Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

樺太1945年夏 氷雪の門

2010年07月30日 | 映画
 私は2年前に北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)を訪れた。それまでは戦争は1945年8月15日で終わったものと思っていたが、同所でみた展示パネルによって、8月15日以降もソ連軍の樺太(サハリン)侵攻は続いていたことを知った。8月20日には混乱する情勢のなかで最後まで通信を守ろうとしていた真岡(まおか)郵便電信局の女性交換手9名が集団自決する事件が起きていた。私は呆然とした。

 先日この事件を描いた映画が公開されていることを知った。同時にその映画が実は1974年に完成されたものの、当時、反ソ的な映画とみなしたソ連の圧力によって――ごく一部の地域を除いて――公開自粛になったことを知った。

 さっそく仕事の帰りにその映画をみてきた。題名は「樺太1945年夏 氷雪の門」。二木てるみ、岡田可愛、藤田弓子などの懐かしい女優さんが青春真っ盛りだ。丹波哲郎さんもまだ若い。今は亡き南田洋子さんも元気だ。

 ソ連侵攻の場面がすさまじい。艦砲射撃をうけて炎上する真岡の町。ソ連兵が逃げまどう一般市民を無差別に撃つ。白旗をかかげて停戦交渉に現れた日本兵を射殺する。私は正直にいって、これなら反ソ的とみられても仕方ないと思った。だがプログラム誌によると、これらはみな事実だったそうだ(樺太・軍事史研究家の藤村建雄氏による)。

 私自身はとりたてて反ソ的な映画だとは思わなかった。日本軍も同じようなことをやったかもしれない。アメリカ軍だってそうだ。ドイツ軍もまた然り。その意味では戦争一般の残虐さの一片を切り取った映画だと思った。

 電話交換手のなかで藤田弓子さんの演じる人物が、集団自決の場にいず、戦後になって稚内の慰霊碑「氷雪の門」の前でたたずむというストリーになっていた。余韻を残す名場面だが、なぜ集団自決の場にいなかったのかはわからなかった。もしかすると、今回の公開ではフィルムの損耗が激しいので、もともと156分のものだったのを119分に編集したそうだから、カットされた部分になにかのドラマが秘められていたのかもしれない。

 冒頭のナレーションは時代がかっていて、私には少々ショックだった。1974年といえば私はまだ大学生。そのときから今にいたるまで、私にとってはあっという間だったが、物理的な時間は長かったのかと思った。音楽もそうだった。いかにもロマン派風の音楽は、今ではもう使われない。

 もっともそういうことはすぐに気にならなくなった。1945年8月の樺太でなにがあったのか、それを伝えようとする関係者の皆さんの心意気にふれたからだろう。
(2010.7.28.渋谷シアターN)
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有元利夫展――天空の音楽

2010年07月28日 | 美術
 先週土曜日の昼下がりに東京都庭園美術館で開催中の「有元利夫展――天空の音楽」に行ってみた。東京都の広報誌で知って、その透明な色彩にひかれたから。念のためにブログを検索したら、私の愛読しているブログをはじめ、多くのかたが書いておられた。

 会場に入ると、チラシ↑にも使われている「厳格なカノン」が出迎えてくれた。予想どおりの透明感だ。空の色がシュールレアリスムのマグリットを連想させる。そういう目でみると、この絵はシュールレアリスムのようでもある。ただちがうのは、シュールレアリスムの場合はその意味を問いたくなるが、この絵の場合はそういう気が起きないことだ。ゆったりとくつろいだ気分にさせてくれる絵。

 この絵と向き合って「花降る日」が展示されていた(図像は同展のHP↓で)。
 http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/arimoto/index.html
 近寄ってみて驚いたが、絵具がわざと剥落され、地のキャンバスがのぞいている。意図された風化。それがあざとい感じではなく、画家のこだわりと愛着のように感じられる。この絵も不思議な絵ではあるが、やはりその意味を問う気にはならず、なにか祝祭的な気分にさせてくれた。

 以下この調子で個々の作品を取り上げていっても煩瑣になるだけだから、控えることにしたい。私は60点あまりの絵(タブロー)と20点あまりの版画、その他の展示物をどれも楽しんだ。そこにはなにか共通する因子が感じられた。それを考えながら、翌日曜日からずっと「有元利夫 女神たち」(美術出版社)と「有元利夫 絵を描く楽しさ」(新潮社)をみて楽しんでいる。

 私が考えた共通の因子をここで開陳しても、はたしてどれほどの意味があるのかよくわからない。上記のHPに載っている図像をご覧いただき、なにかを感じていただければ、それに如くはないという気がする。もしできることなら、会場に足を運んで、実際にご覧になれば、たぶん楽しい時間をすごせるはずだ。

