Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

るつぼ

2012年10月30日 | 演劇
 アーサー・ミラーの芝居「るつぼ」を観た。主人公ジョン・プロクターとその妻エリザベスの最後の獄中の場では涙が出た。終演は10時15分、帰宅したのは11時過ぎ。風呂に入って寝ようとしたが、なかなか寝付けなかった。結局一晩中眠りが浅かった。それだけ神経がたかぶっていたのだろう。最近では珍しい。

 ジョン・プロクターを演じたのは池内博之。迫真の演技だった。渾身の演技といったほうがいいかもしれない。苦悩に揺れるキャラクター、良心の呵責に苦しむキャラクターを演じて説得力があった。

 妻エリザベスを演じた栗田桃子には感動した。演技がよかったのか、キャラクターがよかったのか、ごっちゃになって、よくわからないが、人間の尊厳とはなにか――人間にとって大事なものはなにか――、それを問いかけるキャラクターと、そのことを理解し、そこに没入した演技は、今でもまだ琴線に触れている。しばらく忘れそうもない。

 ジョン・プロクターと不倫の関係になるアビゲイルを演じたのは鈴木杏。17歳の少女という設定で、魔女騒動の火付け役だが、どういうキャラクターか、その輪郭が不鮮明だった。これは演技のせいなのか、それとも演出のせいなのか。宮田慶子さんの演出意図は語られていないが、翻訳の水谷八也さんのエッセイを読むと、アビゲイルも当時のピューリタニズムの犠牲者だと捉えているふしがある。

 それはそうかもしれないが、アビゲイルを始めとする少女たちの偽証によって、十数人もの無実の人々が絞首刑に処されたわけだ(これは実話だ)。彼女たちはその責任を取ろうとはしない。讒訴された人々にとっては、なんと不条理な死だったことか――。

 先ほどアビゲイルのキャラクターのことで宮田慶子さんの演出に触れたが、それは文句をいったのではないので、誤解のないように。宮田さんの演出は今回も緻密だった。多数の登場人物をきめ細かく描き分けていた。

 この公演ではアーサー・ミラーが追加して書いたジョン・プロクターとアビゲイルの森の場面が上演された。たしかにアビゲイルの私怨という構図が明確になるが、一方では説明的な気もする。わたしは、なくもがな、と感じた。

 長野朋美さんの音響が気に入った。登場人物たちの讃美歌の合唱をのぞくと、あとは具体音だけ。ひじょうに禁欲的だ。おかげで舞台に集中することができた。音楽は幕切れのチェロ独奏だけ。
(2012.10.29.新国立劇場小劇場)
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カンブルラン/読響

2012年10月29日 | 音楽
 読響の創立50周年記念プログラムを聴いた。ハンス・ツェンダーの委嘱作品「般若心經」と細川俊夫の「ヒロシマ・声なき声」。今このタイミングでカンブルランが常任指揮者でなければ実現しなかったプログラムだ。当然お客さんの入りは悪い。それは読響も承知のうえでの企画だったろう。

 このプログラムについて、カンブルランはこう語っている。「何かを記念するとき、過去を振返るのに興味はありません。読響の50年を記念する演奏会でも、現在に向けての何かをしたかったのです。」(音楽ジャーナリスト渡辺和氏のレポートより)。

 ひじょうに共感する言葉だ。意気に感じて演奏会に出かけた。

 ツェンダーの新作はあの「般若心經」をテクストに用いている。「般若心經」はヨーロッパでもよく知られているそうだ。ツェンダー自身3種類のドイツ語訳をもっているが、ほかにもまだ出ていると語っていた。その「般若心經」をバリトン(大久保光哉)が歌う。その旋律線はわたしたちが知っている読経のそれではなく、現代的な激しい抑揚だ。端的にいって、現代オペラの一場面を切り取ったように感じられた。

