大きくて、しかも隅々まで彫琢された名演だった。おもしろかったのは、フレーズの歌いまわしや浮き上がらせ方が、ルルーのオーボエ演奏を彷彿とさせることだ。指揮者とかオーボエ奏者とかの枠をこえて“音楽家”ルルーを聴くようだった。個別の奏者では、日本フィルの首席オーボエ奏者・杉原由希子さんの第2楽章での演奏が光った。ルルーの指揮でこの曲をやるのは、オーボエ奏者には緊張の極みだろうが、杉原さんはさすがに名演を聴かせた。
(2022.11.18.サントリーホール)
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井上道義/N響

2022年11月13日 | 音楽
 井上道義指揮N響のAプロ。1曲目は伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」。第1楽章冒頭のずっしりと重い旋律がショスタコーヴィチのように聴こえた。2曲目にショスタコーヴィチの交響曲第10番が組まれているので、わたしのモードがショスタコーヴィチ・モードになっていたのかもしれない。その後の展開はまさに“伊福部節”が満載なので、わたしのモードも切り替わった。

 2曲目はそのショスタコーヴィチの交響曲第10番。オーケストラの音が伊福部昭のときよりも引き締まった。アンサンブルも精緻だ。そして音楽の襞にていねいに触れていく。井上道義の指揮はときに音が濁ったり、粗くなったりすることがあるが、今回は上質な音楽が崩れない。純音楽的な演奏といってもいい。第4楽章コーダのショスタコーヴィチの音名象徴の連呼もあまり狂騒的にはならなかった。

 個別の奏者ではホルンの1番奏者が今井さんではなく、わたしの知らない奏者だったが、ソロが頻出する第3楽章で安定した演奏を聴かせた。N響は福川さんが退団したので、ホルンの首席奏者を探しているようだ。その候補でもあるのか。

 井上道義は相変わらずのエンターテイナーだった。まず服装だが、伊福部昭のときは作業着といったらなんだが(あれはなんていうのだろう)、黒いうわっ張りのようなものを着ていた(最近はいろいろな指揮者がそれを着ている)。そして伊福部昭のカーテンコールでは、なにやらシャベルで土を掘るような動作をしながら出てきた。ショスタコーヴィチでは一転して燕尾服を着た。その対照がお洒落だ。

 井上道義は1946年生まれだ。それにしては動作も感覚も若い。そしてなによりも音楽が衰えない。大病を患ったはずだが、その痕跡を微塵も感じさせない。根っからの舞台人なのだろう。ブログで2024年末での引退を宣言したそうだが、ほんとうにそうするのか。引退を惜しむ声も多そうだ。

 “引退”では、わたしはアシュケナージを思い出す。アシュケナージも引退を宣言して、きっぱり演奏活動から身を引いた。わたしはその潔さに感服した。日本人の指揮者にはあまり見られない身の処し方だ。わたしはアシュケナージのピアノ演奏は称賛するが、指揮には疑問もあった。だがその身の引き方には打たれた。アシュケナージの自宅はアイスランドにあるはずだ。今頃どうしているのだろうと思うことがある。

 井上道義はどうするのだろう。格好良さにこだわるタイプなので、それなりの引き際を見せるのではないか。
(2022.11.12.NHKホール)
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藤岡幸夫/東京シティ・フィル

2022年11月11日 | 音楽
 藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。プログラムは今年生誕150年のヴォーン・ウィリアムズの2曲にドビュッシーの2曲を組み合わせたもの。ヴォーン・ウィリアムズは藤岡幸夫の得意のレパートリーだ。

 1曲目はそのヴォーン・ウィリアムズの「トマス・タリスの主題による幻想曲」。美しい曲だが、当夜の演奏は(わたしのイメージにくらべると)音が分厚く感じられた。2群の弦楽合奏による曲だが、主体となる弦楽合奏は12型の編成、エコーとなる弦楽合奏は2‐2‐2‐2‐1の編成(これは譜面で指定されているのかもしれない)。合わせると14型になる。もう少し絞ったほうがいいのではないかと思ったが。個別の奏者ではヴィオラの首席奏者の音が美しかった。

