Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

班女

2009年08月27日 | 音楽
 細川俊夫さんのオペラ「班女」が日本初演された。2004年にフランスのエクサンプロヴァンス音楽祭で初演され、その後ヨーロッパ各地で上演されていたが、今回は待望の日本初演。開演前には細川さん自身のプレトークがあった。

 細川さんはプレトークで、自分の音楽をカリグラフィー(日本の書)にたとえて、次のように語っていた。
 「書のようなラインを、白紙の上にかくのではなく、現代という時代の上にかきたいと願っています。たとえば今日だったら、会場の外には高速道路が走っていて、地下には地下鉄が走っている、そういう上にかきたい。なので、このオペラの第1場と第4場では、録音された地下鉄の音が流れます。」(大意)
 現代にたいするアクチュアルな姿勢――。

 「班女」は、もともとは世阿弥の作と考えられている能だが、それを三島由紀夫が翻案して「近代能楽集」におさめた。「近代能楽集」の中でもこれはドラマの構造を本質的に改変している点で異色の作品。能では、遊女の花子が、ちぎりを交わした吉田の少将が帰らないので気がふれ、狂おしいまでの恋情を語る。三島の作品では、実子という第三の登場人物が設定され、花子をめぐる同性愛的な三角関係が生まれる。

 細川さんのオペラは三島作品をドナルド・キーンが英訳したものにもとづいている。
 全体は1幕6場で構成され、第1場は前奏曲。静寂の中から弦のグリッサンドなどの微細な音が立ち上がり、やがて地下鉄の音が走り抜ける。
 第2場で実子が登場し、物語がはじまる。音楽は、音の密度を濃くし、また薄めながら、吉雄(吉田の少将に相当)が登場する第4場にむかって緊張を高める。ときどき炸裂する打楽器は、能でうちこまれる鼓を連想させ、また、喉にひっかかるような唱法は謡曲を連想させる。
 第4場でピークをむかえた緊張は、第5場から次第に弛緩していく。ドラマの展開の上での重要なポイントでは沈黙が支配する。最後は冒頭の静寂が戻って幕となる。

 狂気の中に閉じこもったままの花子、花子の愛を得られなかった吉雄、狂気の花子を失わずにすんだ実子。3人のあいだに感情の交流は生まれず、やりきれない思いを残してオペラは終わる。愛をめぐる苦しみが、原作の能とはちがうけれども、現代人のかかえる苦しみとして、濃密に表現されている。

 これは英語のオペラだが、花子をうたった半田美和子さんだけは、歌のあいだに挿入される語りが日本語だった。その日本語がきれい――。
 (2009.08.26.サントリーホール小ホール)
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小川典子 ドビュッシーの日

2009年08月25日 | 音楽
 ドビュッシーのピアノ作品全集の録音を進めている小川典子さんが、「ドビュッシーの日」と題するマラソン・コンサートをひらいた。午後1時から約1時間のコンサートを3回開催。あいだに2時間ずつの休憩をとったので、終演は午後8時。

 第1ステージはドビュッシーの名曲選。「アラベスク第1番」、「月の光」、「前奏曲」第1集と第2集から5曲、「子供の領分」から2曲、「喜びの島」というプログラム。
 とりわけ「前奏曲」からの5曲の選曲が面白かった。「沈める寺」を3曲目にすえて、その前後に「亜麻色の髪の乙女」と「エジプトの壷(カノープ)」、1曲目は「西風の見たもの」、5曲目は「花火」。このように並べると、急―緩―中心―緩―急というアーチ状の組曲になる。なるほど、と感心した。
 余談になるが、「花火」はストラヴィンスキーの同名曲(管弦楽曲)を参考にしていると感じるが、どうだろうか。

 第2ステージは「版画」全曲と「映像」第1集および第2集の全曲。とくに「映像」第2集では、各声部のラインがどこまでも続いていくさまが明瞭にきこえてきて、私はこの曲のなにかがつかめたような気がした。

