Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

新国立劇場「尺には尺を」&「終わりよければすべてよし」

2023年10月29日 | 演劇
 新国立劇場で開催中の「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」の交互上演は大成功のように見える。2009年の「ヘンリー六世」三部作から始まったシェイクスピアの史劇シリーズが完結して、それで終わりかと思ったら、意表を突く“問題作”への転進。その意外性と史劇シリーズのスタッフ・キャストの再結集に惹かれた。

 わたしは両作品とも以前戯曲を読んだことがある。そのときは奇妙な作品だと思った。なるほど喜劇とも悲劇ともつかない“問題作”だといわれるゆえんだと。だが舞台上演を観て、印象はだいぶ変わった。「尺には尺を」は創作力が高まった時期のシェイクスピアにふさわしい力作だと思った。一方、「終わりよければすべてよし」も同時期の作品だが、これはパワハラあり、セクハラあり、ストーカー行為ありのまるで現代劇だと思った。

 交互上演なのでことさらに両作品を対比するのだろうが、「尺には尺を」(以下「尺」)の登場人物たちは劇の進行とともに変化する。たとえば厳格・高潔だったはずの登場人物が自分の弱さ・醜さに気付き、うろたえる。一方、「終わりよければすべてよし」(以下「終わり」)の登場人物たちは変化しない。たとえば軽薄だった登場人物は、そのために罰せられても、まだ軽薄だ。

 結論的には、両作品とも“問題作”と力んで観る必要はないのではないかと思った。まっさらな状態で観て十分に楽しめる作品だ。戯曲を読んだときには強引に思えた両作品の幕切れだが、舞台で観ると感動した。案外、戯曲のリアリズムと舞台のリアリズムは違うのかもしれない。

 小川絵梨子芸術監督は、両作品はシェイクスピアには珍しい「その物語を牽引する中心的人物として女性が描かれている」作品だという(プログラムに掲載された言葉より)。目から鱗が落ちる思いがした。シェイクスピアには印象的な女性が多々登場するので、あまり意識しなかったが、たしかに女性が主人公の作品は他にないかもしれない。「終わり」のヘレナはひたすら自分の意志を貫徹する。「尺」のイザベラは変装した公爵に操られる面がある。描き方は多様だ。

 ヘレナを演じた中嶋朋子は名演だ。みずみずしい透明感がある。癖のある役柄なので、別の役者が演じればヘレナ像も変わるだろう。そのときは作品の印象も変わるかもしれない。イザベラを演じたソニンは、厳格・高潔だったはずのアンジェロを動揺させ、ひいてはドラマを操る公爵まで動揺させる魅力的な女性として説得力がある。アンジェロを演じた岡本健一は、持ち前の男の色気を発揮した。ヘレナが追いかけるバートラムを演じた浦井健治は、軽薄な役柄だが、憎めないものを感じさせた。「ヘンリー六世」以来の立川三貴、吉村直、木下浩之、那須佐代子、勝部演之、小長谷勝彦らのベテラン勢はさすがに味がある。
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新国立劇場「尺には尺を」

2023年10月27日 | 演劇
 新国立劇場の「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」の交互上演。先日の「終わりよければすべてよし」に引き続き「尺には尺を」を観た。「尺には尺を」は以前戯曲を読んだことがあるが、観劇前に再読した。戯曲もおもしろいが、実演だとおもしろさが増す。

 一番印象に残ったことは、大詰めの場面でマリアナが公爵代理のアンジェロをかばい、イザベラに「あなたも公爵様にアンジェロの助命を願って」と頼む場面の演出だ。イザベラにとってアンジェロは仇敵だ。イザベラは躊躇する。一瞬の沈黙。その劇的効果に息をのむ。緊張の頂点でイザベラはひざまずき、公爵にアンジェロの助命を願う。本作品のテーマは赦しなのかと思った。

 それ以外にも、たとえばクローディオが獄中にあって死を覚悟するときのモノローグは、まるでハムレットのような深みがあった。そのモノローグをふくめて、作品全体からうねるようなダイナミズムを感じた。本作品はこんなに傑作だったのかと。