 演奏はすばらしかった。微分音が縦横に使われ、音程が飛躍し、リズムが激しく交錯するこの曲を、おそらく完璧にコントロールしていたのではないだろうか。

 細川俊夫の「ヒロシマ・声なき声」は、客席に2群のバンダ(それぞれホルン、トランペット、トロンボーン、パーカッション各1名)を配している。なるほど、その効果は実演でないとわからないものだ、と思った。ステージ上のオーケストラを敷衍し、増幅し、揺らす。最新作のホルン協奏曲「開花の時」でも使われていた手法だが、この曲のほうが色彩豊かに感じられた。

 これもすばらしい演奏だった。音の完璧なコントロールという点では、究極のところまで行っていた。読響の演奏力もさることながら、カンブルランの能力は世界でも超一流だ。そのカンブルランが脂ののりきった充実のときを迎えていると感じられた。

 ただ「原爆の子」(岩波書店)から取られたテクストを読みあげる第2楽章のPAの音響は、あれでよかったのだろうか。オーケストラとのバランスが崩れているように感じられたが――。

 作品そのものにも、第3楽章以下の音楽には疑問を感じた。もっともそれはまだわたしの中では種子のようなものなので、もう少し抱えていたい。
(2012.10.27.サントリーホール)
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ハンス・ツェンダー

2012年10月25日 | 音楽
 読響は今シーズン、創立50周年を迎えた。その記念にドイツの作曲家・指揮者のハンス・ツェンダー(1936~)に新作を委嘱し、10月27日の定期で初演される。昨日はそれに先だってツェンダーの講演会が催された。主催は日本アルバン・ベルク協会他。

 タイトルは「現代音楽と歴史――ハンス・ツェンダー、ポストモダンの音楽を語る」。長木誠司さんが聞き手になって、ツェンダーの話を引き出すかたちで進められた。

 ツェンダーには「無字の経」、「風輪の経」など日本と結び付いた曲がいくつかある。今度の曲は「般若心經」。まさにあの「般若心經」をテクストに用いたそうだ。その点についてはこう語っていた。

 「般若心經はもう何十年も知っています。3種類のドイツ語訳を持っています。自分にとって重要なテクストなので、曲を付けようと思いました。日本的な雰囲気を作ろうと思ったわけではありません。このテクストを自分のものにしようと思ったのです。」

 以前、「無字の経」について、ユン・イサンから「君はまさかこれが日本的な音楽だとは思っていないだろうね」といわれたそうだ。そしてこう語っていた。「もちろん思っていません。ヨーロッパ人の主観で日本のテクストに対峙したのです。日本という別の文化に発生した巨大なテクスト、それにたいして自分がどう反応するか、です。」

 「モダン(例えばシェーンベルク)は音楽を進歩と考えていました。それが壊れてからの音楽(=ポストモダン)は複数の文化があると考えます。ちがう文化にたいして反応しなければいけません。もはや発展はどこに行くかわかりません」と語っていた。

 ただしこうも語っていた。「現代において心配なのは歴史がなくなることです。シュトックハウゼン、ノーノ、ブーレーズを否定するのではなく、大事にしなければ――。」

 ツェンダーは指揮者としても高名だ。現代音楽だけではなく、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーンなども振っている。それについてはこう語っていた。「演奏家はインタープリター(解釈者)といわれますが、作曲家もインタープリターなのです。過去の遺産をどう受け取るかです。」

 予定の2時間があっという間に過ぎた。長木誠司さんはツェンダーがオーケストラ用に編曲したシューマンの「幻想曲」のCD(これは名盤だ!)を用意していたが、時間が足りなかった。
(2012.10.24.東京大学駒場キャンパス18号館)
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インバル/都響

2012年10月23日 | 音楽
 インバル/都響のブラームス・チクルスで交響曲第2番と第4番を聴いた。全席完売。インバル人気は相変わらずだ。終演後の拍手とブラヴォーも盛大だ。だが実は少々疑問を感じた。少数意見かもしれないが、以下、率直に述べたい。

