Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

高関健/東京シティ・フィル

2024年10月04日 | 音楽
 高関健指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。曲目は今年生誕200年のスメタナの「わが祖国」。高関健は常任指揮者就任披露の2015年4月の定期演奏会でもこの曲を取り上げた。ただし今回はチェコ・フィルの「現実演奏版」を使用する。

 「現実演奏版」とは何か。高関健がプログラムに寄せたエッセイによると、「今晩の演奏では、1985年頃当時の音楽企業スプラフォンが出版したチェコ・フィルの伝統的なパート譜に基づく「現実演奏版」を使う。この楽譜はターリヒからアンチェルに続く伝統的な演奏をほぼそのまま楽譜に起こしたもの(以下略)」とのこと。

 ターリヒからアンチェルのころは、スメタナのこの曲にかぎらず、またターリヒやアンチェルにかぎらず、巨匠たちは多少なりとも譜面に手を入れて演奏することがあった。だがそれが出版譜の形で残っているのは珍しい。それを演奏してみよう(聴衆の側からいえば、それを聴いてみよう)というわけだ。

 具体的には、スメタナのスコアの中の「そのままでは厚過ぎる和声に旋律が消されてしまうと思われる個所、テンポが速すぎて演奏困難と思われる部分」などについて、主要声部を補強したり、伴奏形を弾きやすい形に変更したりしているらしい。

 結論からいえば、わたしの耳では、どの箇所で主要声部が補強され、どの部分で伴奏形が変更されているか、聴き分けることはできなかった。だが普段よりも意識して各パートの動きを追ったことは事実だ。高関健の意図からいって、それでいいのだろう。

 一番ショックだったのは、「モルダウ」の最後だったか、音が短く切られる箇所があったことだ。今まで聴いたことのない演奏だった。また「現実演奏版」と関係があるのかどうかは分からないが、ホルンとトランペットが倍管になっていた(ホルンは4本→8本、トランペットは2本→4本)。「ボヘミアの森と草原から」の冒頭のトランペットの豊かな響きと、「ブラニーク」の最後のホルンとトランペットの朗々とした響きにその効果が表れた。

 全体的にはひじょうにテンションが高く熱い演奏だった。むしろ、高関健としては、思いきり派手にやった演奏だったかもしれない。その分、ボヘミア的な情緒は後退した。それを求めるのは、ないものねだりだろう。個別の奏者では、客演コンサートマスターに入った荒井英治が積極的にオーケストラをリードした。その果たした役割は大きい。また「シャールカ」の冒頭で首席クラリネット奏者の山口真由が情感のこもったソロを聴かせた。終演後に高関健のソロ・カーテンコールになったとき、高関健は山口真由をともなって現れ、盛んな拍手を浴びた。
(2024.10.3.東京オペラシティ)
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秋山和慶/東響

2024年09月22日 | 音楽
 「秋山和慶指揮者生活60周年記念」と銘打った秋山和慶指揮東響の定期演奏会。60周年とはすごいことだ。生まれたての赤ちゃんが還暦を迎えるまで、秋山和慶は指揮者生活を続けてきたわけだ。わたしのような勤め人の生活を送った者には考えられない長さだ。一種の職人のような仕事の仕方かもしれない。いまの秋山和慶には仕事一筋に打ちこんだ職人が到達する崇高な輝きがある。

 1曲目はベルクのヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」。ヴァイオリン独奏は竹澤恭子。秋山和慶は東響の音楽監督・常任指揮者時代にシェーンベルクの「グレの歌」や「モーゼとアロン」などを演奏した。60周年記念演奏会にベルクを取り上げるのは自然なことかもしれない。

 竹澤恭子の艶のある音色と密度の濃い表現もすばらしいが、オーケストラの細かく丁寧なアンサンブルもすばらしかった。竹澤恭子のヴァイオリンがオーケストラのアンサンブルに組み込まれるような演奏だった。その混然一体となった音響がこの曲にふさわしい。第2部冒頭の激しい音楽も音が混濁せず、かつ過度に激情的にならずに、終始一貫した音楽の流れがあった。

 竹澤恭子のアンコールがあった。バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番から第3楽章「アンダンテ」。人の歩みのような伴奏音型にのって無私の境地の旋律が続く。平常心の音楽だが、じつは平常心こそもっとも尊いと思わせる。秋山和慶の人生を象徴するようだった。

 2曲目はブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」(1878/80年稿ノヴァーク版)。最近の秋山和慶らしく、大きく構えて、音楽の形を崩さず、かつ随所に豊かなニュアンスが施された演奏だ。わたしはとくに第2楽章に惹かれた。ヴィオラが、チェロが、そして第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリンが浮き沈みする。その澄んだ音色と、どこか孤独な表情が胸にしみる。いまの秋山和慶の心象風景かもしれない。

 第3楽章スケルツォの主部の中間部分では、少しテンポを落とした。わたしは第2楽章に通じる情感を感じた。第4楽章は終始ペースを崩さずに、一歩一歩進んだ。その強靭な精神力と体力がすばらしい。最後には記念碑的な大演奏が達成された感があった。

 終演後、オーケストラから花束が贈呈された。真っ赤なバラだ。60本あったそうだ。60年前に東響の解散という事態に直面して、東響から離れずに、東響を支え続けた秋山和慶だ。その生き方がむくわれた瞬間ではなかったろうか。
(2024.9.21.サントリーホール)
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ルイージ/N響