 ダイナミズムは登場人物それぞれがドラマの進行とともに成長することから生まれるのだろう。主人公のイザベラは、神に仕えることを願う純粋無垢な娘だったが、前述したように大詰めでは、兄のクローディオを殺し(その時点ではそう思っている)、かつ自分の体を求めたアンジェロの助命を公爵に願うに至る。アンジェロは冷徹なまでに自他に厳しいはずだったのに、イザベラの魅力に負けて、クローディオの助命と引き換えにイザベラの体を求める。そんな自分の弱さと醜さに気付く。また公爵はすべての出来事を仕切る「テンペスト」のプロスペローの前身のような役柄だが、その公爵さえ幕切れではイザベラに「妻になれ」と命じるオチが付く。

 場所はウィーン。当節風紀が乱れている。公爵流の寛容な統治が良いのか。それとも公爵代理のアンジェロ流の厳格な統治が良いのか。またアンジェロがイザベラの兄・クローディオの助命と引き換えにイザベラの体を求めたとき、イザベラは兄のためにアンジェロに体を許すべきなのか。また兄は妹・イザベラの体を守るために死を受け入れるべきなのか。そんな二項対立の波間に揺れるドラマだ。

 残念だった点が二つある。第一に音響が煩わしかったことだ。古いジャズや効果音がひっきりなしに使われる。しかも困ったことに、登場人物の重要なモノローグになると、きまって何かの音響が入る。第二にならず者のバーナーダインの獄中の場でショッキング・ピンクや黄色のけばけばしい照明が使われたことだ。なお、余談だが、その獄中の場に登場した死刑執行人のアブホーソンが、新国立劇場のシェイクスピア・シリーズの出発点となった「ヘンリー六世」のリチャード三世を彷彿とさせたのがお愛嬌だ。
(2023.10.26.新国立劇場中劇場)

(配役)
イザベラ:ソニン
アンジェロ:岡本健一
クローディオ:浦井健治
マリアナ:中嶋朋子
侯爵:木下浩之
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新国立劇場「終わりよければすべてよし」

2023年10月25日 | 演劇
 新国立劇場でシェイクスピアの「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」の交互上演が始まった。2009年の「ヘンリー六世」三部作の一挙上演以来続いたシェイクスピアの史劇シリーズが終了し、次の展開として、問題作といわれる「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」が取り上げられたわけだ。

 問題作とは悲劇とも喜劇ともつかない(それらの範疇からはみ出す)作品をいう。19世紀末にイギリスのある評論家が「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」と「トロイラスとクレシダ」と、それらに加えて「ハムレット」の4作をそう分類した。わたしには「ハムレット」を他の3作と同列に論じることはピンとこないが、「ハムレット」以外の3作が同じように奇妙な作品であることは同感だ。

 なぜ奇妙かというと(それは本来は個々の作品に即して語らなければならないが、あえて一言でいえば)登場人物の考えることがてんでんばらばらな点だ。比喩的にいえば、各人のベクトルが別々な方向に向いている。だが、結論を先にいうようだが、それが現実ではないか。結果的に作品は、腹の底から笑う喜劇にもならなければ、カタストロフィをおぼえる悲劇にもならずに、奇妙に現代的だ。

 まず「終わりよければすべてよし」を観た。青年貴族のバートラムはハンサムだ。当家で養育されている孤児のヘレナは、ひそかにバートラムに思いを寄せる。ヘレナは医師であった亡父の処方箋により、フランス国王の難病を治す。フランス国王は褒美にヘレナとバートラムの結婚を許す。だが、身分の低いヘレナを嫌うバートラムは逃げ出す。ヘレナはバートラムを獲得できるか‥という芝居。

 フランス国王がバートラムにヘレナとの結婚を強要するのはパワハラといえる。バートラムにつきまとうヘレナはストーカーに近い。バートラムが逃亡先でダイアナという娘に言い寄るのはセクハラだ。そんな諸点が現代的だ。一方、ヘレナを他の女性たち(バートラムの母親とダイアナとダイアナの母親)が助ける。シスターフッドだ。本作品はフェミニズム演劇としても鑑賞できる。