 第2番は、第1楽章がアンサンブルにまとまりがなく、散漫な演奏だった。第2楽章に入って少し立ち直り、第3楽章以降はまとまっていた。だからよかったかというと、そうともいえない。第4楽章がアグレッシヴな演奏で、まるでそれまでの演奏を強引に挽回しようとしているように感じられた。

 もちろん拍手は盛大だった。けれどもなにか割り切れない思いが残った。それはなぜだろうと自問し、空気感が足りなかったのではないか、と自答した。この曲には楽々とした空気感があるのではなかったか。それが感じられない、というか、むしろそんなものは薬にしたくもない演奏ではなかったか。

 第4番は見違えるように練り上げられたアンサンブルだった。こちらのほうに精力を傾けて準備したようだ。第2番とは異なって、アグレッシヴというよりも、エネルギッシュという形容のほうが相応しい演奏だった。

 けれどもそれは雄弁にまくしたてる大声の人のような演奏だった。こちらが言葉をはさむ余地はない。ただもう一方的にその語るところに耳を貸すしかない。ふっと我に返ることもできない。なんだかぐったり疲れてしまった。

 インバルとはこういう指揮者だったのか、と思った。押しの強い、梃子でも動かない指揮者。オーケストラを鳴らしに鳴らす指揮者。巨大なスケール感で拍手喝さいを浴びる指揮者。それをよく心得ている指揮者。だがインバルがかち得る名声のかげで、ブラームスの折々の心境はどこに行ってしまったのだろうと、少し寂しく思った。

 インバルが一番よかった時期は、都響のプリンシパル・コンダクターに就任した前後ではなかったろうか。あの頃はもっと柔軟性があったように記憶する。だがその後は年月がたつにつれて硬直性が感じられるようになった。別の言い方をすると、技術はひじょうに高度だが、自らの音楽には醒めてしまった、と感じられることがあるようになった。

 インバルは若い頃からオーケストラのドライヴ感に本領を発揮した。本人もそのことを十分に承知して、どのレパートリーも自らの資質に合わせて振った。今はそれに飽きてしまったのだろうか。
(2012.10.22.サントリーホール)
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ラザレフ/日本フィル

2012年10月21日 | 音楽
 ラザレフ/日本フィルが続けてきたプロコフィエフの交響曲全曲演奏プロジェクトの最終回が開催された。本来は昨年6月におこなわれる予定だったが、ラザレフの腰の悪化(手術をしたはずだ)により延期。それが今回実現した。

 1曲目はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。ソリストは川久保賜紀。初めてその演奏を聴いた。叙情的すぎず、かといって理知的すぎもせず、バランスよく、句読点のはっきりした演奏だ。出だしはかなりゆっくりしたテンポだった。そのテンポに戻ろうとする箇所がところどころにあったが、全体の造形は崩れなかった。音もひじょうに聴きやすい。これまた過度に甘美ではない。何度聴いたかわからないこの曲だが、新鮮な気持ちで聴くことができた。新たな気持ちで向き合うことができた――それが収穫だ。

 ラザレフ/日本フィルのサポートも安心して聴けた。ラザレフはもともと協奏曲がうまい。ソリストも合わせやすいだろう。今回は薄めの弦にたいして、管がはっきりと大きめの音を出していた。ラザレフとしては珍しいバランスだ。

 アンコールにクライスラーの「レチタティーヴォとアレグロ」からアレグロが演奏された。技巧的で面白い曲だった。

 2曲目はプロコフィエフの交響曲第6番。前回から1年以上の間があいたので、これまでの密度の濃さが維持されるかどうか、内心不安だったが、杞憂だった。練り上げられたアンサンブルと、曲の隅々にまで行き渡った表現意欲は変わらなかった。今まで聴いたことのないフレーズが浮かび上がってきたり、何気なく聴いていたフレーズがまったくちがう表現で演奏されていたりと、興味は尽きなかった。

 今まで聴いてきた演奏が脳裏をよぎった。一番記憶に残っているのはニューヨーク・フィルの定期を振ったデュトワの演奏だ。それを含めてこの演奏はもっとも情報量の多い演奏だった。

