Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ルートヴィヒ美術館展

2022年07月30日 | 美術
 国立新美術館で「ルートヴィヒ美術館展」が開催中だ。20世紀美術の流れを概観する展示になっている。ルートヴィヒ美術館はドイツのケルンにある美術館だ。ケルンには主要な美術館が二つある。主に20世紀以降の作品を展示するルートヴィヒ美術館と、主に19世紀以前の作品を展示するヴァルラフ=リヒャルツ美術館。ともにドイツの有力な美術館だ。

 本展は序章プラス7章で構成されている。第1章は「ドイツ・モダニズム――新たな芸術表現を求めて」。第一次世界大戦前後から第二次世界大戦までのドイツ美術の動向を追っている。さすがにドイツの美術館だけあって、簡潔ながら目配りのきいた内容だ。日本で当時の作品をまとめて見る機会は少ないので、感銘深い。

 具体的にいうと、ドイツ表現主義の二大潮流である「ブリュッケ」と「青騎士」の画家たち、そしてその周辺の画家たちの作品が並ぶ。わたしがとくに感銘を受けた作品は、アウグスト・マッケ(1887‐1914)の「公園で読む男」(1914)だ。木々が生い茂る公園。帽子をかぶった紳士がベンチで新聞を読んでいる。紳士の体の傾斜と木々の傾斜が平行線をなす。紳士は木々と一体化しているように見える。緑と青と茶色の色彩が、調和のとれた賑わいを演出する。マッケは第一次世界大戦で戦死した。本作品は戦死したその年に描かれた。

 パウル・クレー(1879‐1940)の「陶酔の道化師」(1929)も優品だ。図案化された男の全身像。男は全能感に浸っているように見える。驕る人物の醜悪さが表れている。台頭するナチズムと関係があるのかどうか。少なくとも大恐慌が起きた年に描かれた作品なので、社会不安が背景にあることはまちがいないだろう。

 ケーテ・コルヴィッツ(1867‐1945)、エルンスト・バルラハ(1870‐1938)、ヴィルヘルム・レームブルック(1881‐1919)の彫刻が来ている。これらの3人の彫刻が揃うことそれ自体が感動的だ。そのうちの1点をあげるなら、レームブルックの「振り返る少女のトルソ」(1913/1914)をあげたい。憂愁をたたえた表情はレームブルックならではだ。制作当時のドイツは第一次世界大戦の勃発に沸きかえっていたはずだ。そんな世相にあって、少女はなにを悲しむのか。

 第2章以下では、第二次世界大戦中のピカソの作品(チラシ↑の右上)、戦後のアメリカのポップ・アート(チラシ↑の右下)等々、20世紀美術の歩みがたどられる。チラシ↑の左の作品はアンディ・ウォーホル(1928‐1987)の「ペーター・ルートヴィヒの肖像」(1980)。ペーター・ルートヴィヒはルートヴィヒ美術館の名前の由来となった人物だ。図像ではわかりづらいだろうが、輪郭をなぞるオレンジ色の線が意外なほど美しい。
(2022.7.4.国立新美術館)
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鈴木秀美/オーケストラ・ニッポニカ

2022年07月25日 | 音楽
 「芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ」が設立20周年を迎えた。それを記念して、今年度の3回の演奏会は日本人作曲家の作品を特集している。昨日はその第1回。1曲目は古関裕而(1909‐1989)の交響詩「大地の反逆」(原典版)(1928)。暗雲渦巻くロマン派風の作品だ。古関裕而の習作といっていいと思う。

 プログラムノートによれば、本作品は1923年に発生した「関東大震災に題材をとったといわれる」そうだ。それにしても「大地の反逆」という大仰な題名には、まだ10代の古関裕而の気負いが感じられる。微笑ましいというべきか。

 2曲目は早坂文雄(1914‐1955)の「ピアノ協奏曲第1番」(1948)。これは当演奏会の「発見」だった。隠れた名曲だと思う。全2楽章で、第1楽章は滔々たる流れのレント、第2楽章は活気のあるロンド。作曲当時の時代背景を思うと、第1楽章は敗戦の悲劇、第2楽章は戦後の復興を感じさせる。

 ピアノ独奏は務川慧悟。若いピアニストがこのような作品に取り組んでくれるのは嬉しい。いずれ再演の機会があるのではないか。というよりむしろプロのオーケストラが務川慧悟を招いて再演の機会を提供するように望みたい。