 第3ステージは「12の練習曲」全曲。意欲にみちた演奏で、間然するところがなく、圧倒的だった。この曲の演奏に使命感をもつ演奏家があらわれたことを感じた。
 この曲は、詩的なイメージに頼らず、自立した音の構造を探求した音楽。私はとくに「6度のために」と「和音のために」で、針の穴のようなものかもしれないが、後のメシアンにつながる道が開けているように感じた。

 各ステージではアンコールが演奏されたので、第3ステージでは多分(「12の練習曲」の先駆となる)「交替する3度」ではないかと思っていたら、ちがう曲だった。
 そして最後にもう1曲、第1ステージで演奏された「月の光」が演奏された。第1ステージではガラス繊維のような音だったが、今度は太い明瞭な音。この変化は、演奏者の疲れのためか、それとも「12の練習曲」の演奏の余韻が残っているためか。

 思い出話になるが、私は小川典子さんのデビュー当時の演奏会をきいたことがある。帰宅後調べてみたら、1987年12月23日だった。場所は(私の記憶がまちがっていなければ)昨日と同じ東京文化会館小ホール。コチコチに緊張した小川さんが、それでも精一杯に笑顔をふりまいていたことを、鮮明におぼえている。
 その小川さんが、今では日本とイギリスの両国に根を下ろし、押しも押されもせぬ知性派ピアニストとして活動している。――演奏家の成長した姿をみるのはよいものだと思った。
(2009.08.24.東京文化会館小ホール)
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ブラジル風バッハ

2009年08月24日 | 音楽
 今年はブラジルの代表的作曲家ビラ=ロボスの没後50年。それを記念して連作「ブラジル風バッハ」の全曲演奏会がひらかれた。
 「ブラジル風バッハ」は第1番から第9番まで全9曲。楽器編成はピアノ独奏から室内楽、無伴奏合唱、オーケストラと多岐にわたっている。作曲年代は1930年から1945年まで。当日の指揮者ロベルト・ミンチュクによれば、全曲を一気にやるのはおそらく世界でも初めてではないかと――。

 以下、演奏順に寸描を。
 最初に演奏されたのは第6番。この曲はフルートとファゴットの2重奏。ファゴットのえがく太い線がとくに魅力的に感じられた。(フルートは斉藤和志、ファゴットは黒木綾子)
 第9番は無伴奏合唱。後の編曲による弦楽合奏版で演奏されることが多いが、オリジナルはこちら。私はオリジナル版できくのは初めてだが、ひじょうに高度な合唱曲で、ビラ=ロボスの作曲技法の洗練を感じた。(新国立劇場合唱団)
 第4番はピアノ独奏。この曲も後の編曲のオーケストラ版できいたことがあるが、ピアノ独奏できくのは初めて。このほうがブラジル風の音の感覚が感じられた。(白石光隆)

 休憩の後、第1番はチェロ8本。あらためて考えてみると、チェロのみによる合奏という発想がユニークだ。ビラ=ロボスはチェロが得意だったそうだが、仲間とチェロ合奏を楽しむことがあったのか。名曲だが、演奏は低調。(東京フィルのチェロ・セクション)
 第5番はソプラノ独唱とチェロ8本。おそらくビラ=ロボスのもっとも有名な曲だが、生できいてみると、人の声の官能性に驚く。(ソプラノ独唱は中嶋彰子)
 この曲の歌詞はブラジルの風土を反映して美しい。その一部を引用すると――、

「夕暮れ、美しく夢みる空間に
 透きとおったバラ色の雲がゆったりと浮く!」(訳:濱田滋郎)

 この後、約30分の休憩。ロビーではギター独奏で「ブラジル民謡組曲」が演奏されて、フェスティヴァル気分を盛り上げてくれた。(益田正洋)

 第3番はピアノとオーケストラ。この曲は昨年、某オーケストラがとりあげたが、さっぱり共感のない演奏だったのでがっかりした記憶がある。この日は、多少粗いが、ラテン的なノリの演奏。ピアノは文句なし。(ピアノは白石光隆、オーケストラは東京フィル)
 第8番はオーケストラ。この曲にも粗さを感じたせいか、今になると印象が薄い。