 ラザレフ/日本フィルのこのプロジェクトは有意義だった。わたしのなかでプロコフィエフの交響曲がユニークな位置を占めるに至った。これがなければ第2番、第3番そして第4番については明確なイメージをもたないままだった。

 ラザレフ/日本フィルは今ラフマニノフに取り組んでいる。ラフマニノフはわかっているつもりでいたが、そんなことはなかった。ラフマニノフにたいする認識を新たにする、というか、きちんと認識するいい機会だ。
(2012.10.19.サントリーホール)
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コヴァーチュ/東京フィル

2012年10月19日 | 音楽
 東京フィルがオール・リゲティ・プロで定期を開いた。指揮はヤーノシュ・コヴァーチュ。これは聴かなければならないと、早めにチケットをとった。会場に着くと、全席完売だった。これには驚いた。リゲティでこんなにお客さんが入るのか――と、信じられないような気分になった。

 1曲目は「ルーマニア協奏曲」(1951年)。リゲティが西側に亡命する前の曲だ。バルトークの影響が顕著だが、エネスコの「ルーマニア狂詩曲第1番」のような部分もある。楽しい曲だ。演奏もこの曲に相応しいものだった。

 2曲目は「永遠の光(ルクス・エテルナ)」(1966年)。アカペラの合唱曲だ。演奏は東京混声合唱団。オーケストラは引っ込んで、舞台は合唱だけ。オーケストラの定期としては珍しい。なんだかリゲティ・フェスティヴァルの観があった。

 この曲はリゲティが西側に亡命して、最先端の前衛音楽に触れ、それらを吸収して編み出したミクロ・ポリフォニーによる作品。その完成形というか、さらにその先に歩み出そうとする曲だ。バスがDomine(主よ)と歌う部分にホモフォニックな書法が入り込んでいる。まさにその部分の衝撃は大きい。これは生でなければわからないだろう。

 3曲目は「アトモスフェール」(1961年)。リゲティの代名詞のような曲だ。ミクロ・ポリフォニーによる最初期の成功例の一つ。もやもやした星雲のような音塊は、もちろん正確に演奏されていたのだろうが、ちょっとナーヴァスになっているように感じられた――むしろわたしのほうがそうだったかもしれないが――。

 休憩をはさんで4曲目は「レクイエム」(1963~65年)。第3楽章前半の「ディエス・イレ(怒りの日)」の天羽明恵(ソプラノ)と加納悦子(メゾ・ソプラノ)の歌唱がすばらしい。絶叫に近いほど激しく、跳躍の大きい旋律線を、よくあのように歌えるものだと圧倒された。

 なお当日のプログラム冊子が、これまた充実していた。長木誠司の巻頭文(リゲティの作曲家としての個性を実に的確にとらえた文章)に始まり、リゲティの息子で作曲家のルーカス・リゲティのメッセージなどが続く。この冊子を見るだけでも東京フィルの力の入れようがわかる。

 なかでも伊東信宏の「リゲティと20世紀――亡命以前の傷跡」が興味深かった。さすがは名著「バルトーク」(中公新書、吉田秀和賞受賞)の著者だ。
(2012.10.18.サントリーホール)
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マゼール/N響

2012年10月15日 | 音楽
 マゼール指揮のN響を聴いた。音が出るその前から、N響にはピリッとした空気が感じられた。マゼールが登場し、指揮棒を振りおろしたとき、N響から出てきた音は、その空気に寸分もたがわない、快い緊張感があった。

 やっぱり一流の指揮者だ。いや、超一流だ。N響もいつもとはちがっていた。一流のオーケストラだ。指揮者もオーケストラも、このレベルを目指さなければいけない――と、そんな思いのする演奏だった。

 プログラムも興味深かった。地味というか、マゼールが普段自分のオーケストラでやっているようなプログラムだった。けっして大衆に迎合するプログラムではなかった。マゼールが今一番興味を持てる曲はこのあたりなのか、と思えるプログラムだった。

