Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

帰国

2012年08月31日 | 身辺雑記
本日帰国しました。こちらはまだ暑いですね。秋の気配が漂うバイロイトから夏の東京に逆戻りです。
今回観たオペラは次のとおりです。
8月25日(土)ワーグナー「ローエングリン」(バイロイト)
8月26日(日)ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」(同上)
8月27日(月)ワーグナー「タンホイザー」(同上)
8月28日(火)ツィンマーマン「軍人たち」(ザルツブルク)
8月29日(水)ヘンデル「エジプトのジュリアス・シーザー」(同上)
後日また報告させてもらいます。
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旅行

2012年08月24日 | 身辺雑記
今日から旅行に行ってきます。バイロイトとザルツブルクを回って31日(金)に帰って来ます。帰ったらまた報告します。
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フランコ・ドナトーニ

2012年08月23日 | 音楽
 サントリー芸術財団のサマーフェスティヴァル2012でフランコ・ドナトーニの管弦楽作品集の演奏会があった。

 ドナトーニ(1927~2000)といわれても、その名前すら知らなかった。ナクソス・ミュージック・ライブラリーを覗いてみたら、かなりの数のCDが登録されていた。そのすべてとはいかなかったが、いくつかのCDを聴いてみた。最初は戸惑ったが、馴れてくると、面白くなった。

 なにが面白いかというと、音の鮮度がいいこと、瑞々しいこと、リズムが自由なこと、拍節感が自由なこと――言葉でいうと、そういったことだった。でもこれらのことは、実際に音楽を聴いてみないと、イメージがわかない性質のものだ。実際にその音楽を聴くと、音が生き生きしていることがわかる。

 ナクソスで聴いた曲は、クラリネット独奏のための「クレール」(1980/99)やヴィブラフォン独奏のための「オマール」(1985)など。最初期の「ファゴット協奏曲」(1952)も聴いた。これはバルトーク的だった。ドナトーニはここから出発したのか、ということがわかる曲だった。

 今回の演奏会はすべてオーケストラ曲だが、どれもCDで聴いた印象とちがわなかった。音が瑞々しく、リズムが自由。音楽の局面、局面が短く、かつ鮮明で、それらがクルクル移り変わる。独奏曲ならともかく、これをオーケストラでやるのは大変だろう。

 曲目に馴染みはないが、一応書いておくと、「イン・カウダ2」(1993~94)、「イン・カウダ3」(1996)、「エサ(イン・カウダ5)」(2000)(注:この曲はロサンゼルス・フィルの委嘱。『エサ』とはエサ=ペッカ・サロネンの『エサ』)、「プロム」(1999)(注:BBCプロムスの委嘱)、「ブルーノのための二重性」(1974~75)(注:ブルーノ・マデルナに献呈)の5曲。すべて日本初演。

 指揮は杉山洋一さん。イタリア在住の作曲家・指揮者で、ドナトーニ晩年の愛弟子だった。今年1月に都響を振ってブーレーズの「エクラ/ミュルティプル」の鮮やかな演奏を聴かせたことが記憶に新しい。今回も見事な指揮だった。オーケストラは東京フィル。モチベーションの高い演奏だった。

 演奏会とそれに向けての予習のお陰で、ドナトーニという作曲家を知ることができた。今後も興味をもってその作品に接することができる。これがなによりの収穫だ。
(2012.8.22.サントリーホール)
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橋本國彦

2012年08月19日 | 音楽
 林田直樹さんのメルマガ「よく聴く、よく観る、よく読む」(7月19日号)に橋本國彦の交響曲第2番のCDが紹介されていたので、聴いてみた。

 面白かった。冒頭のテーマは清新な叙情を湛えている。北欧のグリーグかシンディングのようだ。リラックスした作曲者の内面が伝わってくる。第2楽章(最終楽章)は主題と変奏。これも面白い。第1楽章にくらべると動きがあるが、肩に力が入った感じはしない。

 演奏は湯浅卓雄さん指揮の藝大フィルハーモニア。湯浅さんの手腕は周知のとおりだが、藝大フィルのレヴェルの高さにも驚いた。いうまでもないが、藝大フィルは学生オーケストラではなく、藝大の教官や非常勤講師で編成されたオーケストラだ。昔のパリ音楽院管弦楽団に似ている。ひじょうに高性能なアンサンブルだ。