 第2番もオーケストラ。私の愛してやまない曲だが、生では初めてきいた――私は今までフル・オーケストラだと思っていたが、なんと、室内オーケストラだった。
 最後は第7番で、これもオーケストラ。この曲では透明感のある演奏がきかれて、よい締めくくりになった。
(2009.08.22.東京オペラシティ)
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花と兵隊

2009年08月20日 | 映画
 第二次世界大戦が終結しても、日本に帰らず現地に残った未帰還兵がいた。その人たちを探してインタビューをしたドキュメンタリー映画「花と兵隊」が公開されている。監督は松林要樹という1979年生まれの若い人。インタビューは2006年から2008年にかけておこなわれているから、監督がまだ20代のころ。
 監督の語るところによれば、あの戦争は祖父の時代のことでは済まない、戦争のとき祖父たちはまだ20代、今の自分と同じ年代、自分はたまたま今の時代に生まれたが、あの時代に生まれていたら、自分が遭遇したはず、もしそうだったら自分はどうしたか、そう考えると他人事ではない、と(大意)。

 登場する未帰還兵は6人。そのうちビルマ(現ミャンマー)国内の少数民族カレン族の中に定住の場を見出した坂井勇さんと中野弥一郎さん、タイに定住した藤田松吉さんの3人が主要登場人物。映画の前半は、坂井勇さんの大家族の日常生活を中心として、未帰還兵のみなさんが現地で根を張り、幸せな家庭を築いたことが描かれる。

 後半ではトーンが変わる。藤田松吉さんがシンガポールで華僑の大虐殺にかかわっていたことを語りだす。
 「あそこでは、殺したということは、小さい、このくらいの子供を殺してしまったんだよ。支那人の子供、殺してしまったんだよ。・・・あれは支那人の子供よ。支那人の子供とか、かかあとか、なんとか、全部殺してしまったんじゃ。命令が出てきたから殺したんだよ。女も子供も。」(プログラム誌)

 話はこれにとどまらない。6人の中でもいちばん穏やかで、好々爺のようにみえた中野弥一郎さんが、「なぜ帰国しなかったんですか」と問われて、言葉につまり、ボソッと一言いう、「ひとにはいえないことがあるんです」。心の中の闇がかいまみられる瞬間。
 先に行くと、藤田松吉さんも同じ闇をかかえていることがわかる。
 2人の闇がなんであるかをここに書くことは、はばかられる。そんなことをすると、2人の苦しみを冒涜するように感じられるから。

 闇を生きてしまった2人には、戦後の日本に居場所はなかった。かれらを受け入れてくれたのは、妻を含めた現地の人たちと熱帯の自然。
 映画の最後に、藤田松吉さんが2001年に亡くなった妻ボーチャルさんの写真をみるシーンがある。若いころのその写真は、きれいだった。
 藤田さん自身も今年1月に亡くなった。大虐殺にかかわった罪は、未来永劫ゆるされることはないだろう。そういう存在になってしまった藤田さんに、死後も寄り添ってくれる妻がいること――そこにせめてもの救いを感じた。
(2009.08.19.シアター・イメージフォーラム)
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意志の勝利

2009年08月15日 | 映画
 何年か前に(調べてみたら2003年だった)、ドイツの映画監督レニ・リーフェンシュタールの死去が報じられた。私は驚いた。それは101歳という年齢もさることながら、歴史上の人物だと思っていた彼女が、まだ生きていたから。報道によれば、70歳を超えてからもスキューバダイビングに興じていたとのことで、いかにも彼女らしい意気軒昂さだ。

 レニ・リーフェンシュタールというと、ヒトラーに気に入られて、ナチのプロパガンダ映画「意志の勝利」やベルリン・オリンピックの記録映画「オリンピア」をつくった人として、その名を記憶していた。

 なかでも「意志の勝利」にはおぞましいイメージがあるが、その映画が今都内で上映されている(8月28日まで)。ドイツでは法律で上映が禁止され、日本でも劇場上映は1942年以来67年ぶりとのこと。上映の趣旨は「本作を所謂「反面教師」とし、二度とあのような歴史を繰り返してはならないという現代社会への警鐘」にするためとされている。