2024年09月16日 | 音楽
 ファビオ・ルイージ指揮N響の定期演奏会Aプロ。曲目はブルックナーの交響曲第8番(初稿/1887年)。第8番の初稿は、先日、高関健指揮東京シティ・フィルで聴いたばかりだ。そのときはホークショー版と明記されていた。今回はとくに記載がない。ノヴァーク版なのか、それともルイージが多少手を入れているのか。

 その詮索はともかく、ルイージ指揮N響の演奏は見事だった。わたしは初めて第8番の初稿の自然な流れを聴いた思いがした。ブルックナーの頭の中で鳴っていたこの曲の姿を初めて聴くことができた。ブルックナーは作曲当時、第7番の初演が成功して、すでに大家になっていた。脂の乗りきったブルックナーの筆から流れ出た初稿だ。そこにはブルックナー独自の論理があった。それが今回の演奏で音になった。

 話が脇道にそれるが、わたしが第8番の初稿を聴くのは今回で3度目だ。最初はインバル指揮都響、2度目が高関健指揮東京シティ・フィルだった。それらの演奏は第2稿との差異を強調したり(インバル)、初稿の音の動きを検証したりする(高関健)演奏だった。だが今回のルイージ指揮N響の演奏は、初稿に全幅の信頼をおき、その音の世界を表現しようとするものだった。

 具体的な箇所をいえば、第2稿とは大きく異なる第2楽章のトリオが、今回はクリアな輪郭をもって聴こえた。第2稿のトリオはたしかにすばらしいが、初稿のトリオもそれなりの音の流れがあるのだと納得した。また第3楽章の末尾で「転調の末に高らかなハ長調(引用者注:第2稿では変ホ長調)の頂点に辿り着いた」(高松佑介氏のプログラムノート)ときの金管楽器のハーモニーが、今回ほど輝かしく聴こえたことはない。

 今更いうまでもないが、初稿の第3楽章と第4楽章は、第2稿と比べても長大だ(第2稿でさえ一般的には長大と感じる人がいるわけだが、それよりも長大だ)。だがその長大さが必要だったのだと今回の演奏で実感した。ブルックナーにはブルックナーの論理があり、それがある結論に至るには長大な展開が必要だったのだと。第8番にかぎらず第2稿・第3稿のとくに第4楽章の物足りなさは(その顕著な例は第3番だ)、ブルックナーの論理を追っていないからだ。

 初稿では木管楽器は第3楽章までは2管編成だが、第4楽章は3管編成となる、一方、第2稿では(弟子たちの進言により)全楽章が3管編成で書かれている――と説明されるが、高関健指揮東京シティ・フィルのときは、第1楽章から3番奏者も吹いていた。今回はたしかに3番奏者の出番は第4楽章だけだった。その効果はたしかにあった。また高関健のときはハープが3台だったが、今回は2台だった。
(2024.9.15.NHKホール)
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カーチュン・ウォン/日本フィル

2024年09月08日 | 音楽
 カーチュン・ウォン指揮日本フィルの定期演奏会。曲目はブルックナーの交響曲第9番。最近はさまざまな作曲家・音楽学者による第4楽章補筆完成版で演奏する場合もあるが、この日はブルックナーが完成した第3楽章までで終えるやり方。どちらが良いかは意見が分かれるだろう。わたしは第4楽章の補筆完成版はラトル指揮ベルリン・フィルのCDしか聴いたことがないが、少なくともそのCDにはブルックナーとは異質なものを感じた。マーラーの交響曲第10番の各種の補筆完成版とはちがい、ブルックナーのこの曲の場合はまだその異質性を楽しむには至らない。

 さて、オーケストラが登場すると、まずコントラバスがステージの正面奥に横一列に配置されることに驚く。人数は10人だ。弦楽器の編成は16型なので、コントラバスが通常より2人多い。その増強されたコントラバスがステージ正面奥から鳴るわけだ。視覚的な効果をふくめて(コントラバスがどう動いているか目で確認できる)期待が高まる。

 またコンサートマスターに客演のロベルト・ルイジが入る。ルイジはカーチュン・ウォンが今年9月から首席指揮者兼アーティスティック・アドバイザーに就任したイギリスのハレ管弦楽団のコンサートマスターだ。コンサートマスターに客演を迎えることがオーケストラにどう影響するか。それも聴きものだ。

 カーチュン・ウォンが登場する。演奏が始まる。冒頭の音が重々しく鳴る。闇の底から鳴るようだ。音楽に動きが出る。それが目くるめくように勢いを増して燦然と輝く第1主題が出る。やがて音楽が静まり、ゆったりした第2主題が出る。その表情には強い緊張感が漂う。漫然とは歌っていない――と、少し細かく書いたが、それはこの演奏がルーティンワークではなく、気持ちを新たに細部までこだわる演奏だったからだ。テンポは遅めだ。腰を据えて音楽を造形する。

 第2楽章はリズムがデジタル的に刻まれた。そのリズムはカーチュン・ウォンが指揮棒を垂直方向に上に突き刺し、また下に突き刺す動きによって強調される。第2楽章のリズムの特異性が際立つ。第3楽章はじっくり歌い込む。先を急がずに、壮麗な響きをつくりながら一歩一歩進む。第3楽章が終わると会場は長い静寂に包まれた。それは完成されなかった第4楽章を偲ぶようだった。