 ヘレナを演じた中嶋朋子がみずみずしい名演だ。バートラムの浦井健治は軽薄な青年貴族を演じ、フランス国王の岡本健一は癖のある国王を演じて、それぞれ適役だ。ダイアナを演じたソニンは最終場面を引き締めた。バートラムの従者・ペーローレスを演じた亀田佳明は喜劇的な可笑しさは物足りなかったが(亀田佳明にかぎらずどの役者も喜劇的な演技は大げさで、わざとらしかった)、化けの皮がはがれたときの「人間だれでも、生きる場所、暮らす手だてはあるのだ」という台詞は会場をしんみりさせた。
(2023.10.24.新国立劇場中劇場)
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カーチュン・ウォン/日本フィル(横浜定期)

2023年10月22日 | 音楽
 カーチュン・ウォン指揮日本フィルの横浜定期。プログラムはショパンのピアノ協奏曲第1番とブラームスの交響曲第1番。同プログラムで翌日には東京で名曲コンサートが開催される。両日ともチケットは完売だ。ソリストの亀井聖矢の人気のためだろうが、せっかくの満員の聴衆だ。日本フィルにも大いに気を吐いてほしい。

 亀井聖矢は2022年のロン=ティボー国際音楽コンクールで第1位を獲得した俊才。2001年生まれなので、今年22歳だ。藤田真央、反田恭平などスター・ピアニストが続出する中で、また一人才能豊かなピアニストが加わった。

 注目すべきはその音の美しさだ。まるで水滴のようなみずみずしさがある。それはたんに技術というよりも、ナイーブな感性の反映のように感じられる。長大なショパンのピアノ協奏曲第1番だが、そのみずみずしさは一瞬たりとも崩れない。しかも全体の構築がしっかりしている。完成度の高い演奏だった。

 アンコールにショパンのマズルカ作品59‐3が演奏された。ピアノ協奏曲第1番の繊細な音とは多少異なり、逞しさが感じられる音だった。

 ブラームスの交響曲第1番の演奏には、日本フィルの新たな可能性を感じた。それはどういうことかというと、カーチュン・ウォンとの共演で、いままでの日本フィルにはなかった音を身につける可能性があることだ。オーケストラとは不思議なもので、それぞれ固有の音をもっている。日本フィルの場合は創立指揮者の渡邉暁雄の音がまだ残っている。北欧的な透明で明るくひんやりした音だ。ドイツ的な体温の高い音とは異なる。それはカーチュン・ウォンの前任者のインキネンの音でもあった。それはそれでひとつの個性だが、今回のブラームスの交響曲第1番を聴くと、そこに熱量の高さが加わる可能性を感じる。ドイツ音楽にはふさわしい音だ。

 もうひとつ感じたことは、カーチュン・ウォンの演奏の特徴が、とくに強調したいフレーズの頭にテヌートをかけ、またフレーズの最後の音をしっかり出させることにより、音楽が淡々と流れることを防ぎ、多数の層が立体的に構築される点にあることだ。結果、その演奏は発見の連続となり、退屈することがない。加えて、フレーズの終わりが明確なので、呼吸感が生まれる。聴いていて疲れない。

 横浜定期ではオーケストラのアンコールが恒例だが、今回はなかった。それも良い。プログラムの言葉にあるように、ブラームスの交響曲第1番はオーケストラの「マスターピース」だ。その後にありきたりの曲は不要だろう。
(2023.10.21.横浜みなとみらいホール)
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ヴァイグレ/読響

2023年10月18日 | 音楽
 ヴァイグレ指揮読響の定期演奏会。1曲目はヒンデミットのピアノと弦楽合奏のための「主題と変奏〈4つの気質〉」。ピアノ独奏はルーカス・ゲニューシャス。地味な曲だが、ピアノ独奏もオーケストラも曲の持ち味をよく引き出して、ヒンデミットの円熟期の作品であることを納得させた。

 ゲニューシャスのアンコールがあった。3拍子の甘い曲だ。ショパンのワルツのようでもあるが、ショパンではない。だれの曲だろう。帰りがけに掲示を見たら、レオポルド・ゴドフスキ(1870‐1938)の「トリアコンタメロン」から第11番「なつかしきウィーン」とのこと。