 交響曲第2番は1947年(昭和22年)の新憲法制定の祝賀会のために作曲された。だが少しも構えた感じがしない。それが意外だった。

 ついでに交響曲第1番も聴いてみた。驚いたことには、皇紀2600年(1940年、昭和15年)の奉祝曲の一つだった。CDは沼尻竜典指揮/都響のものが出ていた。

 こわもての曲を予想していたが、肩透かしをくった。第2番に通じる叙情性があった。第1楽章の途中に出てくる軍国調の部分がご愛嬌だ。第2楽章の沖縄風の音楽は魅力的。第3楽章(最終楽章)は主題と変奏。その主題は唱歌のようだ。

 ところが唱歌のようなその主題は「紀元節」だった。皇紀2600年の奉祝曲に「紀元節」を使うとは――。そのあざとさに絶句した。

 迷路に踏み込んだような気分になった。手元の「日本SP名盤復刻選集」(CD全26枚)をひもといてみると、あれこれ出てきた。いかにもファシズム迎合的な曲もあった。そこに見える橋本國彦の姿は、否応なく戦争に巻き込まれた悲劇の人ではなく、積極的に時流に乗った人だった。

 その楽天的な、むしろ能天気な姿が、苦々しく、悲しかった。そう思うと、交響曲第2番も、戦後まだ2年しかたっていないにもかかわらず、苦しみの痕跡や責任あるいは悔恨の情がまったくないことに気付いた。そんなこととは無関係に、ひたすら抒情的な曲だった。

 もっとも、公平な評価のためにいうと、交響曲第2番のCDに収録されたオーケストラ伴奏付歌曲「三つの和讃」(バリトン:福島明也)(1948年初演)には深い想念が感じられた。これは文句なしの傑作だ。
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マウリッツハイス美術館展

2012年08月15日 | 美術
 「マウリッツハイス美術館展」に行った。混雑しているようなので、いつ行こうかと思案していた。たまたま13日(月)が混雑緩和のための臨時開館と聞いたので、思い切って行ってみた。夕方4時半に到着。20分待ちだった。このくらいなら仕方がない。会場に入っても混雑していた。人の肩越しにチラッと観ればいいかと思った。ところが閉館30分前の6時になったら、潮が引くように人がいなくなった。ガラガラの会場のなかで、これはと思う絵をじっくり観ることができた。

 まずはフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」。以前この作品の誕生の秘話(フィクションだが)を描いた同名の映画を観た。息詰まるような濃密な映画だった。そのとき以来この作品を観たいと思っていた。叶わぬ夢かと思ったが、実現した。

 やっと会えた。わたしには美しすぎる(魅力がありすぎる)と思った。そう思ったのは年のせいだろう。黒一色の背景が珍しかった。なんとモダンなことか。この時代の類例として、スペインの画家スルバランの「ボデゴン(静物画)」を想い出した。2006年のプラド美術館展に来ていた作品。あれも背景は黒一色だった。

 フェルメールの作品がもう1点来ていた。「ディアナとニンフたち」だ。2008年のフェルメール展にも来ていた。今回のほうがきれいだと感じた。

 本展でフェルメールと同程度のウェイトを占めているのがレンブラントだ。レンブラントは6点来ていた。なかでもレンブラントが亡くなった年に描かれた「自画像」に感動した。人生の急上昇と急降下を経験し、すべてを失ったレンブラント。顔の皮膚はゆるみ、穏やかな表情をしている。この自画像では高価な帽子をかぶり、マントを羽織っている。精一杯の盛装だ。こちらを向いたその顔は「我かく在りき」と語っているようだった。

 これらの作品以外にも観るべき作品は多かった。というよりも、たんに数をそろえるために来ている作品がないことが本展の特徴だった。全48点。まさに「絵画の宝石箱」に相応しい内容だ。

 たとえば、ルーベンスの「ミハエル・オフォヴィウスの肖像」は味わい深かった。豊かな人間性が伝わってきた。工房を使って制作した大規模なバロック絵画とはちがう手応えがあった。

 静物画のコーナーはどの作品も面白かった。この時代の静物画はすごい。その迫真性はこの時代特有のものだ。
(2012.8.13.東京都美術館)
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ベルリン国立美術館展

