Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ルート・アイリッシュ

2012年04月27日 | 映画
 ケン・ローチ監督の「ルート・アイリッシュ」を観た。イラクで活動する民間軍事会社を描いた映画だ。民間軍事会社といわれてもピンとこなかった。自分の無知を反省した。現実を知るためにも、ぜひこの映画を観たいと思った。

 民間軍事会社――今、戦争はその多くの部分をアウトソーシングしている。この映画では政府要人や民間人(ジャーナリストなど)の移動にあたっての警備を請け負う会社を描いている。警備といっても、いつ武装勢力から襲われるかわからない状況下での警備だ。襲われたら交戦する。従来なら軍隊がやっていた仕事を民間委託しているわけだ。ケン・ローチ監督の言葉によれば、戦争の「民営化」だ。

 ルート・アイリッシュとはバグダット空港から市内の米軍管轄区域(グリーンゾーン)を結ぶ12キロの道路のことだ。世界でもっとも危険な道路といわれている。この映画はそこで起こった事件とその後の展開を描いたものだ。

 その事件とは――市内の道路で民間軍事会社の警備員(コントラクターという)が警備をしているとき、1台の車が近づいてきた。これを危険と感じたコントラクターが激しく発砲した。車内の全員が死亡した。なかには子どももいた。

 映画では2007年9月1日と設定されている。これは同年9月16日に起きたブラック・ウォーター事件をモデルにしていると思われる。その事件は、民間軍事会社ブラック・ウォーター社のコントラクターが、近づいてきた車に発砲し、さらに周囲にいた人々にも無差別に発砲した事件だ。当時のCNNのニュース記事によれば、発砲は約20分続いて、15台の車が破壊され、17人が死亡したという。

 このような事件は当時よくあった。インターネットで検索すると、いろいろ出てくる。しかも治外法権の状態だった。だから、罪に問われることもなかった。さすがに今では法の整備はおこなわれたようだが。

 映画では、市民に発砲したコントラクター(A)にたいして、同僚のコントラクター(B)が激しく憤る。その数日後に(B)は謎の死を遂げる。少年時代からの親友だった元コントラクター(C)は、(B)の死の真相を追う。

 実はこの構図は企業あるいは国家の「闇」を追うサスペンス映画に似ている。古い革袋に新しい酒を盛った観がなきにしもあらずだが、それはともかく、民間軍事会社の存在をしっかり伝えてくれる映画だ。
(2012.4.26.銀座テアトルシネマ)
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負傷者16人‐SIXTEEN WOUNDED‐

2012年04月24日 | 演劇
 新国立劇場の「負傷者16人‐SIXTEEN WOUNDED‐」が幕を開けた。海外の現代戯曲を日本初演する試みだ。これは宮田慶子芸術監督の「就任以来の念願」だったそうだ。その心意気が嬉しい。昨日は初日だった。観客もよく入っていた。動機はさまざまだろうが、宮田さんの姿勢に共鳴する人も多かったにちがいない。

 作者はエリアム・クライエムEliam Kraiem。年齢は明記されていないが、1996年に劇作の学位を取得したというから、まだ若い人だ。父親はイスラエル人、母親はユダヤ系アメリカ人。ロサンゼルス在住。

 この作品は2004年4月にニューヨークのブロードウェイで上演された。インターネットで検索すると、ブロードウェイはもとより、デンヴァーやシアトルでの公演のレヴューが出てくる。きちんと調べたわけではないので、他の都市でも上演されているかもしれない。

 ブロードウェイではかならずしも興行的に成功したわけではなかったようだ(プログラムに掲載された青鹿宏二氏のエッセイによる)。それはこの作品の内容とその上演のタイミングのためだった。

 この作品は、アムステルダムを舞台にした、ユダヤ人のパン屋ハンスとパレスチナ人の青年テロリスト、マフムードのあいだに生まれる親子のような友情の話だ。個人レベルの友情は民族の対立・憎悪を乗り越えられるかと問う作品だ。現実を反映して、楽観的な展開にはならないが――。でも、そこには作者の切ない希求のようなものが感じられる。

 青年マフムードを描く筆致には、理解と同情が感じられる。作者はユダヤ人だ。しかも上演された時期は2004年4月。当時は9.11同時多発テロの記憶が生々しかった。上演場所はまさにそのニューヨーク。

 だからこの作品は、そうとう勇気ある作品――覚悟を決めた作品――だったはずだ。今その作品を、中東問題からは距離を置く日本で上演して、わたしたちはなにを受け止めるか。距離があるからこそ、個人のレベルと民族・国家のレベルとの相克を、冷静に受け止められるともいえるが、さてそこからどう踏みだすか。