 2曲目はハンス・アイスラーの「ドイツ交響曲」。副題に「反ファシズム・カンタータ」という題名をもつと記憶していたが、プログラムに記載がなかった。あるいは副題ではなく、わたしの手持ちのCDに記載されていただけかもしれない(CDは20~30年前にドイツのどこかの街で買った。まさかその曲を日本で聴ける日が来るとは思わなかった)。その“副題”はこの曲の性格を的確に言い表している。4人の独唱者と合唱が入り、全11楽章の大曲はカンタータというにふさわしく、また歌詞の大半はブレヒトの詩で、第一次世界大戦の戦禍を嘆き、その後の自由主義的なワイマール共和国からナチズムが台頭したことを糾弾する詩は、反ファシズムにほかならない。

 その曲をいまの日本で聴くとどう感じるか。第一次世界大戦の戦禍は第二次世界大戦の戦禍と重なり、ワイマール共和国は日本の戦後民主主義と重なる。では、ナチズムの台頭は……。それは各人が考えるべき問題だろう。ブレヒトの詩はいまの日本では異物かもしれないが、ブレヒトは、ブレヒトが詩や戯曲を書いた当時のドイツでも、異物だった。要はわたしたちが異物の言うことに耳を傾けるかどうかだ。

 演奏は記念碑的な名演になった。旧東ドイツ出身のヴァイグレは、この曲を「演奏するのは自分の使命」だと語る。まさに使命感に裏付けられた壮絶な指揮だ。オーケストラを鋭角的にドライブし、また合唱を煽る。通常の演奏とは次元の異なるパワーが炸裂する演奏だ。ヴァイグレの底力を初めて知った思いがする。

 合唱は新国立劇場合唱団(合唱指揮は冨平恭平)。たんに美しいとか何とかいうレベルを超えた凄まじい表現力だ。4人の独唱者はドイツの実力派歌手たち。ソプラノのアンナ・ガブラーは美しい声。メゾ・ソプラノのクリスタ・マイヤーは精神性を感じさせる歌唱。バリトンのディートリヒ・ヘンシェルはドラマティックな歌唱。そしてバスのファルク・シュトルックマンは深々とした声。大ベテランの健在ぶりが感動的だ。
(2023.10.17.サントリーホール)
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ノット/東響

2023年10月16日 | 音楽
 ノット指揮東響の定期演奏会。1曲目はドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」のノット編曲版。オペラの中の主要場面を追ったオーケストラ曲だ。オペラだと歌と演技が入るので、濃密なドラマが展開されるが、歌と演技を欠くと(少し乱暴な言い方になるが)同じような音楽が延々と続く印象だ。ただ演奏は良かった。響きの移ろいが明確に意識されて、極上のドビュッシー演奏だった。

 2曲目はヤナーチェクの「グラゴル・ミサ」。ドビュッシーの柔らかい、ニュアンスを大事にする音から一転して、荒削りな、音楽に食い込むような音に変わった。夢の世界から現実の世界へ。沸騰するような情熱の世界。その対照はノットの戦略だろう。

 プログラムに掲載されたノットへのインタビュー記事によれば、「グラゴル・ミサ」には3つの版があるそうだ。今回演奏されたのはPaul Wingfieldによるユニヴァーサル版。3つの版の中では間違いなくもっとも複雑な版だそうだ。

 たとえば「序奏」ではパートによって8分の5拍子、8分の7拍子、4分の3拍子に分かれ、それらが同時進行する。標準版ではそれらはすべて4分の3拍子に書き換えられている。もちろん標準版のほうが演奏しやすいだろうが、ヤナーチェクが当初考えた複雑な拍子の絡み合いは、いったいどんな音楽だったのだろうと、注意して聴いた。残念ながら各々の拍子を聴き分けることはできず、細かい音が交錯するように聴こえた。大胆にいえば、リゲティの萌芽のようなものを感じた。

 またユニヴァーサル版では、標準版では曲の最後に演奏される「イントラーダ」が曲の初めにも演奏される。結果的に「イントラーダ」が曲の前後をはさむ。そうなるとどうなるかというと、「イントラーダ」→「序奏」→(「キリエ」以下の通常ミサ曲)→「オルガン・ソロ」→「イントラーダ」の構成になる。標準版では浮いて見えていた「オルガン・ソロ」が「序奏」に対応するものとして落ち着く。