2012年08月13日 | 美術
 「ベルリン国立美術館展」へ。いうまでもなくフェルメールの「真珠の首飾りの少女」が目玉だ。たしかにこれ一点でも本展の価値はある。柔らかい光に包まれた空間。一瞬の表情をとらえた永遠性。色彩の調和。フェルメールの作品のなかでもとくに好きな一枚だ。

 家に帰って、昔現地で買い求めたポケット版の解説書(英文)を読んだ。少女が自分を映している鏡や、真珠のネックレスは、虚栄の象徴だと書いてあった。なるほど、そうなのか――。虚栄という文脈ではとらえていなかったので、戸惑った。会場で販売されている図録ではどのように解説されているのだろう。

 ドイツの美術館なので、デューラーの「ヤーコブ・ムッフェルの肖像」が来ていることも嬉しかった。デューラー最後の肖像画だそうだ。この人物の存在を永遠にとどめる作品だ。力量の衰えはまったくない。これも前述の解説書に載っていた。

 この調子で他の作品にも触れていったら、羅列的な書き方になりそうなので、とりあえずこのくらいで。クラナッハ、ベラスケス、レンブラントなど、興味をひかれる作品がいくつもあった。

 本展の特徴は二つあった。一つはリーメンシュナイダーの木彫をはじめ多数の彫刻が来ていること。リーメンシュナイダーはデューラーと同時期の彫刻家だ。当時ドイツ全土にわたって農民戦争が勃発した。その鎮圧のさいに皇帝側によって腕をへし折られ、失意のうちに人生を閉じたといわれている。

 展示されている「龍を退治する馬上の聖ゲオルギウス」は、比較的小ぶりの作品だが、これでも十分にリーメンシュナイダーらしい精神性が感じられる。退治されている龍のユーモラスな顔が珍しい。

 他の彫刻にも観るべきものがあった。そのなかでもハンス・ヴィディツHans Wydyzという人の木彫「受胎告知」に注目した。大天使ガブリエルの衣の襞と、聖母マリアの豊かな髪の、うねるような彫りの深い表現がすごい。

 もう一つの特徴は、多数の素描が来ていることだ。とくにミケランジェロの「聖家族のための習作」はいつまでも観ていたい素描だ。聖母子、ヨセフ、幼児イエスと幼児ヨハネ、その他のモチーフが描き込まれている。現代的なコラージュのようだ。

 ボッティチェッリの素描もあった。ダンテの「神曲」のための挿絵の素描だ。ボッティチェッリの素描は初めて観た。油彩画とはまったくちがう感じがした。
(2012.8.10.国立西洋美術館)
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林光追悼・東混八月のまつり

2012年08月10日 | 音楽
 毎年恒例の東京混声合唱団の「東混八月のまつり」。今年は林光さんが亡くなったので、その追悼公演になってしまった。

 まずは「原爆小景」。2001年に作曲された「永遠のみどり」で完成したこの曲を、完成版として生で聴くのは、これが初めてだ。以前CDで聴いたときには違和感があった「永遠のみどり」も、生で聴くと、なるほどこれ以外にはありえないと感動が湧いてきた。

 指揮は寺嶋陸也さん。普段はピアニストとして、林光さんを支えてきたというか、同志として行動を共にしてきた人だ。おそらく万感こみ上げそうになったと思うが、努めてそれを抑えているように見えた。

 休憩をはさんで2曲目は「コメディア・インサラータ」。俵万智の「サラダ記念日」から12首を選んで作曲したもの。初めて聴いたが、これは楽しい曲だ。「原爆小景」が林光さんのシリアスな面を代表するとすれば、これはエンターテイメント性を代表する曲ではないかと思う。

 この曲の指揮は山田和樹さん。ひじょうに丁寧な仕上がりだ。演奏としてはこの曲が一番よかった。山田和樹さんはこの夏も超多忙だが、質の低下を招かないのが驚異的だ。

 次に林光さんの編曲で「日本抒情歌曲集」から5曲。その1曲目の「浜辺の歌」が始まると、フワッと心がやわらぎ、2番になったら涙が浮かんだ。

  あした浜辺を さまよえば
  昔のことぞ 忍ばるる
  風の音よ 雲のさまよ
  寄する波も 貝の色も

  ゆうべ浜辺を もとおれば
  昔の人ぞ 忍ばるる
  寄する波よ 返す波よ
  月の色も 星の影も

 夜の浜辺が目に浮かんできた。涙は過去への郷愁だったのか。失った人への悔恨だろうか。

 最後は佐藤信の詞に曲を付けた「うた」と「ねがい」。どちらも好きな曲だが、久しぶりに聴いて、また感傷的になってしまった。両曲とも左翼的な思想に支えられた詞だが、当時これにはリアリティがあった。今になってみると、そのまっすぐな感性が懐かしい。