 戯曲は「悲劇喜劇」4月号に掲載されたので、事前に読んだ。読んだときの印象と実際の舞台とでは、印象が異なる場面があった。最後のほうのハンスと娼婦ソーニャとの場面、そしてハンスとマフムードの場面だ。ともに戯曲を読んだときよりもウエットな感じがした。日本での受容を考えた宮田慶子さんの演出だと思う。
(2012.4.23.新国立劇場小劇場)
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ノリントン/N響

2012年04月22日 | 音楽
 ロジャー・ノリントン指揮N響のCプログラムを聴いた。ベートーヴェン2曲の後にサー・マイケル・ティペットの交響曲第1番が組まれていた。

 ティペット(1905~1998)というと、なんといっても、オラトリオ「われらの時代の子」が頭に浮かぶ。あの曲を初めて聴いたのはいつだったか。もちろんCDで聴いた。黒人霊歌が要所、要所で引用されるそのなかで、「行け、モーゼよ」が出てくるところでは、何度聴いても涙がこみ上げた。

 ティペットには交響曲が4曲ある。「われらの時代の子」で興味をもったので、交響曲全集も買ってみた。「われらの時代の子」とはまったくちがう音楽だ。最初は面食らった。けれども第3番には「われらの時代の子」と共通する、社会的マイノリティへの温かい眼差しが感じられた(なお第3番には、だれでも驚かずにはいられない仕掛けがある。初めて聴く人は、解説など読まずに、直にCDを聴くことをお勧めしたい。)。

 第1番は、「われらの時代の子」の後、あまり離れていない時期に作曲されたが、まったくちがうスタイルの音楽だ。乾いて、明るく、線的な書法が目立つ。前述のようにCDはもっているが、生で聴くとは考えてもいなかった。

 その演奏は、輝かしく張りのある音で、緩みなく、しっかりと構築されたものだった。わたしがもっているCDよりも断然上だ。むしろこれは世界の一流オーケストラのレベルだと思った。

 それにしても、生で聴いてみても、終楽章の終わり方は、依然謎だった。堂々としたフーガが展開され、その頂点でバスドラムとティンパニィが打ち込まれるが、それが何度か続くうちに、フーガを演奏していた他の楽器が減衰し、いつの間にか消えてしまう。最後には舞台上に大きな「?」を残すように終わる。

 この終わり方は何を意味するのだろう。当日のプログラム・ノートにもCDの解説にも書いていない。ひょっとすると、謎を感じるのは、わたしだけなのか。

 順序が逆になってしまったが、1曲目はベートーヴェンの序曲「レオノーレ」第2番、2曲目は交響曲第4番だった。どちらもノリントン流のユニークな演奏だ。今まで聴いたことのないアーティキュレーションやリズム処理が頻出する。いつもは自分の型をしっかり守るN響が、よくここまで協力するものだと感心した。欲をいえば、第4番は、ユーモアを表現しようとするノリントンの意図に比べて、生真面目さを拭いきれなかったようだ。
(2012.4.21.NKHホール)
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カンブルラン/読響

2012年04月17日 | 音楽
 カンブルラン/読響の4月定期は、ドビュッシーの生誕150年という軸と、バレエ音楽という軸の2本の軸をもつプログラムだった。いつもながら魅力あるプログラムを提供してくれるものだ。

 1曲目は「牧神の午後への前奏曲」。冒頭のフルート・ソロがそっと呟くように演奏された。以降、終始一貫してソットヴォーチェの演奏。静かで淡々とした演奏だ。後半のクライマックスで弦が奏でる旋律も、朗々と歌うのではなく、抑えた表情だ。もっと官能的であってもよいのに、と思わないでもなかった。

 でもこれには理由があるのではないか、と思い直した。満津岡信育(まつおか・のぶやす)氏のプログラムノーツによれば、ドビュッシーはそもそも、前奏曲、間奏曲、パラフレーズ(終曲)の連作として構想していたとのこと。結局、前奏曲しか完成されなかったが、あくまでもこれは前奏曲であって、この後にマラルメの詩が朗読されるわけだ。なので、マラルメを先取りして、雄弁に語り過ぎてはいけないわけだ。

 この曲が、マラルメの詩そのものであるかのように、官能的な世界を語るのは、ロシア・バレエ団のニジンスキーの影響かもしれない。本来はカンブルランの解釈のような音楽かもしれない――と思った。