 日本フィルは終始一貫して照度が高く、緊張感のある音を鳴らした。別のオーケストラになったように音が変わった。カーチュン・ウォンの本気度の賜物だろう。同時に、客演コンサートマスターの効果もあったかもしれない。日本フィルはカーチュン・ウォンのもとでこのような経験を重ねれば、一皮むける契機になるかもしれない。
(2024.9.7.サントリーホール)
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高関健/東京シティ・フィル

2024年09月07日 | 音楽
 高関健指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。曲目はブルックナーの交響曲第8番の第1稿ホークショー版。ホークショー版は2022年に出版された。わたしは2010年にインバル指揮都響の演奏で第1稿を聴いたが、そのときはノヴァーク版だった。ホークショー版とノヴァーク版には「基本的な差異はない」が、ホークショー版は「ノヴァーク版に残る約400個所の錯誤を訂正したとのことである」(プログラム・ノート(注)に掲載された高関健のエッセイより)。

 インバル指揮都響で聴いた第1稿の衝撃は大きかった。そのときの記憶が残っている。それ以来久しぶりに第1稿を聴いた。インバル指揮都響のときの記憶とすり合わせ、また通常演奏される第2稿との違いを追った(音の違いが無数にある)。

 いうまでもないが、第1楽章の末尾は第2稿では静かに終わるのにたいして、第1稿ではトゥッティの激しいコーダがつく。インバルのときは(予備知識はあったが)そのコーダで腰の抜ける思いがした。今回は「ブルックナーならこう考えるかも」と思った。第9番の第1楽章のコーダがそれと同じだからだ。でも、だからこそ、静かな終わり方をブルックナーに進言した弟子たちの慧眼を思った。

 第2楽章のトリオの前半部分は、第1稿は第2稿とだいぶ違うのに、なぜかインバルのときの記憶は残っていない。たぶん分からなかったのだろう。今回も、もやもやと音がうつろい、どこに行くのか、つかめなかった。

 以上の第2楽章まではオーケストラの音がまとまりに欠け、(読書にたとえれば)字面を追うような演奏だった。読書の醍醐味は作品の中に没入して、ストーリーに流されるところにあると思うが、そのような音楽の流れは生まれなかった。

 だが第3楽章に入り、第2稿と変わらない冒頭部分が始まると、音に陶酔感が生まれ、ぐっと音楽の中に入っていけた。第3楽章の冒頭部分はブルックナーとしても特別な霊感がはたらいた箇所ではないだろうか。この部分だけ使われる3台のハープがその証だ。クライマックスでの第1稿の3回+3回のシンバルは、インバルのときは仰天したが、今回は素直に聴けた。第4楽章は第3楽章で生まれた音のまとまりが継続して、長大な第1稿だが、その長大さに説得力があった。

 高関健の上掲のエッセイによると、交響曲第8番の場合は第1稿といえども弟子たちの介入があったようだ。第1稿はブルックナーのオリジナル、第2稿は弟子たちの介入という図式は成り立たない。わたしは藪の中を手探りする思いで第1稿を聴いた。
(2024.9.6.東京オペラシティ)

(注)プログラムノート
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エメリャニチェフ/読響

2024年09月06日 | 音楽
 マクシム・エメリャニチェフが読響の定期演奏会に初登場した。エメリャニチェフはすでに東響と新日本フィルを振ったことがあるそうだ。先ほど東条先生の「コンサート日記」を検索して知った。わたしには未知の指揮者だったが、昨夜の聴衆の多くはエメリャニチェフを知っていたのかもしれない。

 プロフィールによると、エメリャニチェフは1988年ロシア生まれ。モスクワ音楽院でロジェストヴェンスキーに師事したとあるから、読響とは縁がある。指揮者としては古楽とモダンの両オーケストラを振っている。2025年にはスウェーデン放送響の首席客演指揮者に就任する予定。またチェンバロ奏者、ピアノ奏者としても活動している。

 ともかくユニークな指揮者だ。1曲目はメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」だが、大きくテンポを動かし、起伏を付け、あざといくらいに溜めを作る。読響との呼吸はいまひとつ合っていなかったが、それはリハーサル時間の関係だろう。

 2曲目は現代チェコの作曲家ミロスラフ・スルンカ(1975‐)のチェンバロ協奏曲「スタンドスティル」だったが、それは後回しにして、先に3曲目のシューベルトの交響曲第8番「グレイト」に触れると、「グレイト」はエメリャニチェフと読響の呼吸が合い、エメリャニチェフの個性的な音楽が完成度高く表現された。全体的にテンポが速いが、音楽が変化する局面では(たとえば第1楽章で第2主題に移るときとか、第2楽章で主要主題部から挿入部に移るときとかでは)テンポをぐっと落とす。音楽が止まりそうなくらいだ。エメリャニチェフはそのようなテンポの変化を全身で表しながら、音楽にものすごい熱量を注ぐ。沸騰する湯水のようだ。

 そのような演奏スタイルはどこから来るのだろう。わたしが連想したのはクルレンツィスだ。わたしがクルレンツィスを経験したのは一度だけ。2017年のザルツブルク音楽祭でムジカ・エテルナを率いたモーツァルトの「皇帝ティトの慈悲」の上演を観たときだ。それは衝撃的な演奏だった。その経験に似ている。