 1曲目はチャイコフスキーの組曲第3番。「モーツァルティアーナ」と題された第4番は別として、第1番~第3番は珍しい。ロジェストヴェンスキーもそうだが、チャイコフスキーをやり尽くした指揮者が、最後に興味をひかれる曲なのだろうか。

 第1曲「エレジー」、第2曲「憂鬱なワルツ」、第3曲「スケルツォ」は面白かったが、第4曲「主題と変奏」は冗長だった――と感じたのは、我が身の凡夫たる所以か。

 2曲目はグラズノフのヴァイオリン協奏曲。独奏はウィーン・フィルのコンサートマスター、ライナー・キュッヒル。キュッヒルがヴァイオリンを弾き、マゼールが指揮をする光景を見ているだけで、なにか大事なものがそこにある気がする。演奏もさすがに骨格がしっかりしていた。わたしはこの曲を見直した。

 アンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番から第1楽章アダージョが演奏された。それはもう演奏という物理的なレベルを超えて、ヨーロッパの精神文化に触れる思いだった。その精神文化を背負い、体現する人物がそこにいる、という観があった。

 3曲目はスクリャービンの「法悦の詩」。いかにもマゼールにふさわしい曲というか、今マゼール以上にこの曲を聴いてみたい指揮者はいない、というくらいの曲だ。あざといまでのアゴーギクと強烈な色彩を予想した。

 だがその予想は外れた。はったりが一切ない、しかも聴いていて飽きない、格調高い演奏だった。今までこれほど格調高い「法悦の詩」は聴いたことがない、というのが実感だ。マゼールにたいするわたしの認識は浅かった。当代随一の指揮者なのだ。
(2012.10.14.NHKホール)
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作曲家の個展2012「藤倉大」

2012年10月12日 | 音楽
 毎年恒例のサントリー芸術財団の「作曲家の個展2012」で注目の若手作曲家、藤倉大を聴いた。プログラムは次のとおりだった。
○「トカール・イ・ルチャール」オーケストラのための(2010)
○「バスーン協奏曲」(2012)サントリー芸術財団委嘱作品・世界初演
○「ミラーズ」(2009/2012)12人のチェロ奏者版
○「アンペール」ピアノとオーケストラのための(2006)
○「アトム」オーケストラのための(2009)

 藤倉大は1977年生まれ。今年35歳。15歳でイギリスに渡り、今もロンドン在住。作曲活動は、イギリスはもとより、ドイツ、フランス、アメリカにまで拡大している。近年は日本での注目度も高まっている。

 その作品は今までいくつか聴いたが、素人の哀しさというべきか、今一つつかみかねていた。そのもどかしさも、今回まとめて聴く機会を得て、とりあえずは解消した。藤倉大の音楽とはどういうものか、少しはつかめた。

 まず、ずしんと腹に落ちたのは、透徹した音の感覚だ。曖昧さのない、考え抜かれた音。明瞭という言葉では月並みすぎ、また透明という言葉では、誤解を与えかねない音。藤倉大の耳のよさが感じられる音だ。

 その音で構築される音楽には、一つの特徴というか、共通する語法があった。短い周期で波のように押し寄せる、パルスのような音型。その繰り返しは意外なほどの質量をもって迫ってきた。

 もう一つ印象的だったことは、曲の終結部でテンポが落ち、思いがけない停滞感が生まれる場合があることだ。常にクリアーな頭脳が感じられる作品のその終結部で、なにか割り切れないものが生まれる。一筋縄ではいかない部分を感じた。

 演奏は見事だった。指揮は下野竜也。明快に各曲をさばいて、ノリがよかった。オーケストラは都響。ものすごく高性能だ。両者ともちょうど充実の時期を迎えている。その組み合わせが相乗効果を発揮した。

 バスーンのパスカル・ガロワにはこの演奏会で一番の感銘を受けた。現代音楽の世界ではビッグネームのようだ。演奏された「バスーン協奏曲」は力作だ。全5曲のなかで一番面白かった。