 2曲目はバレエ音楽「おもちゃ箱」。「遊戯」の後の作品だが、「遊戯」のような抽象性の高い音楽ではなく、輪郭のはっきりした音楽だ。プロローグから始まって全4場、そしてエピローグが続くが、まるでアニメを見ているような感じがした。人間の肉体という制約から解放されて、音楽が自由に呼吸し、動き回っている感じだ。これはドビュッシーの音楽がそうだからというよりも、カンブルランの指揮がそうだったからだ。

 3曲目はストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」(1947年版)。アニメを見るような自由な動きは「おもちゃ箱」と同様で、しかもこの曲になると、照度が一気に10~20パーセントも上がったような明るい音色になった。音がまるで光の粒子のように感じられた。それらの粒子がオーケストラのなかを自由に飛び交っているようだった。

 これはわたしにとっては、少なくとも今のところは、今年のベストパフォーマンスだ。もしかするとこれと同じくらい感銘深い演奏にまた出会えるかもしれないが、これを上回ることはないのではないか――と思われるくらいだ。

 カンブルラン/読響のコンビは驚くべき成果を上げていると思った。
(2012.4.16.サントリーホール)
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オテロ

2012年04月15日 | 音楽
 知人を誘って新国立劇場の「オテロ」を観に行った。知人の都合で平日のマチネー公演を観た。この日は最終日だった。そのせいかどうか、意外に空席が目立った。大体こんなものかもしれないが、はっきりいって、今のこの劇場の低調ぶり――オペラ部門のテンションの低さ――を象徴しているように感じられた。

 個々の歌手はわるくなかった。オテロのヴァルテル・フラッカーロは高度な様式感を身に付けた歌手だ。パワーで押すタイプではない。デズデーモナのマリア・ルイジア・ボルシは昨年の「コジ・ファン・トゥッテ」でフィオルディリージを聴いたばかりだが、デズデーモナのほうがはまり役だ。イアーゴのミカエル・ババジャニアンは、イアーゴの狡猾さを表す目の演技がすばらしい。

 指揮のジャン・レイサム=ケーニックは何年も前に都響を振っていた時期がある。よい指揮者だと思ったが、いつの間にか出なくなった。今回は久しぶりだ。さすがにもうロマンスグレーになったが、きびきびした音楽の運びは昔の面影を残している。

 マリオ・マルトーネの演出は、こんなに何もやっていない演出だったか。人物の出入りはそれなりに整理されているが、ドラマの内実は空疎だ。初演のときはもうちょっとドラマがあった気がする。今回は再演なので、細かい肉付けが落ちてしまったのか。せっかくの「オテロ」だが、これでは意気が上がらない。

 ところで、客席に座って、ふと思い出したことがある。このオペラにはショスタコーヴィチの交響曲第5番の第1楽章のコーダとそっくりな部分がある。おそらくショスタコーヴィチが自作にこっそり織り込んだのだろう。そこをしっかり聴いてみようと思った。

 第3幕の前半、嫉妬に狂ったオテロがデズデーモナを問い詰め、そして追いだした後のモノローグの場面。「さあ、来た」と思って字幕を見た。やはりというべきか、そこには驚くべき歌詞があった。それは――、

 「神よ!あなたは私に惨めで――恥ずべき不幸のすべてをお与えになった。私が大胆に戦って得た戦利品を災とも――幻ともされた……そして私は苦しみと恥の残忍な十字架を背負わねばならぬのです、落着いた顔を作り、天の御意に忍従して。」(海老沢敏氏の訳。改行は省略。音楽之友社の名作オペラブックス17「オテロ」。)

 当時、プラウダ批判を受け、粛清の恐怖さえあったショスタコーヴィチの心境が痛々しく表されている。
(2012.4.13.新国立劇場)
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インバル/都響

2012年04月13日 | 音楽
 インバルが3月から4月にかけて都響を振っている。昔は2か月連続で定期を振る指揮者もいたが、最近では珍しい。ゆっくり滞在してくれると、指揮者とオーケストラの相互理解が深まるのがわかって好ましい。

 3月に聴いたAシリーズ、Bシリーズ、二つの定期では、オーケストラの機能の優秀さに圧倒されるとともに、ショスタコーヴィチの第4番、マーラーの「大地の歌」というとびきりの問題作にしては、インバルの見解が聴こえてこないもどかしさを感じた。そこで今回のブルックナーはどうだろう、と興味をもって出かけた。

 まずモーツァルトのピアノ協奏曲第8番「リュッツォウ」。学生時代にモーツァルトに目覚めて、ピアノ協奏曲を聴きまくった時期がある。そのときはクララ・ハスキルのピアノ協奏曲第9番「ジュノム」とアルフレッド・ブレンデルのピアノ協奏曲第12番が愛聴盤だった。だが第8番は聴いた記憶がない。今回が初めてだ。