 アンコールが2曲弾かれた。わたしの知らない曲だったが、演奏会場の紀尾井ホールのホームページによると、早坂文雄の「室内のためのピアノ小品集」より第12番と第14番だった由。

 プログラムの後半は芥川也寸志の代表作2曲。まずは「エローラ交響曲」。マグマのようなエネルギーが噴出する演奏だった。それにしてもこの曲は、本来は実験的な性格をもっている。芥川也寸志は次のように書いている。「全20楽章。これらは2ツの性格に分けられています。レント、アダージョの楽章と、アレグロの楽章です。各楽章の演奏順位は指揮者に一任され、ある楽章を割愛することも、重複することも自由です(ただし、第17楽章から第18楽章へ、第19楽章から第20楽章へは常に続けて演奏される。)」と。ところが実際の演奏では、演奏順位は固定化されているらしい。わたしがいままで聴いてきた演奏もみなそうだったのだろう。いつか異なる演奏順位の演奏も聴いてみたいものだ。

 最後は「交響管弦楽のための音楽」。第2楽章アレグロが鮮烈な演奏だった。オーケストラの名称に「芥川也寸志メモリアル」と冠する当団体の面目躍如たるものがあった。なお最後になってしまったが、指揮者は当団体との関係も長い鈴木秀美だった。オーケストラをよくまとめていたと思う。
(2022.7.24.紀尾井ホール)
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アレホ・ペレス/読響

2022年07月23日 | 音楽
 アレホ・ペレスの読響定期初登場。アレホ・ペレスはアルゼンチン生まれだ。ヨーロッパ各地でオペラ、コンサートの両面で活躍中の指揮者。1曲目はペーテル・エトヴェシュ(1944‐)の「セイレーンの歌」(2020)。明るい光が射すような透明感と、なんともいえない軽さのある曲だ。年齢を重ねたエトヴェシュのいまの心象風景だろうか。

 演奏はその曲想を伝える名演だったのではないか。アレホ・ペレスはエトヴェシュのアシスタントを務めたことがあるそうだ。エトヴェシュの音楽をよく知っているのだろう。言い換えれば、エトヴェシュが認めるほどの才能の持ち主かもしれない。

 2曲目はメンデルスゾーンの「ヴァイオリンとピアノのための協奏曲」。メンデルスゾーン14歳のときの作品だ。演奏時間約37分(プログラム表記による)。堂々たる作品だ。おもしろい点は、オーケストラが沈黙しがちなことだ。オーケストラが沈黙すると、ヴァイオリンとピアノの二重奏になる。またオーケストラ全体が沈黙しないまでも、ピアノが演奏しているあいだは、第2ヴァイオリンは休んでいることが多い。

 ヴァイオリン独奏は諏訪内晶子、ピアノ独奏はエフゲニ・ボジャノフ。諏訪内晶子のヴァイオリンは、あまり作りこみすぎず、自然体で、存在感があった。ボジャノフのピアノはクリアな音だった。注目したのは、オーケストラがノンヴィヴラートだったことだ。いまの時代、若い指揮者はそれが当たり前かもしれない。澄んだ音で(たんなる伴奏にとどまらずに)積極的に関与していた。

 諏訪内晶子とボジャノフのアンコールがあった。フォーレの「夢のあとに」。旋律の大きな弧を描く諏訪内のヴァイオリンもさることながら、拍を刻んでいるだけのようなボジャノフのピアノもセンシブルで美しかった。

 3曲目はショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」。読響の機能性とパワーがさく裂した演奏だ。弱音の集中力にも欠けない。切れ目なく続く全4楽章(演奏時間約38分)の語り口も堂に入っている。アレホ・ペレスの実力が発揮された演奏だ。個別のパートでは、第3楽章から第4楽章にかけての岡田さんのティンパニの音楽性あふれる演奏が光っていた。

 それにしてもこの曲の、第4楽章フィナーレの、あのしつこさはなんなのだろう。あれだけやられると、ショスタコーヴィチはなにを考えていたのだろうと、その真意を探りたくなる。この曲とペアの関係にある交響曲第11番「1905年」では、最後に悲劇的かつ破壊的な曲想に急変する。最後になにか仕掛けがあるらしい点で、両作品は共通する。
(2022.7.22.サントリーホール)
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METライブビューイング「ハムレット」