 参考までに有元利夫の生涯を紹介しておきたい。1946年(昭和21年)生まれ。生地は両親の疎開先の岡山だが、東京の谷中(やなか)で育った。高校卒業後4浪。1969年(昭和44年)東京芸術大学美術学部デザイン科に入学。この年代が示すように、激動の68年世代だ。当時は前衛的なコンセプチュアル・アートにのめりこんだそうだが、大学2年のときのヨーロッパ旅行でイタリアのフレスコ画に共感。それが後年の「厳格なカノン」↑や「花降る日」↑にいたる道の出発点となる。1985年(昭和60年)に癌により逝去。享年38歳。今回の展覧会は没後25年記念だ。
(2010.7.24.東京都庭園美術館)
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カポディモンテ美術館展

2010年07月24日 | 美術
 連日の猛暑。場所によっては38.9度を記録したところもあるそうだ。お気の毒というしかない。我が家にはクーラーがないので、網戸で暮らしている。もし我が家だったらと思うとゾッとする。

 昨日は金曜日。国立西洋美術館で開催中の「カポディモンテ美術館展」の夜間開館日なので、仕事の帰りに寄ってきた。上野駅を降りると東京文化会館の前には「チケット求む」の紙をもった人が3~4人いた。なんだろうと思ったら、トリノ王立歌劇場の「椿姫」だった。全席完売なのだろうか。

 カポディモンテ美術館はイタリアのナポリにある美術館だそうだ。今回の出展作はルネサンスからマニエリスムを経てバロックまでのイタリア美術の数々。

 会場に入ると、まずマンテーニャの「ルドヴィコ(?)・ゴンザーガの肖像」が出迎えてくれる。小品ながら、初期ルネサンス特有の優雅さがある。真横を向いている肖像画。こういう肖像画は当時よくあったらしい。そういえばピエロ・デラ・フランチェスカの「フェデリコ・ダ・モンテフェルトロの肖像」もそうだった。

 しばらく歩くとパルミジャニーノの「貴婦人の肖像(アンテア)」が待っている。高貴な婦人とも高級娼婦ともいわれているそうだ。大半のブロガーは高級娼婦説。私もそういう目で見ていたせいか、清純な顔立ちの大きな目の奥には、深い闇――背徳のにおい――が漂っているようだった。奇妙にいびつな構図が私たちを不安にさせるからか。

 次の部屋のグイド・レーニの「アタランテとヒッポメネス」は、今回の白眉だった。奔放に躍動する線、線、線。神話に題材をとった絵だが、躍動する何本もの線は抽象的に見えた。2007年のパルマ展で出会ったスケドーニの「キリストの墓の前のマリアたち」は大胆な色彩の面で、本作の場合は奔放な線の面で、時代の壁を突き抜けている。

 素描コーナーを過ぎた部屋では、《羊飼いへのお告げ》の画家による「放蕩息子の帰宅」に注目した。名前が特定されていない画家だが、どういう画家なのだろう。自然主義的な描写と高い精神性が、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの貧しい人々を描いた絵を連想させた。そういえばこの画家とラ・トゥールとは同時代人だ。

 同じ部屋にあったアルテミジア・ジェンティレスキの「ユディットとホロフェルネス」はもう一つの白眉だった。シーツにしたたる血の筋が生々しい。首に刺した短刀が下に突き出している。冷静に復讐を遂げるユディットの表情が、冷静であるがゆえに、深い憎悪を感じさせた。

 常設展を見る時間はなかった。外に出ると、冷えきった身体に外気が気持ちよかった。だがそれもつかの間、すぐに汗が噴き出した。クーラーのない我が家に帰って、冷たいビールに一目散。
(2010.7.23.国立西洋美術館)
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売られた花嫁

2010年07月20日 | 音楽
 前日の「ファウストの劫罰」に続いて、都響のコンサートオペラ「売られた花嫁」に行ってきた。連日のオペラ。しかも連休中なので、家でボーッとしていられる。なんだか外国に行ってオペラ・フェスティヴァルに参加している気分になった。

 例の序曲が始まると、張りがあってピタッときまった演奏なので、思わず嬉しくなった。この日のクオリティが保証されたようなものだ。失礼ながら、前日の「ファウストの劫罰」になかったのはこれだと思った。指揮はレオシュ・スワロフスキーという人。歌手と合唱をふくめて、全体を統率する力量のある人だ。

 歌手はスロヴァキアとチェコから招いた人たち。チェコ語に問題のあるはずもない。いずれ劣らぬ歌手たちの、いわば自然体のアンサンブルをききながら、私は今度ヤナーチェクをきいてみたくなった。

 合唱は二期会合唱団。これも見事だった。同時並行で「ファウストの劫罰」をやっているので、2班に分かれた形。こちらの班もけっして引けをとらない。バシッときまったアンサンブルだった。

 実はナビゲーターが起用されていることが少し心配だったが、これは杞憂だった。朝岡聡さんがつとめるナビゲーターは、前半(第1幕)と後半(第2幕~第3幕)のそれぞれ冒頭に出てくるだけ。それも居酒屋の主人に扮していた。これならOKだ。

 第1幕フィナーレのポルカ、第2幕のフリアント、第3幕のスコチナーと3曲ある舞曲も見事な演奏だった。これらはコンサートピースとして十分に楽しめる。私はダンサーはいらないのではないかと思った。