 この映画はドイツのニュルンベルクで1934年9月4日から6日間にわたっておこなわれたナチの党大会の記録。1934年といえば、その前年に政権をとったヒトラーの絶頂期のころ。市内のさまざまな場所で昼夜を分かたずおこなわれる各種の集会やパレードは、まさに一大政治ショーだったことがわかる。

 映画の冒頭は、雲の上を飛んでいる飛行機からみた空の映像。飛行機にはヒトラーが乗っているように感じられる(多分これは演出。実際は‥)。次第に高度を下げると、ニュルンベルクの街並みが俯瞰され、地上には党大会のために集まっている群衆がみえてくる。
 カメラが切り替わって、飛行場の滑走路。そこに悠然と飛行機が降り立ち、ヒトラーが姿をみせる。ピークに達する群集の熱狂。この場面で、私は不覚にも背筋がゾクゾクしてしまった。ちょうどワーグナーの楽劇のクライマックスで感じるような高揚感。これはまずいと気を引き締めた。
 空港からオープンカーでパレードするヒトラー。沿道に並ぶ人々。若い母親が子どもを抱えて歩み寄り、歓迎の花束を手渡す。笑顔でこたえるヒトラー。今の時代でも、どこかの全体主義国家がやりそうな演出だと感じた。

 以下、この調子で6日間の集会やパレードが描かれる。カメラは、ヒトラーその人よりも、熱狂する人々を追っている。ナレーションは一切なく、映像と音楽とヒトラーその他の演説の声だけ。ある意味では単調だが、その繰り返しが圧倒的なうねりになる。低い声ではじまり、やがて興奮して絶叫するヒトラーの演説の陶酔感は、この映画を通じて確実に当時のドイツ各地に伝わったことだろう。
(2009.08.13.シアターN渋谷)
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日本海軍400時間の証言

2009年08月13日 | 身辺雑記
 私は家ではテレビをみない生活をしていますが、仕事上必要なので、主に非常災害のときの情報収集用に1台もっています。普段は納戸にしまってありますが、たまに引っ張り出してみることがあります。

 9日から11日にかけて連続放送されたNHKスペシャル「日本海軍400時間の証言」の初日。実は他の番組とまちがえて、みはじめました。最初は、あれ、おかしいなと思いながら、やがてまちがえたことに気づき、だんだん引き込まれていきました。
 ひじょうに興味深かったので、結局3晩ともみてしまいました。

 ご覧になったかたも多いと思いますが、念のために各回のタイトルを記すと――
(1)開戦 海軍あって国家なし
(2)特攻 やましき沈黙
(3)戦犯裁判 第二の戦争

 戦時下、天皇の統帥権の補助機関としてつくられた「軍令部」に所属したエリート軍人たちが、昭和55年から11年間にわたって会合を重ね、当時を検証した「海軍反省会」。その膨大な録音テープの解析がこの番組の骨子です。

 おそらくジグザグコースをたどったであろう400時間の議論から、番組制作スタッフがなにを見出して、視聴者に伝えようとしたのか。それは「当時の問題は今も変わっていない」ということのようです。

 開戦を目指す「小僧」たち(証言者の言葉。少佐、中佐あたりを指しています)が、決裁印を押さない上司をとびこえて、総長(軍令部トップ)の決裁をとる姿。
 また、戦況悪化で手詰まり状態に陥った軍令部が、禁じ手の特攻になだれ込み、それにたいして疑問をもちながらも、流れには逆らえなかった「やましき沈黙」。
 戦後、戦犯裁判がはじまったときに、捕虜虐待の戦争責任からトップ(海軍大将)を守るために、現場の指揮官に全責任をおしつけた組織の論理。

 証言者の一人はいいます、「海軍にも悪い奴がいてね」。悪い奴ってなんだろうと思ったら、戦後のある日、その証言者が、戦犯として処刑された戦友の遺族を訪ねたところ、弔いを拒否されたとのこと。「『あんたの旦那さんは組織を守るために責任をとらされた』といった奴がいたんだ」。それが「悪い奴」――。

 この放送をうけて、世間ではまたまた大声で「偏向番組」という人が出てくるかもしれません。憂鬱なことです。
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北穂高岳登山