 アンコールに2曲。まず谷川俊太郎の作詞/武満徹の作曲による「死んだ男の残したものは」。この曲を聴くといつも涙が出るわたしは、マズイと思った。案の定、今回も例外ではなかった。そして2曲目は宮沢賢治の作詞/作曲の「星めぐりの歌」。これは予想されたところだ。林光さんを送るにはこれ以上の曲はないだろう。
(2012.8.9.第一生命ホール)
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矢崎彦太郎/東京シティ・フィル

2012年08月07日 | 音楽
 フェスタサマーミューザKAWASAKIで矢崎彦太郎/東京シティ・フィルを聴いた。いつもながら矢崎さんの凝ったプログラムが魅力だ。

 1曲目はドビュッシーのバレエ音楽「おもちゃ箱」。今年4月にカンブルラン/読響が取り上げた曲だ。今回は矢崎さん自身が作成した台本による語り付き。語りが入ると話の進行がよくわかる。カンブルラン/読響の演奏はすばらしかったが、今回のほうが楽しめた。

 語りは中井美穂さん。2008年の同フェスタで矢崎彦太郎/東京シティ・フィルがプーランクの「子象ババールの物語」を取り上げたときの語りもこの人だったそうだ。あの演奏会は行きたかったが、ついに行けなかった。よかったろうな、と改めて思った。

 この曲はドビュッシーと親交のあった絵本画家アンドレ・エレの絵本と台本にドビュッシーが音楽を付けたものだ(当初はピアノ用)。その絵本の原画が今ブリヂストン美術館で開催中の「ドビュッシー展」に来ている。いかにも腕白そうな楽しい原画だ。あの原画を見ていたお陰でこの作品がよくわかった。

 2曲目はムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」。ただしラヴェル編曲ではなく、セルゲイ・ゴルチャコフ編曲版。ゴルチャコフはモスクワ音楽院の作曲家教授で、この編曲は1950年代におこなわれたそうだ。

 冒頭の「プロムナード」はラヴェルと同じくトランペットで始まるが、こちらはソロではなく、2本(部分的には3本)。続く「小人」もラヴェルに似ているが、こちらはウッドブロックが、グロテスクというか、ユーモラスに使われている。

 ラヴェルと大きくちがう点は、「ビドロ(牛車)」がフォルテで始まり、チューバのソロではなく、ホルンとトロンボーンで一斉に吹奏される点と、ラヴェルが省略した「第5プロムナード」が復活されている点だ。

 その他にも細かいところではラヴェルとちがう点が多々あった。全体的にラヴェルのアンチテーゼを目指すのではなく、ラヴェルを基調として、それを批評する版だと感じた。リムスキー=コルサコフの改訂版を使い、フランス的に洗練をきわめたラヴェルにたいして、ムソルグスキーの原典版に立ち返り、ロシア的な原色をもとめた版だ。

 演奏もそのことを強く意識した豪快なものだった。

 会場は洗足学園前田ホール(「溝の口」駅下車)。初めて行ったホールだが、ひじょうに聴きやすいホールだった。
(2012.8.6.洗足学園前田ホール)
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ドビュッシー展

2012年08月06日 | 音楽
 今年はドビュッシーの生誕150年。それを記念して「ドビュッシー音楽と美術」展が開催されている。パリのオルセー美術館とオランジェリー美術館との共同企画。パリではオランジェリー美術館で2月22日~6月11日まで開催された。本展はその日本版。

 ドビュッシーは西洋音楽史のなかでも五指に入る真の天才だ――と言うと、「そんなことはお前に言われなくてもわかっている」と怒られそうだし、「そうかな」と反論を受けるかもしれない。なので、こう言い直してもいい、「わたしは素人なりにそう思っている」。