 オーケストラによって第1主題が提示される。音が瑞々しい。リズムに弾力がある。これは好調だ。ピアノが入ってくる。児玉桃のピアノ。この曲にはもったいないくらいのテクニックの持ち主が、この曲を弾くと、どうなるか――淀みなく、滑らかで、艶のある演奏。平易な愉しさの音楽。なるほど、児玉桃はこれをやりたくてこの曲を選んだのか、と納得する。インバルもそれに触発されて、若さを取り戻した観がある。

 次のブルックナーの交響曲第7番では、あの息の長い第1主題が、豊かな起伏をもって提示された。木管楽器による第2主題もその流れに乗っている。そして各楽器が絡み合いながら、トゥッティによる最初のクライマックスに到達するその歩みが、はっきりアクセントを付けて、きわめて意志的に進められた。そうか、これがインバルのブルックナーか――。

 インバルのブルックナーは、現世的な、アグレッシヴな、一言でいえば尖ったブルックナーだ。でもそれは異端だろうか。案外ブルックナーの本質を突いているのではなかろうか――。アーノンクールが演奏した第9番の第4楽章のフラグメントを思い出した。あれも尖っていた。ブルックナーの生涯を考えても、内面は尖っていたと思われる。

 インバルのブルックナーを肯定的に捉えることができたのは、都響の演奏がよかったからでもある。インバルの尖った表現をずっしりした音の厚みで受け止めていた。ブルックナー演奏にかんしても相互理解が深まっている感じだ。
(2012.4.12.サントリーホール)
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インキネン/日本フィル

2012年04月09日 | 音楽
 インキネン/日本フィルのマーラー・シリーズ。今回は交響曲第5番だった。

 いつもマーラーの前にはシベリウスの比較的知られていないオーケストラ曲が演奏されている。それも楽しみだった――と過去形で書くのは、このシリーズが今回で終了するからだ。来年にはシベリウスの交響曲の全曲演奏が予定されている。これはマーラー以上に楽しみだ。

 今回のシベリウスは劇「死(クオレマ)」の付随音楽から4曲。「悲しきワルツ」は有名曲だが、「鶴のいる風景」はめったに演奏されない。ましてや「カンツォネッタ」と「ロマンティックなワルツ」は、少なくとも実演で聴くのは初めてだ。

 今回はちょっとした工夫が凝らされていた。それは演奏順だ。CDでは(同曲には複数のCDがある)、劇の進行に沿って、上記の順に演奏されるのが普通だ。これを仮に1、2、3、4と付番すると、今回は3、4、2、1の順に演奏された。まず物悲しく繊細な「カンツォネッタ」から入り、次に「ロマンティックなワルツ」で感情が解放され、一転して繊細さの極地の「鶴のいる風景」に移り、最後に耳なれた「悲しきワルツ」で全曲を閉じる構成だ。これには説得力があった。これはインキネンの意向だ。漫然と演奏しているのではない姿勢が好ましい。

 演奏もすばらしかった。冒頭の「カンツォネッタ」の、ほんのちょっとしたアゴーギクが、一気にシベリウスの世界に連れて行ってくれた。インキネンには本質的にシベリウスの世界が備わっているようだ。来年の交響曲全曲演奏が楽しみな所以だ。周知のとおり、日本フィルは渡邉暁雄の指揮で2度にわたって全曲を録音している(1度目はLP、2度目はCD)。わたしは2度目の録音に先立って行われた全曲演奏を聴くことができた。またネーメ・ヤルヴィ指揮の全曲演奏も聴いた。そして今度はインキネン。これはネーメ・ヤルヴィ以上の成果が期待できるのではないかと思う。

 さてマーラーの交響曲第5番。オッタビアーノ・クリストーフォリのトランペットが見事だ。艶のある音色と安定感は在京オーケストラのなかでもトップクラスだ。丸山勉のホルンも立派。オーケストラ全体としても、すべての音の方向感が揃っている演奏だった。これがインキネンの美質だ。

 だが、実をいうと、第3楽章では退屈した。あの長大なスケルツォを面白く聴かせるためには、今のままでは足りないようだ。もう少し熟成の時を待たなければならないのだろう。
(2012.4.6.サントリーホール)
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汽車はふたたび故郷へ

2012年04月06日 | 映画
 1934年グルジア生まれのオタール・イオセリアーニの映画「汽車はふたたび故郷へ」を観た。これは半・自伝的な作品だが、自伝を意図しているわけではなく、不器用な、ありのままの自分でしか生きられない人への賛歌だ。