2009年08月10日 | 身辺雑記
 毎年夏になると、高い山に登っています。今年は北アルプスの北穂高岳(3106メートル)へ。

 6日(木)の朝、JRで新宿から松本へ。松本に着いて、いつものとおり松本電鉄に乗り換えましたが、登山客が少ないので意外に思っていたら、「上高地に行くお客様は直通バスで」との車内放送。あわててバスターミナルに向かいました。世の中、少しずつ変わるんですね。

 上高地に着いてから、林道を3時間ほど歩いて横尾山荘へ。曇り空ですが、ときどき薄日がさしたり、ときにはパラパラと雨がふったりする天気。山荘に入ったとたんにゴロゴロッと音がして雷雨に。滑り込みセーフです。

 7日(金)の朝は雨。しかたがありません、雨具をつけて歩き始めましたが、蒸し暑くて、元気が出ません。足取りも重く、やっとの思いで涸沢(2309メートル)へ。山小屋の手前には雪渓が残っていて、びっくり。こんなことは初めてです。小屋のかたにきいてみると、「珍しいですね」。今年は、冬の積雪量は平年並みだったそうですが、6月には雨が少なく、7月には日照時間が短かったからとのこと。

 小屋のメニューに「ジョッキパフェ」というのがあったので、面白半分に注文してみました。出てきたものは、ビールの大ジョッキに盛り付けられたフルーツパフェ(1500円)。ほかのお客さんの好奇の目線を感じながら、ぺろりとたいらげました。

 ジョッキパフェで元気が出ました。相変わらずの雨の中を北穂高岳へ。視界はゼロ。雨具のフードに当たる雨の音がにぎやかです。頂上近くになって、ときおり雨のやむ瞬間があったので、フードをはずすと、あたりは風の音だけの静寂の世界。なんだか自分が原初の生命に戻ったようです。

 頂上に着いても雨。仕方がないので、直下の山小屋でワインを飲んで時間をつぶしました。夕食時、小屋のかたが「ガス(霧)の間から槍ヶ岳の穂先がみえます」。みんないっせいに外に出ると、たしかにガスの渦巻く間から黒い穂先がみえます。軒先で雨をよけながら、みんなで歓声を上げていると、みるみるうちにガスが切れ、雨がやんで青空が広がってきました。目の前には北アルプスの大展望。あわてて頂上に戻ってみると、奥穂高岳に夕日があたり、感動的な光景です。ブロッケン現象(光の輪の中に自分の姿がうつる自然現象)も――。

 満足して就寝。夜中に目がさめたので、「ひょっとすると満天の星かも」と思って外に出てみましたが、ザーザー降りの雨。翌朝も雨で、雨の中を下山しました。涸沢に戻って、ジョッキパフェで締めているうちに、雨がやんで、気持ちのよい夏山になりました。
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日本SP名盤復刻選集

2009年08月04日 | 音楽
 電子部品メーカーのローム株式会社の創業者、佐藤研一郎さんが設立した財団法人ローム ミュージック ファンデーションが2004年から発行していた「日本SP名盤復刻選集」が、本年5月に完結した。全4巻からなり、合計でCD26枚という膨大な量。

 「発行の趣旨」によると、音源は「日本の洋楽レコードの黎明期である1912年(大正元年)からSPレコードの生産がLPレコードへと本格的な転換期を迎える1952年(昭和27年)までの約40年間」のSPレコード。
 収録曲の選定条件は、「①日本人音楽家による外国人作曲家作品の演奏(国内録音・海外録音)、②日本人作曲家作品の演奏(国内録音・海外録音)、③日本で活躍した外国人音楽家の演奏(国内録音)」となっている。

 一言でいうと、日本の洋楽の黎明期の音源の収録。放っておけば、いつかは散逸するかもしれないSPレコードが復刻され、後代に残される意義は大きいと思う。

 たとえば1930年に録音された近衛秀麿の指揮する新交響楽団(今のN響の前身)のマーラーの交響曲第4番(ソプラノは北澤栄という人)。これはこの曲の世界初録音だったそうだ。産声をあげたばかりの当時の日本のオーケストラが、もうマーラーを演奏してしまうとは、驚くばかり。演奏はたしかに危なっかしいが、そのことを今の耳であれこれ言うことは適当ではない。