2022年07月20日 | 音楽
 METライブビューイングでブレット・ディーンBrett Deanのオペラ「ハムレット」を観た。ブレット・ディーンは1961年オーストラリア生まれの作曲家・ヴィオラ奏者。1985年~1999年にはベルリン・フィルのヴィオラ奏者をつとめた。2000年に退団してフリーの作曲家になった。「ハムレット」は2017年にイギリスのグラインドボーン音楽祭で初演されたもの。

 冒頭、ほとんど無音の中に、ハムレットが「or not to be」と呟きながら登場する。その直後、荒れ狂ったような音楽が展開する。すさまじいテンションだ。それが延々と続く。正直、疲れる。だが、それがハムレットの胸中に吹きすさぶ嵐の表現だと気付いたとき、その音楽が受け入れられる。音楽はその後、徐々に変容する。

 本作品はシェイクスピアの原作を真正面からとらえたオペラだ。シェイクスピアの原作は、何度読んでも、ハムレットが何を苦しんでいるのか、よくわからない。その得体のしれない苦しみ、怒り、焦燥感、その他の諸々の感情の坩堝だ。白水社の「ハムレット」(小田島雄志訳)の解説で、村上淑郎氏がジョン・オズボーン(1929‐1994)の戯曲「怒りをこめてふり返れ」(新国立劇場が2017年7月に上演)を「ハムレット」からの流れの中でとらえている。たしかにあの苛立ちと過剰な言葉は「ハムレット」を思わせる。

 「ハムレット」のオペラ化の先行例は、わたしにはアンブロワズ・トマ(1811‐1896)の「アムレット(ハムレット)」しか思い浮かばない。舞台上演は観たことがないが、その作品では最後にハムレットは死なずに、デンマーク王になるらしい。ハッピーエンドだ。いまの感覚からいうと、呆れた改作だが、それは19世紀と21世紀のいまとのオペラ観のちがいだろう。

 ともかくブレット・ディーンのこのオペラは、シェイクスピアの原作に真正面から挑んだ初めての試みだろう。原作を2幕構成のオペラに要領よくまとめたマシュー・ジョスリンMatthew Jocelynの台本ともども、見事な成功例だと思う。

 ハムレットを歌ったのはテノールのアラン・クレイトンAllan Clayton。複雑極まるリズムと音程を歌いこなすとともに、法外なパワーとスタミナを要する役だ。絶賛に値する。オフィーリアはソプラノのブレンダ・レイBrenda Rae。狂乱の場での迫真の歌唱。興味深い点は、ローゼンクランツとギルデンスターンがカウンターテナーの役になっていることだ。二人は途中で死なずに、最後の剣術試合の場で死ぬように変更されている。もう一点、先王の亡霊と旅回り芸人の座長と墓堀人が掛け持ちになっている。その3役の取り合わせに味がある。指揮はニコラウス・カーター。若い指揮者だ。
(2022.7.19.109シネマズ二子玉川)
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ノット/東響

2022年07月17日 | 音楽
 ノット指揮東響の定期演奏会。1曲目はラヴェルの「海原の小舟」。率直にいって、アンサンブルをもう一歩練り上げてほしかった。どこがどうというのではないが、じっくりした余裕が感じられなかった。

 2曲目はベルクの「七つの初期の歌」。独唱はドイツのソプラノ歌手のユリア・クライター。密度の濃い歌唱だった。オーケストラの伴奏ともども、この作品のニュアンスを隅々まで表現する演奏だった。プロフィールによると、クライターはオペラとリートの両面で、ヨーロッパ各地で活動しているらしい。

 じつは「七つの初期の歌」はわたしの好きな曲だ。いままでは漠然と、初期のベルクの良さが詰まった曲だと思っていたが、沼野雄司氏のプログラム・ノートを読んで、もっと具体的に、わたしの好きな理由が解き明かされたように思った。

 若干長くなるが、プログラム・ノートのポイントの部分を引用すると――この曲は「ベルクが修業時代に書いたピアノ伴奏付歌曲から7つを選び、およそ20年後の1928年に管弦楽伴奏付歌曲に仕立てあげたもの。結果としてこの作品は、20代のベルクが浸っていたロマン派の世界を、40代半ばのベルクが冷徹に見直すという、独特の二重性を孕むこととなった。」として、「原曲の調性はかろうじて維持されているけれども、その可能性は管弦楽によって限界までに拡げられ、どこか世界の果てのような光景を開示する。」としている。