 グルジアの小村で親友たちと楽しい少年時代をすごすニコ(イオセリアーニの分身)。やがて青年になって映画を作るが、旧ソ連体制下では検閲を通らない。どこにも居場所のないニコ。ある人の助言でパリに向かうが、パリでは売れる映画であることが第一条件だ。結局パリにも居場所がなくてグルジアに戻るニコ。

 このようなストーリーが淡々と、むしろユーモアを交えて、飄々と描かれる。それはニコ自身の感覚の表現でもある。ニコはいつもありのままの自分自身でしかいられない。人に合わせることはできない。人と競うこともできない。人とうまくいかないことも多い。ニコはニコなりに努力している。だが実を結ばないことが多い。

 そういうニコだが、その周囲にはいつもニコを助ける人がいる。家族であったり、親友であったり、ときには体制側の政府高官であったり。ニコはいつも自分自身であるがゆえに、不器用な生き方しかできないが、反面そのことが親しい人を招き寄せる。そういう人たちがいつも周囲にいることが、ほのぼのとした空気を生む。

 最後はアッと驚く幻想的な終わり方をする。あれはなんだろうという余韻が残る。もちろん伏線はあった。だがあのような終わり方に結び付くとは思いもしなかった。そこに込められた意味をめぐって、わたしは今もあれこれと想像している。

 この映画には音楽がいつも静かに流れている。それは少年がチェロの練習をしている場面であったり、パリの街角で老人がピアノを弾く場面であったり、カセットテープからグルジアの合唱が流れてくる場面であったりする。それらの静かな音楽が心地よい。

 ニコをふくめて登場人物はいつもみんな酒を飲んだり、煙草を吸ったりしている。そのことも、ゆったりとした、穏やかな流れを作っている。

 イオセリアーニはインタビューのなかで「すべてにあらがって、石になる喜び」を観客と共有したいと言っている。石になる喜び――自分自身である喜び。今まで人に合わせて、妥協し、言いたいことも言わずに、なんとかここまでやってきたわたしには、羨ましく、眩しい言葉だ。
(2012.4.5.岩波ホール)
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ジャクソン・ポロック展

2012年04月02日 | 美術
 ジャクソン・ポロック展を観た。目玉は「インディアンレッドの地の壁画」(テヘラン現代美術館、1950年)だが、その前後のアクション・ペインティングの諸作をふくめ、ポロックの初期から自動車事故によって突然の死を迎える後期・晩期までをたどった充実の展示だ。

 その「インディアンレッドの地の壁画」だが、ポスターやウェブサイトで何度も観たにもかかわらず、実際に観ると、実物でなければわからない面白さがあった。それはごく単純なことから、言葉では説明できそうもない精妙な事柄まで、幾層にもわたっていた。

 まず単純なことからいうと、絵具や塗料(ポロックはエナメル塗料などを使っている)の盛り上がり。これは画像ではわからない。その盛り上がりが生々しく感じられた。もちろんそれはすべての絵画にいえることだが、アクション・ペインティングになると、その盛り上がりが特別の意味をもった。

 一方、精妙な事柄は、無数の線の絡み合いの面白さだ。優美に大きく弧を描く線があって、それをたどっていると、そのすみで小刻みに震える線がある。また太く短く存在する線もある。それらの絡み合いを観ていると、音楽を聴いているような気分になる。

 けれども音楽とはちがう要素もある。音楽は、いかに前衛的であっても、なにらかの方向感があるのが普通だ。ところがこの作品はいわゆるオールオーヴァーの作風で、中心がない。たとえば原っぱの真ん中に立って、無数の草に囲まれたときの感覚に近い。長く横たわる草があれば、生えたばかりの小さな草もある。そしてどこからか飛んできた枯れ葉も――。

 これは楽しい絵だ。想像以上に明るい。これを観ながら思った。「制作当時の、戦後の高揚期にこれを観るのと、今の時代に観るのとでは、ちがって観えるのだろうか」と。おそらく制作当時は、時代の生き絵だったのではないか。無数の線の絡み合いは、当時の高揚した気分の反映だったのではないか。そしてそれはもう今では感じることが難しいのではないか――と思った。

 本展は国内外のさまざまな美術館から集めた作品で構成されている。そのなかの国内の美術館、たとえば大原美術館の作品などは、今までも観たことがあるはずだ。けれどもこうして生涯をたどるなかで位置付けられると、その意味がよくわかる気がする。今後またなにかの機会に観ることがあれば、もう漫然と観ることはないだろうと思った。
(2012.3.30.東京国立近代美術館)
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