 2曲目のスルンカのチェンバロ協奏曲「スタンドスティル」も衝撃的だった。チェンバロが速射砲のように細かい音型を繰り出す。それはオーケストラにも伝播する。目まぐるしく音が交錯する。音は濁らずに澄んでいる。それはチェンバロの極細の音のためだろうが、同時にオーケストラの中の2台のマリンバと1台のヴィヴラフォンの音のためでもある。傑作なのは3枚のアクリルシートだ。見事な“楽器”だ。チェンバロ独奏はマハン・エスファハニ。大変な名手だ。アンコールに弾いたパーセルとラモーは一転して胸にしみるような演奏だった。
(2024.9.5.サントリーホール)
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原田慶太楼/東響

2024年09月01日 | 音楽
 サントリーホールサマーフェスティバル2024が終わり、まだ余韻がさめないうちに、もう在京オーケストラの通常公演が始まった。昨日は原田慶太楼指揮東響の定期演奏会。

 1曲目は上田素生の「儚い記憶は夢となって」。上田素生(うえだ・もとき)という人は1998年生まれという以外にプログラムには何の情報も載っていない。本人の書いたプログラム・ノートが載っているだけだ。とにかく曲を聴いてみよう。三拍子のノスタルジックな音楽が頻出する曲だ。昭和の時代の劇伴音楽のようだ。今の若い世代の中にはこういう音楽を好む人もいるのだろうか。

 2曲目はガーシュウィンのピアノ協奏曲。ピアノ独奏は角野隼斗(すみの・はやと)。その人気のためか、当公演は全席完売だった。客席には女性客が目立つ。目の子では7割くらいが女性ではないか。演奏は音が美しく、スリリングで、たしかに人気の所以が分かるというものだ。一方、オーケストラは、トランペット・ソロなど個々のプレイヤーの妙技はあったが、全体のアンサンブルはもっさりしていた。

 角野隼斗のアンコールがあった。「ムーンリバー」だ。即興的な要素もあったのではないかと思う。美しくて胸にしみる演奏だ。アンコールにポピュラー音楽の「ムーンリバー」を弾くところも(しかもその演奏が人を酔わせることも)人気の所以だろう。

 プログラム後半の3曲目はアルヴォ・ペルトの「主よ、平和を与えたまえ」。合唱は東響コーラス。人数はいつもより多い気がした。そのせいなのかどうなのか、ハーモニーの精度が(いつもより)不足した。それでも初めて聴くこの曲がおもしろかった。波が寄せるような細かいクレッシェンドが付く曲だ。

 3曲目からアタッカで4曲目のプーランクの「グローリア」に入った。ぱっと目の前が明るくなった。バルト海の曇り空から地中海の青空への転換のようだ。第2曲の「私たちはあなたを誉め」では合唱団がリズムに合わせて体を揺すり、聴衆の笑いを誘った。合唱の精度はみるみる高まり、第6曲「父の右に座しておられる方よ」の冒頭のアカペラでは見事なハーモニーを聴かせた。ソプラノ独唱は熊木夕茉(くまき・ゆま)。豊かな声の持ち主だ。柔らかいラインで音楽を縁取る。オーケストラはアンサンブルが引き締まり、プーランク特有の陰影を濃やかに付けた。オーケストラの演奏はこの曲が一番良かった。

 余談だが、プーランク(1899‐1963)とガーシュウィン(1898‐1937)は一歳違いの同世代だ。ガーシュウィンはパリに行ったことがある。ラヴェルやブーランジェには会ったようだが、プーランクには会ったのだろうか。
(2024.8.31.サントリーホール)
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アルディッティ弦楽四重奏団:オーケストラ・プログラム

2024年08月30日 | 音楽
 サントリーホールサマーフェスティバル2024の最終日。アルディッティ弦楽四重奏団のオーケストラ・プログラム。オーケストラはブラッド・ラブマン指揮の都響。

 1曲目は細川俊夫の「フルス(河)~私はあなたに流れ込む河になる~」。音の粒子がすさまじい勢いで飛び交う嵐のような曲だ。弦楽四重奏とオーケストラの境目は相互に侵食し合い、不分明な磁場のような音場を形成する。アルディッティ弦楽四重奏団の演奏と都響の演奏がシャープですばらしかったのはいうまでもないが、指揮のラブマンがこの曲を表面的にではなく、深く理解していることが感じられた。ラブマンは8月23日のマヌリのオーケストラ・ポートレートでも鮮烈な演奏を聴かせた(オーケストラは東響)。大変な実力の持ち主ではないだろうか。

 2曲目はクセナキスの「トゥオラケムス」。クセナキスが武満徹の60歳を祝うコンサートのために書いた曲。ファンファーレのような短い曲だ。弦楽器は16型、木管・金管は4管編成と大編成だ(総勢90人が指定されている)。濁りのない明るい音色が印象的だ。

 3曲目はクセナキスの「ドクス・オーク」。ヴァイオリン協奏曲だ。ヴァイオリン独奏はアーヴィン・アルディッティ。面白いことに、この曲は「トゥオラケムス」のハープを独奏ヴァイオリンに置き換えただけで、ほとんど同じ編成だ。だがオーケストラから出てくる音はだいぶ違う。不機嫌なダミ声のような音が鳴る。ギリシャ悲劇のコロスのように独奏ヴァイオリンを威嚇する。一方、独奏ヴァイオリンは微分音を交えたグリッサンドを連続する。弱々しくコロスに哀願するかのようだ。