 最後のセンテンスの「世界の果てのような光景」という言葉が、わたしが聴いているこの曲のまさにその姿を的確に言い表しているように感じた。

 3曲目はマーラーの交響曲第5番。何が起きたのか、冒頭のトランペット・ソロでミスが連続した。しかも音が細くて、弱々しく、おどおどした感じに聴こえた。ノットの指揮と呼吸が合っていなかった。それが冒頭だけではなく、第1楽章を通じて感じられた。だが、皮肉なことに、わたしは「もしこのような弱々しい音が意図されたもので、それが弱々しいままに完璧な演奏だったら、いままで聴いたことのないコンセプトの演奏になるかもしれない」と思った。一方、第3楽章を中心としたホルン・ソロは、朗々とした音で、安定感があり、それこそ完璧な演奏だった。

 全体としては彫りが深く、随所に対旋律やハーモニーの層が浮き上がる、スリルにとんだ演奏だった。ノットの頭の中にはこの曲の音像が明瞭かつ揺るぎなく刻まれていることが感じられた。東響もその音像にむかって懸命に食らいついた。果敢にリスクをとった演奏といえる。
(2022.7.16.サントリーホール)
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新国立劇場「ペレアスとメリザンド」

2022年07月14日 | 音楽
 新国立劇場の「ペレアスとメリザンド」を観た。同劇場で観たオペラ公演の中で、これは屈指の密度の濃さを誇る公演だと思った。そう言った矢先に、トウキョー・リングという破格の公演があったとささやく内なる声が聞こえるので、これは同劇場に固有の、どこか冷めた、劇場の大空間を満たせない公演とは一線を画す公演だと言い直そう。

 演出はケイティ・ミッチェル。エクサンプロヴァンス音楽祭とポーランド国立歌劇場の共同制作だ。幕が開くと、音楽が始まる前に、白いウェディングドレスを着たメリザンドが、大きな荷物をもって部屋に入ってくる。ホテルの一室だろうか。疲れた様子だ。結婚式の途中で逃げ出したように見える。メリザンドはベッドに横になり、眠ってしまう。音楽が始まる。以下はメリザンドが見た夢だ。

 いわゆる夢落ちではなく、最初にこれは夢であると告げられるわけだ。メリザンドが見た夢なので、物語は徹底的にメリザンドの視点から描かれる。メリザンドが何に怯え、何に苦しみ、また何を欲するのか。その深層心理が描かれる。

 冒頭のメリザンドとゴローの出会いの後、舞台はゴローとペレアスの母(ただしそれぞれの父は異なる)のジュヌヴィエーヴと祖父アルケルの会話の場面になる。当演出ではジュヌヴィエーヴとアルケル以外にゴローもペレアスもいて、家族全員が食事をする場面に変わっている。そこにメリザンドが入ってくる。だが、メリザンドが座る椅子はない。メリザンドは立ったままだ。

 以下、具体的な説明は省くが、メリザンドはゴローだけではなく、ペレアスやアルケルからも欲望の眼差しを浴びる。一方、メリザンドの欲望はペレアスにむかう。メリザンドも受け身だけの存在ではないのだ。また原作と台本では幕切れに登場する赤ん坊が、当演出では随所に登場する。赤ん坊だけではなく、メリザンドの妊娠(大きなお腹)も描かれる。以上の欲望、妊娠、出産は、かならずしも時系列的に描かれるわけではなく、むしろ時系列は錯綜しながら、随所に現れる。夢だからそれが可能なのだ。

 結局、メリザンドはそれらの総体としての結婚生活から逃れるために、結婚式の当日に逃亡したのではないか、と思わせる。幕切れで場面は幕開きのシーンに戻る。メリザンドは目を覚ます。ベッドから起き上がる。そして幕。

 大野和士の指揮は濃厚にドラマを描いた。歌手ではゴロー役のロラン・ナウリが傑出していた。ペレアス役のベルナール・リヒターもすばらしかった。メリザンド役のカレン・ヴルシュは2014年12月にデュトワ指揮N響がこのオペラをやったときのメリザンド役だ。
(2022.7.13.新国立劇場)
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広上淳一/日本フィル