 最後にもう一点、これも大きな違いだが、「クレド」の中盤でオルガン・ソロが出る前に、3本のクラリネットが客席で(今回は2階RDブロックの前で)バンダ的に演奏する。標準版にはない箇所だ。その直後のオルガン・ソロとオーケストラの掛け合いでは、なんとティンパニが3対も使われる。思わず目をみはった。

 4人の独唱者がすばらしい。とくにソプラノのカテジナ・クネジコヴァの豊麗な声と、テノールのマグヌス・ヴィリギリウスのいかにもヤナーチェクらしい歌いまわしに感銘を受けた。東響コーラスの音圧のある合唱。大木麻理の見事なオルガン演奏。
(2023.10.15.サントリーホール)
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カーチュン・ウォン/日本フィル

2023年10月15日 | 音楽
 カーチュン・ウォンの日本フィル首席指揮者就任披露演奏会。曲目はマーラーの交響曲第3番。第1楽章冒頭の8本(実際は9本)のホルンの斉奏の輝かしさ。その後も金管の音がよく決まる。とりわけトロンボーン・ソロの見事さ。安定感があり、しかもトロンボーンの独壇場にならずに全体のアンサンブルに収まる。トロンボーンの首席奏者・伊藤雄太さんの演奏。

 カーチュン・ウォンの指揮のためだろうか、第1楽章展開部の最後の、オーケストラが混沌の中に崩壊するまでの経過がじつに整然と演奏された。一音一音を辿れるようだ。そのおかげで、なるほどこう書かれているのかと、目を見張る思いがした。その代わりに、熱狂のあげくの混乱というドラマは感じられなかった。

 第3楽章は(わたしの個人的な感想だが)この演奏の白眉だった。中でも舞台裏でポストホルンのパートを吹いたソロ・トランペット奏者のオッタビアーノの演奏は、わずかな傷もなく完璧に、余裕をもって、マーラーの書いた音符を心ゆくまで吹いた感がある。その見事さを形容すると、(わたしの実感だが)アルプスの山並みを遠望しながら、広い草原に佇むような、ある絶対的な孤独の中の幸福感にみたされる思いがした。

 その余韻が覚めないまま第4楽章に入った。メゾ・ソプラノ独唱の山下牧子にはもっと深々とした声が欲しかった。加えて、やや力んだ歌い方が気になった。あるいは少し調子が悪かったのだろうか。第5楽章では女声合唱のharmonia ensembleと児童合唱の東京少年少女合唱隊には突き抜けた明るさが欲しかった。

 第6楽章に入ると、第1楽章を彷彿とさせる整然としたアンサンブルが展開した。もちろんよく歌い、熱量にも事欠かない。カーチュン・ウォンがプログラムに寄せたメッセージにある「全てを受け入れる包括的な愛」が感じられた。その上でいうのだが、2度のクライマックスを経て、金管のコラールから愛の成就に入る箇所で、いまひとつ天啓のようなインパクトが欲しかった。音楽の整然とした流れの中に進んだ感がある。

 カーチュン・ウォンが才能豊かな指揮者であることはいうまでもない。音楽の形を崩さず、正統的な造形力があり、オーケストラをバランスよく鳴らし、かつ音楽のすべての箇所に発見がある(たとえば第1楽章提示部で木管楽器がテーマを出すとき、チェロとコントラバスの動きが明瞭に浮き上がった)。この上さらに望むなら、即興性だろうか。言い換えれば、即興性を発揮するには、オーケストラとの関係の成熟が必要ということかもしれない。今後の実り多い共演に期待したい。カーチュン・ウォンのポジティブなキャラクターはすでに日本フィルの楽員と聴衆の心をつかんでいる。
(2023.10.14.サントリーホール)
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新国立劇場「修道女アンジェリカ」&「子どもと魔法」

2023年10月10日 | 音楽
 新国立劇場の新制作、プッチーニの「修道女アンジェリカ」とラヴェルの「子どもと魔法」のダブルビル。予想以上に満足度の高い公演だった。歌手、指揮、演出などが作品の良さを引き出したからだろう。