 ピアノは小川典子。わたしは昔からのファンだ。「アンペール」は一度聴いてみたかった。その念願が叶った。赤いユニークなドレスは、曲の最後のトイピアノ(おもちゃのピアノ)をイメージしたものだろうか。
(2012.10.11.サントリーホール)
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ピーター・グライムズ

2012年10月09日 | 音楽
 新国立劇場の「ピーター・グライムズ」を観た。幕が開いてすぐに「これはよくできた舞台だ」と思った。なにがそう思わせるのか、一言でいうのは難しいが、演出の彫りの深さ、歌手の動きと音楽的な水準、オーケストラのやる気――そういったことがあいまって、「焦点が合った」舞台が生まれるときに、そう思うのではないだろうか。

 だから今回は、演出と歌手と合唱と、さらには指揮者とオーケストラと、もっといえば舞台美術と照明と、それらすべてが混然一体となった総合力の成果だ。演出はよかったけれども歌手が――とか、歌手はよかったけれどもオーケストラが――とか、その手の批評めいた感想を生む余地のない舞台だった。

 細かいことは一切省いて、幕切れで感じたことを書くと――、バルストロードに引導を渡されたピーター・グライムズが(このとき音楽はピタッと止まって、バルストロードの言葉は台詞となる)、舞台を去り、そっと幕が下りる。幕前で佇むエレン。夜明けの海を描写した第1間奏曲が戻ってくる。このときわたしの中には「なにか取り返しのつかないことが起こってしまった」という感情がこみ上げてきた。それまでのドラマが的確に語られていた証左だろう。

 ウィリー・デッカーの演出はいくつか観たが、そのすべてと同様に、これも「本質のみを語れ」といっているような演出だ。本質(今回は社会による個人の抑圧)に一直線にむかっている。余計なことには目もくれない、というか、徹底的に削ぎ落としている。きわめて求心的な演出だ。

 ――と、本当はこれで止めておけばいいのだが、あえて正直にいうと、レンタルのプロダクションの場合(今回はベルギー王立モネ劇場からのレンタル)、品質はひじょうに良いが、「創造の喜び」に与ることはできない。そこに限界があると思った。

 ピーター・グライムズを歌ったのはスチュアート・スケルトン。パワーといい、繊細さといい、すばらしい。このような言い方は軽率かもしれないが、実感としていうと、今、世界一のピーター・グライムズではないかと思った。

 指揮はリチャード・アームストロング。東京フィルから熱いドラマを引き出していた。はっきりいって、いつものシラーッと澄ましたところがないのが、嬉しい驚きだった。

 合唱のすばらしさはいうまでもない。いつものパワーと精確さに加えて、演技の面でも積極的にドラマに関与していた。
(2012.10.5.新国立劇場)
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リチャード三世

2012年10月05日 | 演劇
 新国立劇場の「リチャード三世」が始まった。2009年の「ヘンリー六世」3部作を観た人は、岡本健一のリチャード(後のリチャード三世)の「怪演」に強く印象付けられたはずだ。そして、わたしもそうだが、岡本健一の「リチャード三世」を観たいと思ったにちがいない。それがこのたび実現した。

 まず「懐かしい」と思った。岡本健一だけでなく、「ヘンリー六世」のときのキャストの多くが再結集しているので、2009年のときの記憶が蘇ってきた。あれはすごかった。今でも忘れられない。

 今回その岡本健一のリチャード三世は、2009年のときのようなテンションの高さが感じられなかった。むしろ一種の軽さが感じられた。おそらくリチャード三世にコミカルな面を見出しているのだろう。極悪非道、残虐なリチャード三世を期待していたので、少々拍子抜けだった。