2022年07月09日 | 音楽
 夜に日本フィルの定期演奏会を控えたその昼に、安倍元首相が銃撃されたというニュースが飛び込んだ。それ以来、時々刻々と入るニュースに釘付けになった。夕方には死亡が報じられた。容疑者は「特定の宗教団体」をあげ、その恨みからやったと供述しているらしい。「特定の宗教団体」がどこなのかは、もちろん気になるが、それ以上に、本件は政治テロではないことが重要だと思った。安倍元首相は政治信条に殉じたのではない。けっして故人を貶めるつもりでいうのではないが、つまらない亡くなり方をしたのだ。

 そんなことを思ったのは、その夜の日本フィルの定期演奏会で聴いたブルックナーの交響曲第7番(ハース版)の第2楽章で、だった。ワーグナーの逝去の報に接してブルックナーが書いた荘重な音楽。どうしてもそこに安倍元首相の逝去を重ねてしまいがちだが、それは短絡的・情緒的にすぎないのではないかと、思いとどまった。

 今後予想される安倍元首相の美化の動きに、わたし自身反応してしまう要素がある。だが、それはちがうのではないか。かりに政治信条に殉じたなら、その政治信条はわたしのとは異なるけれども、それはそれでひとつの生き方だろう。だが、本件は「特定の宗教団体」への恨みが原因だ。ブルックナーの荘重な音楽に送られるような亡くなり方とは隙間があるのだ。

 演奏はよかったと思う。息の長い呼吸感が終始保たれていた。広上淳一は60代に入ってこのような呼吸感を身に付けたのかと、感慨深かった。20代のころのがむしゃらな指揮姿が脳裏に焼き付いているわたしには、当時は想像もできなかった変貌ぶりだ。

 広上淳一は、中年になったころ、省エネ・スタイルの演奏に変わった。わたしはその演奏スタイルの変化に戸惑い、今後どうなるかと見守った。そしていまは、脱力感をベースに、充実した響きにも事欠かない演奏スタイルにたどりついたようだ。

 当夜の演奏では、第1楽章はむしろ音が軽めだったが(わたしはそのようなブルックナーも好きだが)、第2楽章以下ではずっしりした手ごたえのある音が鳴った。基調としての見通しのよい音響と、要所でのブルックナーらしい咆哮とが両立する演奏だった。

 話の順序が逆になったが、1曲目にはブルッフの「スコットランド幻想曲」が演奏された。ヴァイオリン独奏は米元響子だった。2階席後方のわたしには、独奏ヴァイオリンがオーケストラに埋もれ気味だった。よく聴くと、闊達な演奏なのだが、オーケストラから浮き上がってこなかった。ハープは日本フィルのハープ奏者・松井久子だった。これもわたしの席からはよく聴こえなかった。
(2022.7.8.サントリーホール)
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アンドレ・ボーシャン+藤田龍児「牧歌礼讃/楽園憧憬」展

2022年07月05日 | 美術
 東京ステーションギャラリーでアンドレ・ボーシャン(1873‐1958)と藤田龍児(1928‐2002)の二人展「牧歌礼賛/楽園憧憬」が開催中だ。

 フランスの画家・ボーシャンと藤田龍児とは、生きた時代も場所も異なり、なんのつながりもない。あえていえば、ともに素朴派の画家と分類される点が共通するくらいだ。その素朴派という分類も、後世の人々がそう呼ぶだけで、画家本人が素朴派をめざしたわけではない。だが、それはともかく、本展には二人に共通する明るくポジティブな活力がみなぎっている。それだけではなく、二人のちがいも見えてくる。

 チラシ(↑)に使われた作品は、上がボーシャンの「川辺の花瓶の花」(1946)だ。背景はフランスののどかな丘陵地帯だろう。手前に大きな花瓶がある。実際にそこに花瓶があるというよりは、背景の自然と花瓶とのコラージュのように見える。花瓶に活けられた花々は、左右対称というよりも、いくぶん左にかたよっている。そのわずかなアンバランスが画面にリズムを生む。

 下の作品は藤田龍児の「デッカイ家」(1986)だ。画面いっぱいに大きな家が建っている。2羽の白い鳥と3羽の黄色い鳥がいる。デッカイ家をねぐらにしているのだろう。遠くに新しい家々が見える。そこは新興住宅地のようだ。デッカイ家はそこから離れた廃屋だろうか。だれも住まなくなった家。でも、その廃屋は鳥たちの聖域になっている。