 「修道女アンジェリカ」はプッチーニの「外套」、「修道女アンジェリカ」と「ジャンニ・スキッキ」の三部作の中で、わたしの一番好きな作品だ。プッチーニの悲劇のヒロインを蒸留してそれだけで一本のオペラを作った観がある。だが残念ながら、実演に接する機会はまれだ。三部作の一挙上演の機会でもなければ、なかなか実際の舞台を観ることはできない。わたしは今度が初めてだ。

 公演はすばらしかったと思う。まず、なんといっても、アンジェリカを歌ったキアーラ・イゾットンが良かった。なめらかで繊細な歌唱から、感情をこめた劇的な歌唱まで、アンジェリカのキャラクターを細大漏らさず表現した。プロフィールを読むと、欧米の主要劇場で歌っている人のようだ。さもあらんと思う。また、アンジェリカと対峙する侯爵夫人を歌った齊藤純子も健闘した。冷徹な役柄を歌って一歩もひるまなかった。

 演出は粟国淳。幕切れの場面では、実際の子どもは登場せず、瀕死のアンジェリカだけに見える幻影として演出した。たぶんそれは現代では一般的だろう。興味深い点は、そのときアンジェリカが金色の光に包まれることだ。幕開きの場面で修道女たちが「今日は夕日が修道院の泉を金色にそめる日」と歌ったことに照応する。そして「去年はこの日、一人のシスターが亡くなった」と。アンジェリカの死はそれと対応する。

 「子どもと魔法」も実演を観るのは初めてだ。文句なしに楽しい舞台だ。ただ子どもを歌ったクロエ・ブリオは、容姿は適役なのだが(他のオペラでは「ペレアスとメリザンド」のイニョルドを歌っているらしい。それも良いだろう)、当日は今ひとつ覇気がないように感じた(歌はしっかりしていると思ったが)。他の歌手では、お姫様や夜鳴き鶯などを歌った三宅理恵が美しいコロラトゥーラを聴かせた。

 その「お姫様」だが、絵本から飛び出したお姫様は、子どもの初恋の人だった。お姫様は子どもが絵本を破いてしまったことを嘆きながら去る。子どもにとっては初めての喪失だ。その場面の演出が美しかった。子どもは少し成長したのではないかと思った。子どもが怪我をしたリスに包帯を巻くのは、その場面の経験があって成長したからではないか。

 沼尻竜典指揮の東京フィルは、プッチーニの抒情と劇的な表現、ラヴェルの透明で洒脱な音楽を的確に描き分けた。沼尻竜典は手堅いオペラ指揮者になった。
(2023.10.9.新国立劇場)
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高関健/東京シティ・フィル

2023年10月05日 | 音楽
 東京シティ・フィルの10月定期は飯守泰次郎の指揮でシューベルトの交響曲第5番と第8番「ザ・グレート」が演奏される予定だったが、飯守泰次郎の急逝にともない、高関健の指揮で飯守泰次郎が得意にしたワーグナーとブルックナーが演奏された。飯守泰次郎が振るシューベルトを楽しみにしていたが、亡くなった以上、仕方がない。もし高関健が飯守泰次郎のプログラムを引き継いだとしても、満たされない思いが残ったかもしれない。プログラムを変更して成功だったと思う。

 1曲目はワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲。金管の張りのある音が印象的だった。2曲目は「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死。前奏曲冒頭の深い悲しみにみちた情感と中間部の狂おしい情熱の高まりが見事だ。それらを表現するオーケストラのアンサンブルも十分に練り上げられていた。高関健は一般的には理知的なイメージを持たれていると思うが(たしかに近現代の音楽を演奏するときは理知的だが)、そのイメージには収まらない熱い演奏だ。高関健の今後の展開の萌芽だろうか。

 愛の死の独唱は池田香織がつとめた。甘さを排した厳しい歌だ。死者の魂に訴えかけるような歌い方だ。池田香織は前奏曲のときからイゾルデになりきっていた。指揮者の横に座っていたのだが、前奏曲の冒頭ではうつむいて苦悩をたたえ、中間部では顔を上げて恍惚とする。やがて愛の死が始まると、座ったまま呟くように歌い始める。すぐに立ち上がって力の限り歌う。カーテンコールでは右手で虚空を指さした。まるでそこに飯守泰次郎の魂が漂っているかのように。