 だから、といっていいかもしれないが、戦いの前夜に悪夢にうなされ、一人目覚めて独白する場面が、孤独で、弱々しく、しんみりした味があった。

 2009年の岡本健一の「怪演」に代わるものが、中嶋朋子のマーガレットだった。惨殺されたヘンリー六世の未亡人マーガレットは、老婆となり、だれかれかまわず呪詛の言葉を投げつける。変わり果てたその姿が、切れ味鋭く表現されていた。

 2009年にはヘンリー六世を演じて、どこか中性的な魅力をふりまいた浦井健治は、リチャード三世を討つリッチモンド伯ヘンリー(後のヘンリー七世)で再登場。兵士(=客席)にむかって檄を飛ばすその凛々しさには、正直いって、ぞくぞくした。

 今回一番印象付けられたことは、凝った舞台美術だ。2009年と同様、島次郎が担当した舞台美術は、2枚のビニールの透明なカーテンを使って、美しい舞台を作っていた。中央には回り舞台があり、その上の天井には鏡が取り付けられて、これが回り舞台の役者を上から映し、奥の壁に投影していた。

 それにしてもこの作品、最後の正義(=リッチモンド)の勝利、悪(=リチャード三世)の敗北を、どう受け止めたらいいのだろう。もちろん一片の疑いもない勧善懲悪だが、少々漫画的だ。演出の鵜山仁によると、「エリザベス朝の正当性を言祝ぐ、チューダー神話のプロパガンダ」という説があるそうだ。そうだとしても、それを今上演する意味合いをどこに見出したらいいのだろう。
(2012.10.3.新国立劇場中劇場)
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ライマンの『メデア』と現代オペラの演出

2012年10月01日 | 音楽
 11月に予定されている東京二期会公演、ライマンのオペラ「メデア」は、今秋一番の楽しみだが、予習の材料がなかった。DVDが出ていることは知っていたが、自宅でDVDを観る習慣はない。そんな折にドイツ文化センターでDVDを観賞した後シンポジウムをおこなう「ライマンの『メデア』と現代オペラの演出」という催しがあることを知った。まさに渡りに船だった。

 当日は台風が接近していた。ラジオは交通機関の乱れを報じていた。まあ、そのときはそのときだ、という軽い気持ちで出かけた。

 DVDはひじょうに面白かった。2010年のウィーン国立歌劇場の初演の記録。指揮はミヒャエル・ボーダー、演出はマルコ・アルトゥーロ・マレッリ、タイトルロールはマルリス・ペーターゼン。演奏も演出もすばらしかった。その概要は当日出席されていた東条硯夫先生がブログ(左欄のブックマークに登録)で紹介している。

 DVD観賞後、中央大学准教授の森岡実穂氏および若手演出家の舘亜里沙氏、加藤祐美子氏の三名による解説があった。おかげでDVDを一度観ただけではわからない点を理解することができた。

 最後に会場からの質問に答える時間があった。これがすこぶる面白かった。最初のかたは3点の意見を述べた。なかでも、森岡実穂氏がメデアを現代の「移民」になぞらえたことにたいして、「移民」とは本質的に異なるのではないか、と指摘した点が面白かった。たしかに「移民」に喩えることは興味深いが、牽強付会の観がなくもない。


 2番目のかたは、現存している作曲家の場合、演出家は、作曲家と意見が異なったときはどうするのか、という質問だった。答えはよくわからなかった。

 3番目のかたは(このかたは日本語が堪能なドイツ人?だった)、オペラは西洋文化の凝縮であって、たとえば物の渡し方ひとつとっても、日本人は目上の人にたいして両手で渡すが、ヨーロッパでは片手で渡す、そういう習慣のちがいを勉強するのか、という質問だった。これは本質に触れる質問だったが、答えははっきりしなかった。

 予定の時間を多少オーバーして7時過ぎに閉会。外はすでに荒れ模様だった。ダイヤが乱れている地下鉄を乗り継いで、なんとか帰れそうだったが、下車駅の3駅前でついに止まってしまった。しかたなく歩き始めた。傘をさしていられる状態ではなかったので、濡れて帰った。
(2012.9.30.ドイツ文化センター)
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