 4曲目はマヌリの「メランコリア・フィグーレン」。1曲目の「フルス(河)」と同様に弦楽四重奏とオーケストラのための曲だ。元々はマヌリの「メランコリア:デューラーによせて」という弦楽四重奏曲があり、それを基に作られた曲だそうだ(須藤まりな氏のプログラム・ノートより)。全体は7つの小曲からなり、どの曲もスマートで洗練されている。ドビュッシー~ブーレーズ~マヌリと続く音楽の系譜を思う。

 余談だが、デューラーの銅版画「メランコリア」は国立西洋美術館も所蔵している。多くの形態(フィグーレン)が複雑に構成された作品だ。マヌリのこの曲はその細部の音によるイメージ化とも思える。

 終演後、マヌリが舞台に上がり、アルディッティ弦楽四重奏団とハグを交わした。今年のサントリーホールサマーフェスティバルは例年にも増して充実していた。テーマ作曲家のマヌリとプロデューサーのアルディッティがうまく絡み合い、車の両輪のように機能した。
(2024.8.29.サントリーホール)
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マヌリ:室内楽ポートレート

2024年08月28日 | 音楽
 サントリーホールサマーフェスティバル2024のテーマ作曲家フィリップ・マヌリ(1952‐)の室内楽ポートレート。1曲目は弦楽四重奏曲第4番「フラグメンティ」。全11楽章の各々短い音楽からなる曲だ。演奏はタレイア・クァルテット。若い女性たちの弦楽四重奏団だ。第1楽章の激しい出だしから気合が入っていた。

 藤田茂氏のプログラム・ノートによると、この曲は2016年にアルディッティ弦楽四重奏団によって初演された。そのアルディッティ弦楽四重奏団が来日している。演奏会にはメンバーの何人かが聴きに来ていた。もちろんマヌリ自身も聴いている。そんな中での演奏は緊張しただろう。タレイア・クァルテットには良い経験になったのではないか。

 2曲目は「六重奏の仮説」。以下に述べる6人の奏者の目の覚めるような演奏だ。こんなに難しい曲を指揮者なしでよく演奏できるものだと感嘆する。演奏者を列記すると、フルート:今井貴子、クラリネット:田中香織、ヴァイオリン:松岡麻衣子、チェロ:山澤慧、マリンバ&クロタル:西久保友広、ピアノ:永野英樹。ベテランの永野英樹が入ったことが大きいかもしれない。

 3曲目は「イッルド・エティエム」。ソプラノ独唱とリアルタイム・エレクトロニクスのための曲だ。ソプラノ独唱は溝渕加奈枝。中世の異端審問官と魔女(とされる女)の二役を歌う。異端審問官の威圧的な歌唱パートが恐ろしい。溝渕加奈枝の渾身の歌唱だ。リアルタイム・エレクトロニクスは今井慎太郎。そこにサウンド・ミキシングでマヌリ自身が加わる豪華版だ。エレクトロニクスは教会の鐘の音になったり、女声合唱になったり、ソプラノ独唱の声を増幅したりする。それらのサウンドが聴衆を取り巻く。

 余談だが、中世の魔女とは、男たちの女性にたいする怖れと、それが故の女性への抑圧衝動が生み出したものではないかと想像した。新国立劇場が2012年に上演したアーサー・ミラーの演劇「るつぼ」にも魔女騒動が出てくる。魔女は20世紀のアメリカの一部でも信じられていた。「イッルド・エティエム」は昔の話ではない。

 3曲目の後に休憩が入った。休憩中はずっとエレクトロニクスの教会の鐘の音が鳴っていた。その音が高まると、照明が落ち、ステージに永野英樹が登場して、4曲目の「ウェルプリペアド・ピアノ(第3ソナタ…)」が始まった。永野英樹のピアノ、今井慎太郎のエレクトロニクス、マヌリのサウンド・ミキシングによる演奏だ。エレクトロニクスは教会の鐘の音になったり、リズム楽器になったり、またピアノの音を変形し、さらには装飾を加えたりする。ピアノとエレクトロニクスの対等なデュオのようだ。この曲は2021年にバレンボイムがベルリンで初演した。
(2024.8.27.サントリーホール小ホール)
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アルディッティ弦楽四重奏団:室内楽コンサート(2)&(3)

2024年08月26日 | 音楽
 サントリーホールサマーフェスティバル2024。昨日は昼公演がアルディッティ弦楽四重奏団の室内楽コンサート(2)、夜公演が同(3)だった。

 室内楽コンサート(2)は、1曲目がエリオット・カーター(1908‐2012)の弦楽四重奏曲第5番。単一楽章の曲だが、内容は細かく分かれる。結果、頻繁にテンポが変わる。それを一気に聴かせる。聴かせ上手だ。ヴィオラが目立つ場面が何度もある。弦楽四重奏のヒエラルキーを破り、4人の奏者が対等に書かれている。

 2曲目は坂田直樹(1981‐)の新作「無限の河」。尺八の音の組成と演奏法を参照した曲だそうだが、わたしは単調に感じた。演奏のせいだろうか。3曲目は西村朗(1953‐2023)の弦楽四重奏曲第5番「シェーシャ」。坂田直樹の前曲とは対照的に変化に富み、ドラマがある。西村朗の資質はオペラ向きだったかもしれない。「紫苑物語」の台本が優れていたら、どんなオペラになったか。

 4曲目はハリソン・バートウイッスル(1934‐2022)の弦楽四重奏曲「弦の木」。各楽器がよく鳴る。そしてリズムが分かりやすい。最後に仕掛けがある。各奏者の後ろに椅子が用意されていて、一人また一人と後ろの椅子に移る。弦楽四重奏の解体のようだ。その後、一人ずつ演奏を終えてステージを去る。物語の終わりか。