 3曲目はブルックナーの交響曲第9番。張りのある輝かしい音で鳴る演奏だ。けっして重くならず、たしかな歩みで進む。各部分のプロポーションが崩れない。荒井英治に率いられた第一ヴァイオリンは敏捷に動き、ヴィオラもよく歌う。チェロとコントラバスは深々と鳴る。木管の各パートも印象的なパフォーマンスだ。ホルンとワーグナーチューバ群も健闘した。全体的に飯守泰次郎を偲ぶというよりは、「我われはここまで成長しました」と報告するような演奏だ。天上の飯守泰次郎も安心したにちがいない。なお高関健はスコアを譜面台に置きながらも、一度も開かずに暗譜で指揮した。珍しいことだ。

 演奏終了後は盛大な拍手が起きた。しんみりとした演奏会にならずに良かったかもしれない。わたしはポジティブな気持ちで家路に着いた。

 プログラムには飯守泰次郎が東京シティ・フィルを振った演奏会記録が載った。懐かしかった。わたしは2003年のシーズンから定期会員になったので、もう20年たったのかと感慨深い。
(2023.10.4.東京オペラシティ)
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津村記久子「とにかくうちに帰ります」

2023年10月01日 | 読書
 津村記久子の「水車小屋のネネ」が今年の谷崎潤一郎賞を受賞した。わたしは津村記久子のファンなので喜んだ。「水車小屋のネネ」も読んでいた。とくに第1話と第2話のみずみずしさに感動した。でも、ファンの心理とはおもしろいもので、自分だけの大事な作品がある。わたしの場合、それは「とにかくうちに帰ります」だ。

 「とにかくうちに帰ります」のどこが好きかと自問すると、ちょっと考えてしまう。しばらく考えた末に、たぶん津村記久子の特徴がバランスよく入っているからだろう、という考えに落ち着く。

 津村記久子の特徴とは何か。まず日常生活で感じる小さなイライラが、あるある感いっぱいに書かれる点だ。だれかのマイペースなふるまいにイライラする。その描写がリアルで、かつユーモラスだ。それは津村記久子のどの作品にも共通する。もちろん「とにかくうちに帰ります」にも。

 「とにかくうちに帰ります」のストーリーを大雑把にいうと、大雨が襲来する午後に職場から、あるいは学習塾から帰る人々の話だ。主人公の女性会社員・ハラは、職場の後輩の男性社員・オニキリのマイペースさに普段からイライラしている。ハラはそんなオニキリに帰路立ち寄ったコンビニで出会ってしまう。仕方ないので、ハラはオニキリと一緒に大雨の中を歩く。小さな出来事がいろいろ起き、ハラはイライラするが、やがてオニキリの意外な良さにも気付く。その描写が鮮やかだ。

 津村記久子のもうひとつの特徴に、多くの作品に親との関係がうまくいかない(あるいはネグレクトされている)子どもが出てくる点がある。本作品の場合は学習塾から帰る小学5年生の少年・ミツグがそれだ。両親は離婚し、いまは母親に育てられている。そのミツグが妙に大人っぽい。子どものヴァリエーションのひとつだ。

 ミツグは家路を急ぐ途中で傘が壊れる。コンビニの軒先で雨宿りをしながら、傘を直そうとするが、直らない。そのときハラとは別の会社の男性社員・サカキが通りかかる。ミツグに声をかける。コンビニで傘を買ってやる。二人は一緒に歩き始める。じつはサカキも離婚している。子どもは別れた妻が育てている。明日は子どもに会う日だ。お土産も買ってある。子どもを思って感傷的になるサカキを少年・ミツグが励ます。

 レインコートをめぐって、ミツグはサカキに助けられ、サカキはオニキリに助けられる。小さな助け合いは津村記久子の特徴だ。最後にもう一点。津村記久子の作品には決め台詞が出てくる場合がある。本作品の場合はミツグがそれをいう。「雨ひどくてほんと寒かったけど、人の暖かみを感じる日ではあった」と。妙に大人びた口調が可笑しい。
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