 近衛秀麿の演奏では、ベルリン・フィルを振ったモーツァルトの管楽器のための協奏交響曲(1937年ドイツ録音)やハイドンの交響曲第91番(1938年ドイツ録音)もあり、いずれも堂々とした指揮ぶりだ。オーケストラもさすがの優秀さ。
 近衛秀麿は大戦中は結局ヨーロッパにとどまったが、これらの録音をきくと、当時の活動の一端がうかがわれる。

 終戦後、帰国したが、戦後の日本では時流が変わり、不遇をかこっていた。
 私は幸いにも、中学生から高校生のころによく出かけたテレビの公開録画で、その最晩年の演奏に接することができた。読売日響や日本フィルを振ったシベリウスの交響曲第2番やチャイコフスキーの交響曲第5番。熱のこもった大らかな流れのその演奏に、近衛秀麿ってなかなかいいじゃないかと思った記憶がある。

 音楽にかぎらず社会のいろいろな分野で、戦後を席巻してきた潮流が失速し、今まで日陰の存在だったものにも目が向けられるようになってきた。今後、近衛秀麿の評価はどう進むのだろうか。
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ルーヴル‐DNPミュージアムラボ

2009年08月01日 | 美術
 ルーヴル美術館と大日本印刷(DNP)の共同開発プロジェクト「ルーヴル‐DNPミュージアムラボ」の第6回展が始まった。題名は「1800年前、エジプトに生きた女性たちの肖像」。
 展示作品は紀元2世紀のローマ帝国支配下の古代エジプトの肖像画3枚。当時は生前に肖像画を描き、没後、ミイラにした遺体に取り付ける習慣があったとのこと。

 構成は、今回も最初に「展示室」で作品を鑑賞し、次に「シアター」で映像による解説をみて、最後に「情報スペース・ホワイエ」でIT技術を駆使したさまざまなシミュレーションを体験する仕組み。映像もシミュレーションも、前回より突っ込んだ内容になっていて、スタッフの意気込みが伝わってくる。ざっと一回りしただけで、今まであまり馴染みのなかったエジプト美術がすこしわかったような気になるのは、さすがのテクニック。

 入場は無料。完全予約制なので、ホームページか電話で予約する。場所はJR目黒駅または五反田駅から徒歩10分くらい。会期は12月19日まで。

 http://museumlab.jp

 さて、あとは余談。実は私は、展示作品3枚のうちの1枚(頭を右に傾けた、あごのとがった女性の肖像画)を以前みたことがある。そのときの話を――。

 2008年5月の連休中にドイツに行って、オペラをみるためにケルンにいたら、地下鉄の構内で「パウラ・モーダーゾーン=ベッカーとエジプト・ミイラの肖像画」という展覧会のポスターをみかけた。
 パウラ・モーダーゾーン=ベッカー(1876~1907)はドイツの女性画家で、表現主義の先駆けとされている。以前からひじょうに気になっていた画家なので、日中の空き時間を利用して、会場のルートヴィッヒ美術館を訪れた。
 会場に入って、アッと驚いた。パウラの絵とエジプトの肖像画(そのうちの1枚が上記のもの)が交互に並べて展示されていた。両者の共通性は明らかだった。

 上に貼り付けた図像↑はそのときのもの。左がパウラの自画像、右がエジプトの肖像画。大きく見開かれた目は、よく似てはいないだろうか。

 また、余談の余談になってしまうが、パウラ・モーダーゾーン=ベッカーと精神的に深く結びついていた男友だちが、詩人のリルケ。パウラが31歳の若さで亡くなったときに、パウラを悼んだリルケは、長編詩「ある女友だちのためのレクイエム」をかいた。
 堀辰雄の小説「風立ちぬ」の最後には、リルケのその詩が引用されている。パウラと日本の意外な結びつき――。
(2009.07.30.ルーヴル‐DNPミュージアムラボ)
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