私は2年前に北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)を訪れた。それまでは戦争は1945年8月15日で終わったものと思っていたが、同所でみた展示パネルによって、8月15日以降もソ連軍の樺太(サハリン)侵攻は続いていたことを知った。8月20日には混乱する情勢のなかで最後まで通信を守ろうとしていた真岡(まおか)郵便電信局の女性交換手9名が集団自決する事件が起きていた。私は呆然とした。
先日この事件を描いた映画が公開されていることを知った。同時にその映画が実は1974年に完成されたものの、当時、反ソ的な映画とみなしたソ連の圧力によって――ごく一部の地域を除いて――公開自粛になったことを知った。
さっそく仕事の帰りにその映画をみてきた。題名は「樺太1945年夏 氷雪の門」。二木てるみ、岡田可愛、藤田弓子などの懐かしい女優さんが青春真っ盛りだ。丹波哲郎さんもまだ若い。今は亡き南田洋子さんも元気だ。
ソ連侵攻の場面がすさまじい。艦砲射撃をうけて炎上する真岡の町。ソ連兵が逃げまどう一般市民を無差別に撃つ。白旗をかかげて停戦交渉に現れた日本兵を射殺する。私は正直にいって、これなら反ソ的とみられても仕方ないと思った。だがプログラム誌によると、これらはみな事実だったそうだ(樺太・軍事史研究家の藤村建雄氏による)。
私自身はとりたてて反ソ的な映画だとは思わなかった。日本軍も同じようなことをやったかもしれない。アメリカ軍だってそうだ。ドイツ軍もまた然り。その意味では戦争一般の残虐さの一片を切り取った映画だと思った。
電話交換手のなかで藤田弓子さんの演じる人物が、集団自決の場にいず、戦後になって稚内の慰霊碑「氷雪の門」の前でたたずむというストリーになっていた。余韻を残す名場面だが、なぜ集団自決の場にいなかったのかはわからなかった。もしかすると、今回の公開ではフィルムの損耗が激しいので、もともと156分のものだったのを119分に編集したそうだから、カットされた部分になにかのドラマが秘められていたのかもしれない。
冒頭のナレーションは時代がかっていて、私には少々ショックだった。1974年といえば私はまだ大学生。そのときから今にいたるまで、私にとってはあっという間だったが、物理的な時間は長かったのかと思った。音楽もそうだった。いかにもロマン派風の音楽は、今ではもう使われない。
もっともそういうことはすぐに気にならなくなった。1945年8月の樺太でなにがあったのか、それを伝えようとする関係者の皆さんの心意気にふれたからだろう。
(2010.7.28.渋谷シアターN)
先日この事件を描いた映画が公開されていることを知った。同時にその映画が実は1974年に完成されたものの、当時、反ソ的な映画とみなしたソ連の圧力によって――ごく一部の地域を除いて――公開自粛になったことを知った。
さっそく仕事の帰りにその映画をみてきた。題名は「樺太1945年夏 氷雪の門」。二木てるみ、岡田可愛、藤田弓子などの懐かしい女優さんが青春真っ盛りだ。丹波哲郎さんもまだ若い。今は亡き南田洋子さんも元気だ。
ソ連侵攻の場面がすさまじい。艦砲射撃をうけて炎上する真岡の町。ソ連兵が逃げまどう一般市民を無差別に撃つ。白旗をかかげて停戦交渉に現れた日本兵を射殺する。私は正直にいって、これなら反ソ的とみられても仕方ないと思った。だがプログラム誌によると、これらはみな事実だったそうだ(樺太・軍事史研究家の藤村建雄氏による)。
私自身はとりたてて反ソ的な映画だとは思わなかった。日本軍も同じようなことをやったかもしれない。アメリカ軍だってそうだ。ドイツ軍もまた然り。その意味では戦争一般の残虐さの一片を切り取った映画だと思った。
電話交換手のなかで藤田弓子さんの演じる人物が、集団自決の場にいず、戦後になって稚内の慰霊碑「氷雪の門」の前でたたずむというストリーになっていた。余韻を残す名場面だが、なぜ集団自決の場にいなかったのかはわからなかった。もしかすると、今回の公開ではフィルムの損耗が激しいので、もともと156分のものだったのを119分に編集したそうだから、カットされた部分になにかのドラマが秘められていたのかもしれない。
冒頭のナレーションは時代がかっていて、私には少々ショックだった。1974年といえば私はまだ大学生。そのときから今にいたるまで、私にとってはあっという間だったが、物理的な時間は長かったのかと思った。音楽もそうだった。いかにもロマン派風の音楽は、今ではもう使われない。
もっともそういうことはすぐに気にならなくなった。1945年8月の樺太でなにがあったのか、それを伝えようとする関係者の皆さんの心意気にふれたからだろう。
(2010.7.28.渋谷シアターN)