 2曲目は同じくヴォーン・ウィリアムズの「2台のピアノのための協奏曲」。そんな曲があったのかというのが正直なところだ。柴田克彦氏のプログラムノーツによれば、まず普通のピアノ協奏曲として書かれ(1933年に初演)、次いで2台のピアノ用に改作された由(1946年に初演)。「トマス・タリスの主題による幻想曲」のしっとりした抒情とは対照的に、明るくエネルギッシュな曲だ。全3楽章からなり、ロマンツァと名付けられた第2楽章では、ノスタルジックな音楽が展開する。わたしはラヴェルのピアノ協奏曲(両手のほう)の第2楽章を連想した。

 ピアノ独奏は寺田悦子と渡邉規久雄。懐かしいお二人だ。第1楽章はピアノの音がオーケストラに埋もれ気味だったが(第1楽章のみならず、全3楽章にわたって、オーケストラがひじょうに雄弁だった)、第1楽章の終わりにピアノのカデンツァがあり、そこからピアノの音が聴こえ始めた。アナログ的な温かみのある音だった。

 プログラム後半のドビュッシーはまず「牧神の午後への前奏曲」から。首席フルート奏者の竹山愛の音が楽しみだったが、意外なことに、出だしはかなり音を抑えていた。ソロ活動も活発な竹山愛は(良い意味で)自己主張の強い演奏をするタイプだから、この出だしは藤岡幸夫の指示ではないだろうか。

 最後はドビュッシーの「海」。これには疑問を感じた。全体的に感興が乗っていない演奏なのだ。細かい点でいえば、たとえばティンパニが強打するときがあったが、それがいかにも強引な運びだ。ドビュッシーの音楽スタイルからも、またフラン近代の音楽スタイルからも外れた独自スタイルを感じた。オーケストラはそれに引きずり回され、自発的な演奏をするにはいたらなかったのではないか。藤岡幸夫はイギリス音楽や日本人作品には説得力のある解釈をするのだが。
(2022.11.10.オペラシティ)
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小山敬三美術館

2022年11月07日 | 美術
 もう一ヶ月ほど前になるが、小諸市立小山敬三美術館を訪れた。といっても、じつは懐古園を訪れた際に、その隣に同美術館があったので、ついでに立ち寄った次第だ。小山敬三という名前にはピンとこなかったが、館内に入って作品を見たときに、ああ、この画家かと思った。じっと作品を見ているうちに、良さがわかってきた。流行の先端を行くような野心がなく、穏やかな作風だが、それがわたしの感性に合った。

 簡単に経歴に触れると、小山敬三は1897年に小諸で生まれた。藤島武二に就いて洋画を学んだ。詩人・作家の島崎藤村のすすめで1920年にフランスに渡り、シャルル・ゲランの画学校に入った。1928年に帰国。1929年に神奈川県の茅ケ崎にアトリエを構えた。1960年に日本芸術院会員。1970年に文化功労者。1975年に文化勲章受章。1987年に死去した。享年89歳。

 同美術館に収蔵されている主な作品の画像がHP(リンク↓)に掲載されている。最初に載っているのが「浅間山黎明」(1959)だ。夜明けの曙光で紅色に染まった浅間山を描いている。藍色の空には満月が残っている。雲がたなびく。空気が澄んでいる。わたしが展示作品の中でもっとも感銘を受けた作品だ。分類すれば具象画になるだろうが、形態は単純化され、太い描線に独特のリズムがある。色彩的には浅間山の紅色と空の藍色とが対をなし、また樹木の緑色と田畑の黄色とが対をなす。それらの色彩を縫い合わすように残月と雲の白色が配されている。

 本作品は、そこに何が描かれているか、どんな特徴のある作品かが一目でわかるが、その段階にとどまらずに、見れば見るほど、それを描いた画家の淡々とした心境が伝わってくる。わたしはそれが好ましかった。

