親戚の家に不幸があったので、弔問のために宮城県大崎市に行った。お線香をあげて丸一日話しこんだ。故人の話はもちろんだが、何年ぶりかの訪問なので、話が尽きなかった。日が短い季節なので、夕刻になると、外はすぐに暗くなった。車で最寄りの無人駅まで送ってもらった。漆黒といってもよい農村地帯の夜。遠くにポツン、ポツンと人家の明かりが見えるだけだ。あたり一面の暗さに不思議な安らぎをおぼえた。
仙台に着くと、街の明るさに戸惑った。道行く人々の足が速い。圧倒される思いだ。仙台は都会だ。東京と変わりない。わたしは丸一日農村にいただけで、体内時計の進み方が遅くなり、都会の速さに追いつけなくなったようだ。
翌日は宮城県美術館(↑)(手前の大きな彫刻はヘンリー・ムーアの「スピンドル・ピース」)に行った。同美術館に行くのは3度目だ。過去の2度は駆け足で覗いただけだったので、今回はゆっくり鑑賞した。ちょうど特別展が終了した後で、常設展のみの展示だった。それはむしろ歓迎すべきことだった。
宮城県美術館の特色のひとつは、カンディンスキーやクレーなどのドイツ表現主義の作品を何点か所蔵していることだ。作品数はかならずしも多くはないが、すぐれた作品がふくまれている。目玉はカンディンスキーの「商人たちの到着」だろう(同館のホームページに画像が掲載されている。リンク(※)を参照↓)。まだ抽象画に進んでいない時期の作品。ロシアの風俗を描いたメルヘンチックな作品だ。油彩ではなく、テンペラ画だ。黒地に点描されたテンペラの、赤、青、緑、その他の多彩な斑点が、イルミネーションのように見える。カンディンスキーは当時メルヘンチックな作品をいくつか描いた。本作は力作のひとつだろう。
クレーの「橋の傍らの三軒の家」も以前見たことがある。黒地にオレンジ色の単純化された家が三つ並ぶ。そこに淡い青の幾何学的な文様が重なる。全体は(手ぶれした写真のように)二重の像になっている。透明で美しい水彩画だ。
クレーの作品ではもう一点、「力学値のつりあい」に惹かれた。これは以前見たことがあるかどうか……。暗い赤や青と、その隙間を埋める白とのまだら模様のうえに、黒の太い線が踊る。「橋の傍らの三軒の家」が壮年期の作品であるのにたいして、「力学値のつりあい」は晩年の作品だ。ナチスの弾圧を受けたクレーの絶望感が滲む。
初見だが、マックス・ペヒシュタインの「パイプ煙草を吸う漁師」は嬉しい発見だった。ドイツ表現主義の画家らしい鋭敏な感性が伝わる。
(2021.11.17.宮城県美術館)
(※)カンディンスキー「商人たちの到着」
仙台に着くと、街の明るさに戸惑った。道行く人々の足が速い。圧倒される思いだ。仙台は都会だ。東京と変わりない。わたしは丸一日農村にいただけで、体内時計の進み方が遅くなり、都会の速さに追いつけなくなったようだ。
翌日は宮城県美術館(↑)(手前の大きな彫刻はヘンリー・ムーアの「スピンドル・ピース」)に行った。同美術館に行くのは3度目だ。過去の2度は駆け足で覗いただけだったので、今回はゆっくり鑑賞した。ちょうど特別展が終了した後で、常設展のみの展示だった。それはむしろ歓迎すべきことだった。
宮城県美術館の特色のひとつは、カンディンスキーやクレーなどのドイツ表現主義の作品を何点か所蔵していることだ。作品数はかならずしも多くはないが、すぐれた作品がふくまれている。目玉はカンディンスキーの「商人たちの到着」だろう(同館のホームページに画像が掲載されている。リンク(※)を参照↓)。まだ抽象画に進んでいない時期の作品。ロシアの風俗を描いたメルヘンチックな作品だ。油彩ではなく、テンペラ画だ。黒地に点描されたテンペラの、赤、青、緑、その他の多彩な斑点が、イルミネーションのように見える。カンディンスキーは当時メルヘンチックな作品をいくつか描いた。本作は力作のひとつだろう。
クレーの「橋の傍らの三軒の家」も以前見たことがある。黒地にオレンジ色の単純化された家が三つ並ぶ。そこに淡い青の幾何学的な文様が重なる。全体は(手ぶれした写真のように)二重の像になっている。透明で美しい水彩画だ。
クレーの作品ではもう一点、「力学値のつりあい」に惹かれた。これは以前見たことがあるかどうか……。暗い赤や青と、その隙間を埋める白とのまだら模様のうえに、黒の太い線が踊る。「橋の傍らの三軒の家」が壮年期の作品であるのにたいして、「力学値のつりあい」は晩年の作品だ。ナチスの弾圧を受けたクレーの絶望感が滲む。
初見だが、マックス・ペヒシュタインの「パイプ煙草を吸う漁師」は嬉しい発見だった。ドイツ表現主義の画家らしい鋭敏な感性が伝わる。
(2021.11.17.宮城県美術館)
(※)カンディンスキー「商人たちの到着」