 次に室内楽コンサート(3)。1曲目はブライアン・ファーニホウ(1943‐)の弦楽四重奏曲第3番。2曲目はジェームズ・クラーク(1957‐)の弦楽四重奏曲第5番。二人は「新しい複雑性」と呼ばれる作曲家だが、当日の作品は対照的だった。ファーニホウの曲は複雑なパッセージが猛スピードで疾走する。一方、クラークの曲は、アルディッティが書いたプログラムノーツによれば「凍りついた時間」だ。わたしはクラークの曲が面白かった。

 3曲目はロジャー・レイノルズ(1934‐)の「アリアドネの糸」。弦楽四重奏に加えて、コンピュータ生成の音響が入る。その音響がだんだん高まり、ついには弦楽四重奏を威嚇するまでになる。緊張の頂点で、テセウスが迷宮から出たかのように、音響は消える。

 4曲目はイルダ・パレデス(1957‐)のピアノ五重奏曲「ソブレ・ディアロゴス・アポクリフォス」。新作だ。ピアノ独奏は北村朋幹。断片的な音が跳躍する。ピアノは内部奏法を多用する。この曲はひょっとするとユーモラスな曲ではないかと。もっとも演奏にはあまりユーモアを感じなかったが。5曲目はクセナキス(1922‐2001)の「テトラス」。超絶技巧の曲だが、ファーニホウの曲は各奏者の超絶技巧であるのに対して、クセナキスの曲は弦楽四重奏の超絶技巧だ。演奏は見事の一語に尽きる。
(2024.8.25.サントリーホール小ホール)
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マヌリ:オーケストラ・ポートレート

2024年08月24日 | 音楽
 サントリーホールサマーフェスティバル2024のテーマ作曲家はフィリップ・マヌリ(1952‐)だ。恒例のオーケストラポートレートは、マヌリが影響を受けた作品としてドビュッシーとブーレーズの作品が、またマヌリが将来を嘱望する作曲家としてヴェルネッリの作品が、そして(これも恒例だが)マヌリの新作が演奏された。演奏はブラッド・ラブマン指揮の東響。

 1曲目はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。リハーサルに十分な時間を割けなかったのか、演奏には余裕がなかった。ラブマンの指揮は明快だが、それはリハーサル不足を補うようだ。オーケストラはその指揮に慎重についていった。

 ところが2曲目のブーレーズの「ノタシオン」になると、水を得た魚のように、演奏に生気が生まれた。ブーレーズ特有の明るく上品な音色と眩いばかりのリズムの炸裂が現れた。東響の実力発揮だが、同時に指揮のラブマンの力量を感じた。

 3曲目はイタリア生まれの女性作曲家・フランチェスカ・ヴェルネッリ(1979‐)の「チューン・アンド・リチューンⅡ」。何かが蠢くような執拗なリズムの反復と、それにくさびを打ち込むような衝撃音が繰り返される。強迫観念か悪夢のようだ。オーケストラの鳴り方は鮮烈だ。

 4曲目はドビュッシーのピアノ4手連弾版「夢」をマヌリがオーケストレーションしたもの。東京オペラシティのコンポ―ジアム2019でも演奏された。そのときも感銘を受けたが、今回はヴェルネッリの前曲を聴いた後だったので、余計にその美しさが胸にしみた。

 5曲目はマヌリの新作「プレザンス」。クリアな輪郭の音像が立ち上がる。その展開の仕方は不定形で、予想のつかないところがある。未知の領域に踏み込むようだ。マヌリの電子音楽での経験の蓄積が反映しているのかもしれない。ラブマン指揮東響の演奏は、濁りのない透明な音を鳴らして見事だった。

 「プレザンス」ではオーケストラは扇状になって指揮者を囲む。最後には各々4人の2グループがオーケストラから去り、客席で演奏したのち、客席を出る。「プレザンス」は三部作の3曲目だ。1曲目の「予想」では各々5人の2グループが客席から演奏しながら近づき、オーケストラに加わるそうだ。三部作を通して聴くと、「プレザンス」の最後は「予想」に対応するのかもしれない。マヌリは細川俊夫との対談で「(引用者注:2世紀以上にわたるオーケストラのあり方とは)異なる方法でオーケストラを扱うことは充分に可能だと示したい」と語る。「プレザンス」はマヌリが立てたオーケストラ音楽への問いかもしれない。
(2024.08.23.サントリーホール)
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アルディッティ弦楽四重奏団:室内楽コンサート(1)

2024年08月23日 | 音楽
 恒例のサントリーホールサマーフェスティバルが始まった。今年のプロデューサーはアルディッティ弦楽四重奏団を率いるアーヴィン・アルディッティ(1953‐)だ。アルディッティ弦楽四重奏団は1974年に結成された。今年は創立50周年。アルディッティは昨年自伝を出版した。そこには彼らの50年間にわたる出来事が記されているそうだ。

 アルディッティは今回3つの室内楽コンサートと1つのオーケストラ・プログラムを組んだ。3つの室内楽コンサートは、武満徹の「ア・ウェィ・ア・ローン」を除いて、すべてアルディッティ弦楽四重奏団に献呈された曲で組まれている。しかも(新作を除いて)プログラム・ノートもすべてアルディッティ自身が書くという力の入れようだ。