 HPに載っている画像の中に「初夏の白鷺城」(1974)がある。館内でその作品を見たときに、どこかで見たことがある作品だと思った。帰宅後、小山敬三のことを調べるうちに、東京国立近代美術館所蔵の「雨季の白鷺城」(1976)に行きついた。ともに白鷺城(姫路城)の屋根瓦を描いた作品だ。構図も大きさもほとんど同じだ。両作品は同一テーマの別バージョンといえるだろう。

 同美術館は千曲川を見下ろす高台に立地している。「薄暮千曲の流れ」(1979)はその高台から千曲川を見下ろした作品だ(画像は残念ながらHPには載っていないが)。わたしはその作品を見たときに、あっと思った。まさにその場にいるからだ。作品は黄色のトーンで統一されている。題名に薄暮とあるが、それはすべてのものが灰色に包まれる夕暮れではなく、夕日が最後の輝きを放つ夕暮れのようだ。
(2022.10.13.小山敬三美術館)

(※)小山敬三美術館のHP
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新国立劇場「私の一ヶ月」

2022年11月03日 | 演劇
 わたしは演劇も好きだが、コロナ禍もあって(それ以上に、出不精になっているからだが)しばらくご無沙汰していた。そんなわたしだが、昨晩は久しぶりに新国立劇場の「私の一ヶ月」に出かけた。演劇の空間が懐かしかった。

 須貝英の作、稲葉賀恵の演出。プログラムに載ったプロフィールにはお二人の年齢は書かれていないが、経歴を見ると、中堅の働き盛りの方たちのようだ。

 本作は凝った作り方をしている。3つの時空間が同時に進行するのだ。一つは2005年11月に「泉」がある地方都市の家で日記を書いている。もう一つは2005年9月にその地方都市で「拓馬」が両親の経営するコンビニを毎日訪れ、買い物をする。三つ目は2021年9月に都内の大学の閉架書庫で「明結」(あゆ)がアルバイトをする。当初はバラバラに見えるこれらの3つの時空間が、劇の進行とともに次第につながる。

 ネタバレ厳禁なので、ストーリーの展開には触れないが、最後に明らかになる全体像は、須貝英がいう「喪失と再構築」(プログラム所収のインタビューより)で胸を打つ。喪失だけにとどまらずに、再生へ向けて一歩を踏み出す作品だ。若い明結は一ヶ月で多くのことを経験し、大きく成長する。わたしはそんな明結が眩しかった。一方、一ヶ月で人生が崩壊する人もいる。その対比が本作だ。

 問題点もなくはない。2005年9月の「拓馬」の場面と2021年9月の「明結」の場面が同時に進行するので、その間の16年の隔たりが意識化されず、拓馬が明結の兄のように見えることだ。劇の後半で、そうではないことが明らかになるのだが、ヴィジュアル的にしっくりこない。併せて、拓馬が毎日コンビニに買い物に来るときの「両親」の拓馬への言葉が、拓馬を明結の兄のように見せている点も否めない。

 もうひとつの問題点は、「ある地方都市」の方言がわたしには難しかったことだ。もちろん方言は本作には必須の要件なので、仕方ないといえば仕方ないのだが。そしてまた、これは演出上の意図があるのだろうが、発声が日常会話に近く、演劇としては小声に属する(と思える)ことだ。そのためわたしは、台詞の中の重要な言葉を聞き取れていないのではないかという危惧につきまとわれた。

 役者の中では、明結を演じた藤野涼子の初々しさが印象的だった。また両親のうちの父を演じた久保酎吉もさすがに味があった。舞台装置は、最初は3つの時空間を明瞭に分けているが、最後はその境界線が崩れてひとつになる。加えて、最初は具象的な舞台装置だが、最後は抽象的になる。いつでもなく、どこでもないシンプルな物語に収斂する。
(2022.11.2.新国立劇場小劇場)
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