 上記の2作品をくらべると、ボーシャンと藤田とのちがいが見えてくる。ボーシャンの場合はひたすら明るく、翳りがない。一方、藤田の作品には、時間の堆積がひそんでいる。堆積された時間は、戦後日本の高度経済成長期と重なる。その時期に失われたもの、あるいは失われかけているものへの郷愁が隠れている。

 二人の作品には現代人の疲れた心を癒すものがある。だが、そのような作品を生んだ二人の人生は、けっして順風満帆ではなかった。ボーシャンは第一次世界大戦に従軍しているあいだに、自身が経営する農園が破産し、妻は精神を病んだ。ボーシャンは妻が1943年に亡くなるまで介護した。妻が亡くなる前年の1942年に描いた「ボーシャン夫人の肖像」には、精神を病んだ老妻がリアルに描かれている。他の作品では人物が類型的な描かれ方をしているのと対照的だ。

 一方、藤田龍児は1976年に脳血栓を発症し、翌年再発した。その結果、右半身不随になり、一度は画業をあきらめた。作品の一部を廃棄もした。しかし3年後に左手で描き始めて再起した。素朴派風の作品が生まれるのはそれ以降だ。
(2022.6.24.東京ステーションギャラリー)
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MUSIC TOMORROW 2022

2022年07月02日 | 音楽
 N響恒例のMUSIC TOMORROW 2022。今年は直前になって外国人演奏家の来日中止が相次いだ。そのため、後述するように、曲目の一部が中止され、またソリストが変更された。それでもよく開催にこぎつけたものだ。

 1曲目はドイツ在住の作曲家・岸野末利加(きしのまりか)の「What the Thunder Said/雷神の言葉」(2021)。独奏チェロをともなう曲だ。独奏チェロはケルンWDR交響楽団(旧ケルン放送交響楽団)のソロ・チェロ奏者のオーレン・シェヴリン。

 題名の「What the Thunder Said」はT.S.エリオットの詩「荒地」からとられている。岸野末利加は「スペイン風邪と第1次世界大戦で荒廃した当時のヨーロッパで書かれた美しい詩は、100年後の今、パンデミック、気候災害、人種、宗教、経済の様々な問題を抱える現在の世界の状況を映しています」と書いている。

 チェロとオーケストラが激しく疾走する曲だ。題名のゆえだろうか、閃光がひらめき、雷鳴がとどろくような音型が頻出する。それがおさまったところで終わる。本作は今後書かれる予定のチェロ協奏曲の第1楽章になるという。とすれば、第2楽章以下はどんな展開になるのだろう。

 2曲目はシェヴリンのチェロ独奏でフランコ・ドナトーニの「Lame」(1982)。当初はプログラムになかった曲だ。ピアニストのフランソワ・フレデリック・ギイが来日直前のPCR検査で陽性になり、来日中止になった。それにともないトリスタン・ミュライユの「嵐の目」(2021)が演奏中止になった。その代わりか。曲目解説の紙片もなかった。急場のあわただしさが察しられる。

 3曲目は細川俊夫のヴァイオリン協奏曲「ゲネシス(生成)」(2020)。独奏予定のヴェロニカ・エーベルレが4日前に体調不良で来日中止になった。そこで3日前に独奏者をN響のゲスト・アシスタントコンサートマスターの郷古廉に代えた。固唾をのんで演奏を見守った。集中力のある立派な演奏だった。本作品は雄弁な傑作だ。語り口のうまさは大家の風格だ。途中で独奏ヴァイオリンとフルート、そして次にチェロとの掛け合いがある。そこから先は音楽が一層深まり、神秘的ですらある。

 4曲目は西村朗の「華開世界」(かかいせかい)(2020)。細川俊夫のモノトーンで北方的な音楽にたいして、本作品はカラフルで南方的だ。西村朗がオペラ「紫苑物語」の後に書いた意欲作だ。本作品は昨年のMUSIC TOMORROW 2021でも演奏された。今年は指揮者が杉山洋一からイラン・ヴォルコフに変わったせいか、演奏が一段とシャープになった。
(2022.7.1.東京オペラシティ)
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