 昨夜はその第1回。アルディッティは演奏に入る前に短いスピーチをした。「昨年から今年にかけて私たちの親しい友人だった西村朗、リーム、湯浅譲二が亡くなった。この演奏会を彼らに捧げます」という内容だった。

 1曲目は武満徹(1930‐96)の「ア・ウェイ・ア・ローン」。アルディッティはプログラム・ノートに「弦楽四重奏はしばしばリズム的にユニゾンで動き、対位法を提示することはほとんどない」と書いている(向井大策訳)。なるほど、それがこの曲の(西洋人から見た)特徴かと納得する。演奏はその曲の細かい部分にドラマを見出すものだった。

 2曲目はジョナサン・ハーヴェイ(1939‐2012)の弦楽四重奏曲第1番。針のように細く鋭い音が飛び交う曲だ。静から動へ、そして最後には静に戻るという大きなドラマの流れがある。武満徹の平面的な(もしくは水平方向の)曲の流れとは異なる。

 3曲目は細川俊夫(1955‐)のピアノ五重奏曲「オレクシス」。ピアノは北村朋幹。今年3月にベルリンで今回と同じメンバーで世界初演された曲だ。今回は日本初演。ピアノが短長のリズム(タタン)を繰り返す。水の滴りのようだ。リズムにヴァリエーションが加わる。弦楽器が衝動的な音を絡ませる。音楽が緊迫して爆発する。それが何度も繰り返される。最後の爆発は地獄の底を見るようだ。一種の分かりやすさのある構成だ。北村朋幹のピアノのみずみずしさと、そこからは想像もできないピアノを破壊するような激しさと、その振れ幅の大きさに息をのむ。

 4曲目はヘルムート・ラッヘンマン(1935‐)の弦楽四重奏曲第3番「グリド」。1曲目の武満徹とは対照的に、緊密かつ繊細な対位法が張り巡らされた曲だ。ラッヘンマンらしくノイズも出てくるが、それは音楽の展開上必然性があり、そのノイズさえも美しいと感じさせる演奏だ。水際立った演奏だった。
(2024.8.22.サントリーホール小ホール)
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濱田芳通/アントネッロ「リナルド」

2024年08月18日 | 音楽
 濱田芳通が率いる古楽演奏団体アントネッロはいつか聴いてみたいと思っていた。やっとその機会が訪れた。濱田芳通の第53回(2021年度)サントリー音楽賞の受賞記念コンサートだ。曲目はヘンデルのオペラ「リナルド」。

 評判通り、ビート感のある表情豊かな演奏だ。弦楽器の澄んだ音色、木管楽器の個性的な演奏、ティンパニだけではなくタンバリンなどを加えた打楽器の多彩さ、そして通奏低音の精彩ある演奏など、聴きどころが満載だ。日本にはいつのまにかアントネッロとバッハ・コレギウム・ジャパンという互いに個性を競い合う古楽アンサンブルが2つできていた(各々の個性は鈴木雅明・優人と濱田芳通の個性からくるわけだ)。

 第1幕の鳥のさえずりは濱田芳通のリコーダー演奏で表現された。目の覚めるような妙技だ。即興的な演奏だったのだろう。第2幕の冒頭には日本語のギャグが置かれた。わたしは冗長に感じたが、けっこう受けていた。第2幕の最後のアルミーダのアリアは激烈なチェンバロ・ソロを伴うが(初演の際はヘンデル自身が弾いたという)、そのチェンバロ・ソロがいつ果てるとも知れずに延々と続き、笑いを誘った。

 当演奏の特徴はレチタティーヴォの扱いにあった。濱田芳通の「演奏ノート」によれば、濱田芳通は「レチタティーヴォについて、昨今の演奏では「喋る」要素が強すぎると感じており、オールドファッション的に「歌う」感じを大切にしました」という。オールドファッションとは「バロック初期のレチタールカンタンド様式、そして、戦前の巨匠時代の演奏という二つの意味合いがあります」と。

 それはそれで一つの行き方だろうが、上記の日本語のギャグが典型的に示すような演出上の「緩さ」が随所に加わり、全体的には(アントネッロの演奏の生きのよさにもかかわらず)オペラ進行の冗長さを生じた。

 歌手ではリナルドを歌ったカウンターテナーの彌勒忠史が健在だった。また、わたしには未知の歌手だったが、アルミーダを歌ったソプラノの中山美紀の切れ味のよさに度肝を抜かれた。その他、エウスタツィオを歌ったカウンターテナーの新田壮人に注目した。アルミレーナを歌った中川詩歩はアリア「私を泣かせてください」のダカーポ後の部分で華麗な装飾を聴かせた。

 あとは余談だが、十字軍の「英雄」リナルドを主人公とし、最後には異教徒がキリスト教に改宗するというこのオペラを、現代においてどう演出するか‥。今回の中村敬一の演出はリナルドを幼児的に描いたが、それだけでは問題の核心には届かない。
(2024.8.17.サントリーホール)
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湯浅譲二の逝去

2024年08月06日 | 音楽
 作曲家の湯浅譲二(1929‐2024)が7月21日に亡くなった(写真↑はWikipediaより)。がっくりして元気が出ない。

 湯浅譲二の姿を最後に見たのは、5月28日に東京オペラシティで開かれたN響のMUSIC TOMORROW 2024のときだった。湯浅譲二の「哀歌(エレジィ)― for my wife, Reiko ―」が尾高賞を受賞し、その表彰式と演奏が行われた。湯浅譲二は体調不良が伝えられていたので、表彰式に出席できるかどうか危ぶんだが、車椅子に乗って現れた。ファンとしては姿を見せてくれただけでもありがたいが、だいぶ弱っていた。「哀歌(エレジィ)」は2曲目に演奏された。湯浅譲二は客席で聴いたようだ。湯浅譲二が演奏会場で自作を聴く、あれが最後の機会になったろうか。