 そしてその特異な点は、ドビュッシーという一人の作曲家のなかに、音楽と美術と文学が凝縮していることだ。こういう存在は古今東西ドビュッシーしかいない――あるいは、控えめに言っても、ドビュッシーをしのぐ人はいない。音楽はもちろんのこと、美術はマネ、モネ、ドガ、そして(本展でも大きく取り上げられている)モーリス・ドニ。文学はボードレール、ヴェルレーヌ、マラルメ。このような在り方が可能になったのは、当時のパリの力だった、と思わざるを得ない。

 本展は音楽と美術の邂逅に焦点を当てたものだ。過去のオルセー美術館展で来日した作品も複数含まれている。印象派展、ないしはポスト印象派展として見ることも可能だ。

 わたしはドビュッシーの遺品展として見た。たとえば日本製の蒔絵「金の魚」。言うまでもなく「映像」第2集の第3曲「金の魚」のインスピレーションを得た漆工芸だ。これがドビュッシーの仕事部屋に掛けてあったそうだ。水のなかをダイナミックに泳ぐ金の魚(錦鯉)の雄姿に曲のエッセンスが感じられた。

 もう一つあげるなら、エジプト王朝の出土品「カノーポスの壺」。これは「前奏曲集」第2巻の第10曲「カノープ」のインスピレーション源になったものにちがいない。今まで「カノープ」とは古代エジプトの壺だと説明されてきたが、どういうものかはわからなかった。意外に小さくて、手のひらに乗るサイズだ。そこに男の顔が描かれている。なにかこだわりのある顔だ。これはもちろんドビュッシーの所有物ではない。でもドビュッシーが見ていたのはこれか。

 「カノーポスの壺」の横には「ビリティス」があった。大きさは同サイズだ。これがピエール・ルイスに霊感を与えて詩作をうながし、ドビュッシーの「ビリティスの3つの歌」に結実した出土品だろうか。
(2012.8.3.ブリヂストン美術館)
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バーン=ジョーンズ展

2012年08月03日 | 美術
 バーン=ジョーンズ展へ。今まであまり馴染みのなかった画家だ。ぼんやり19世紀イギリスのラファエル前派の一人と思っていた。厳密にはそうとはいえないらしい。でもたとえばロセッティの描く女性(目が大きく、あごが尖って、鼻が高く、上唇が鼻に迫っている女性)と同じような女性が出てくることもたしかだ。

 バーン=ジョーンズの作品をまとめて見ることができて、その面白さがわかった。なるほど、こういう画家なのか、という認識を得ることができた。だがその面白さを説明することはむずかしい。なぜだろう――。

 バーン=ジョーンズの作品はほとんど例外なく、ギリシャ神話、聖書、中世の物語などに取材している。だからこれらの背景を知らないと、なにが描かれているのかわからないちょっと厄介な画家だ。その点では日本で展覧会が開かれることはありがたい。作品の背景を日本語で説明してもらえるからだ。

 背景がわかったうえで、バーン=ジョーンズの作品に向き合うと、いろいろな特徴があることに気付く。アットランダムにあげるなら、人物はすべて美男美女であること。男性も女性も美しい。だが、こちらとはかけはなれた存在なので、感情移入はむずかしい。しかも表情が硬い。感情をむき出しにはしていない。さらにどの人物も視線を合わせていない。どこまでいっても交わらない視線。

 ある一線を引いたところで成り立つ人間関係。こちらもそれをよしとして、ある一線を引いて観賞しないと、これらの作品は味わえないと思った。

 それを呑み込むと、独特の味わいがあることもたしかだ。それをメランコリーといってもよいし、わたしには縁がないが、イギリス上流社会の趣味かもしれない。

 一点だけあげるなら、「眠り姫」は大傑作だ。シャルル・ペローやグリムの童話になっている「眠りの森の美女」の一場面。縦126cm×横237cmの大画面に、眠り姫が横たわっている。枕元に一人の侍女、足元に二人の侍女がいる。それらの侍女も眠っている。眠り姫の向こうには緑色のカーテンがある。カーテンからはバラの花がこぼれている。全体の色調は緑のグラデーションだ。

 この作品だけでも本展の意味がある(もちろんその他の作品も充実の内容だ)。しかも嬉しいことには、昨日から毎週木・金の夜6時以降はチケット代が1,000円になった。知らずに行ったが、これには助かった。
(2012.8.2.三菱一号館美術館)
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