 「哀歌(エレジィ)」は、2008年に玲子夫人が亡くなり、しばらく作曲ができなかった湯浅譲二が、メトロポリタン・マンドリン・オーケストラからの委嘱を受けて、玲子夫人の追悼のために書いた曲だ。そのため原曲はマンドリン・オーケストラのための曲だが、2023年に弦楽合奏とハープ、ピアノ、ヴィブラフォン、ティンパニのために編曲した。湯浅譲二の慟哭の想いが込められた曲だ。その感情の濃さに息をのむ。2023年の初演は杉山洋一指揮都響の演奏だった。それも良かったが、今度のペーター・ルンデル指揮N響の演奏も良かった。

 わたしは湯浅譲二の作品が好きだが、どれか1曲挙げることは難しい。あえていくつか挙げれば、「オーケストラの時の時」(1976)、「クロノプラスティクⅡ」(1999)、「クロノプラスティクⅢ」(2001)などになる。「クロノプラスティクⅡ」には「E.ヴァレーズ讃」、「クロノプラスティクⅢ」には「ヤニス・クセナキスの追悼に」という副題がつく。ヴァレーズとクセナキスは20世紀音楽で流派を作らなかった単独者だ。湯浅譲二もそれに連なるように思う。3人は誇り高き単独者たちだ。

 湯浅譲二の姿は演奏会でよく見かけた。80歳代になってからもよく見かけた。わたしは心の中でそっと敬意を表した。

 忘れられないエピソードがある。2014年に世田谷美術館で「実験工房」展が開かれた。関連プログラムで、中川賢一のピアノ・リサイタルが開かれた。曲目は武満徹のピアノ作品集とメシアンの「アーメンの幻影」(共演は稲垣聡)だった。会場には湯浅譲二も来ていた。予定外だったようだが、湯浅譲二が話をした。「アーメンの幻影」は実験工房が初演したそうだ。事前に秋山邦晴がある音楽評論家に来場を依頼したら、「ほう、メシアンか、有名になったら聴きに行くよ」といわれたそうだ。その音楽評論家は武満徹の「2つのレント」を「音楽以前である」と書いた人だ。
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ヴォルフガング・リームの逝去

2024年08月02日 | 音楽
 ドイツの作曲家のヴォルフガング・リーム(1952‐2024)が7月27日に亡くなった。昨年はフィンランドの作曲家のカイヤ・サーリアホ(1952‐2023)が亡くなった。わたしと同世代の作曲家が一人また一人と亡くなる。

 リームの名前は「新ロマン主義」という言葉とともに、素人の音楽好きにすぎないわたしにも比較的早い時期から(1970年代だったと思う)伝わった。だが、就職したばかりで仕事に追われていたわたしは、リームの音楽を探して聴く余裕がなかった。

 初めてリームの音楽に向き合ったのは、2003年10月の読響の定期演奏会でゲルト・アルブレヒト(当時の常任指揮者)が「大河交響曲に向かってⅢ」を演奏したときだ。ダイナミックな音のうねりに目をみはった。上掲のCD(↑)は別の指揮者とオーケストラの演奏だが、それを聴くと、アルブレヒトと読響の演奏を思い出す。

 そのころからリームの音楽を聴く機会が増えた。そして決定的な経験になったのは、2015年のザルツブルク音楽祭で「メキシコの征服」を観たことだ。スペインによるメキシコ征服を扱った音楽劇だ。台本は断片的かつ抽象的な言葉が並ぶだけ。それをどう舞台化するかは演出家に委ねられる。

 ザルツブルク音楽祭では、ペーター・コンヴィチュニーが演出を担当した。瀟洒な家にメキシコのアステカ王朝のモンテスマ(リームの音楽では女声が当てられる)が住む。そこにスペインの征服者のコルテスが現れる。親しく語らう二人。だがコルテスがモンテスマの体を求めると、いさかいが起きる。あっという間に激しい戦いになる。その戦いは会場のフェルゼン・ライトシューレの大空間いっぱいに飛び交うコンピュータ・ゲームの映像で表現される。モンテスマの家は無残に破壊される。指揮はインゴ・メッツマッハー。巨大な音響を見事にコントロールした演奏だった。

 「メキシコの征服」が驚くほどおもしろかったので、「ハムレット・マシーン」も観てみたくなった。その機会はすぐに訪れた。2016年1月にチューリヒ歌劇場で上演予定があったので、それを観に行った。「ハムレット・マシーン」はハイナー・ミュラーの戯曲だ。日本語訳が出ているので、事前に読んだ。断片的で錯乱した言葉が並ぶ。それをどのように上演するかは演出家に委ねられる。チューリヒ歌劇場ではセバスティアン・バウムガルテンの演出だった。詳細は省くが、ファシズムに抵抗するハイナー・ミュラーが敗北する‥という演出だった。指揮はガブリエル・フュルツ。引き締まった演奏だった。

 チューリヒ歌劇場にはリームが来ていた。大男だ。元気そうだった。カーテンコールではステージに上がり、出演者に盛んに拍手を送っていた。
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