 指揮者のスワロフスキーはプログラム誌に載った対談で次のように語っている。
 「ヴェルディやプッチーニのオペラには美しいアリアがありますが、オーケストラ部分は意外と単純です。《売られた花嫁》ではオーケストラが歌と一緒に動いてうねりを作りだす。演奏していて楽しいと思いますよ。」

 なるほど、たしかに「うねり」を作りだしていた。それが実感できたのは、オーケストラが舞台に上がる演奏会形式だったからだ。ピットに入っていたのでは、なかなか実感できない。このオペラがどういうオペラかよくわかった気がした。

 なお旅芸人一座の花形エスメラルダは子役に置きかえられていた。演出も担当したスワロフスキーのアイディアだろうか。楽しい趣向だった。
(2010.7.19.サントリーホール)
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ファウストの劫罰

2010年07月18日 | 音楽
 夏の到来。東京でも夏空が広がり、気温はぐんぐん上がった。絶好のタイミングでの3連休。海に山に多くのかたが出かけたことだろう。私は東京二期会公演のベルリオーズの「ファウストの劫罰」をみたくて東京にいた。私がみたのは最終日。

 大島早紀子が演出・振付をするのが注目の的。大島早紀子は2007年の「ダフネ」も担当した。シュトラウスの音楽とコンテンポラリーダンスという意外な組み合わせが新鮮だった。今回の「ファウストの劫罰」では作品の性格上意外性はなく、また二度目ということもあって、「さて、どうなるか」といったところだった。

 「おおっ」と思ったのは第2部の幕切れ。酒場で人生を謳歌する学生や兵士たちの背後で、死んだ兵士が次々と階段をすべり落ち、火葬の炎の中に転落するという演出だった。悲惨な光景を嘆き悲しむマルグリート。しかしそれ以外の場面では、このような形で現実と切り結ぶ演出は見られなかった。総体的にはH・アール・カオスのコンテンポラリーダンスは、妖精なり精霊なりの非現実的な存在を表す役割にとどまっていた。

 演出上の一番の見せ場は第4部のファウストの地獄落ちの場面だろう。今回の演出では舞台の空間を覆い尽くす巨大な銀の幕を駆使し、そこに毒々しい抽象的な映像を投影する演出だった。銀の幕に飲み込まれるようにして地獄に落ちるファウスト。私は息をのんだ。

 メインダンサーの白河直子は、しなやかで切れ味のよい舞踊。たとえば、これは小さな場面だけれど、第2部の冒頭の復活祭の合唱の場面では、舞台の奥に十字架の形をした空間が開き、そこに何人ものダンサーが浮遊した後、白河直子がイエスの磔刑のような形で宙に浮いた。私は名画をみるような気持になった。

 歌手ではファウスト役の樋口達哉が、張りのある声と明快なメロディーラインで素晴らしかった。「ダフネ」のときのロイキッポス役の好演を思い出した。
 マルグリート役の林正子は、顔の表情が生きいきとしていた。たとえば第4部の冒頭のロマンスの後の長い後奏では、その表情が語りかけてくるものに私の目は釘付けになった。
 メフィストフェレス役の泉良平は音程の甘さが気になった。

 ミッシェル・プラッソンの指揮は、穏やかで温かく、けっしてオーケストラを煽らないものだった。もっと奔放に演奏してほしい箇所もあったが、そこにはオーケストラ側の制約があったかもしれない。

 この作品ではファウストは地獄落ちする。それはマルグリートを救おうとしてのことだ。マルグリートを救うためには、ファウストは自らの魂を悪魔に引き渡すこともいとわなかった。こういうファウストもよいものだと思った。
(2010.7.18.東京文化会館)
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ベートーヴェン交響曲全曲シリーズ第2回

2010年07月16日 | 音楽
 東京シティ・フィルの7月定期は常任指揮者の飯守泰次郎さんの指揮で「ベートーヴェン交響曲全曲シリーズ」の第2回だった。
(1)ベートーヴェン:「エグモント」序曲
(2)ベートーヴェン:交響曲第8番
(3)ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」

 「エグモント」序曲は近年まれな熱い演奏だった。今どきのスマートな演奏とは一線を画す演奏。私は昔読んだゲーテの戯曲を思い出した。細かい点は忘れているが、戯曲のなかで躍動している豪快な精神は、今でも強烈に覚えている。その精神が演奏のなかで脈打っているように感じられた。

 第8番は残念ながら感度の鈍い演奏だった。頑張ってはいるのだが、晴朗な気分やユーモアが出てこなかった。

 第6番「田園」はベートーヴェンの感性の震えが伝わってくる名演だった。音のみずみずしさと、音に込められた内面の充実の両面で、これは見事な演奏だった。飯守さんにとっても会心の出来だったのだろう、演奏終了後に両手を胸の前で固くにぎりしめて、オーケストラに感謝の気持ちを伝えていた。それは感動的な光景だった。

 飯守さんは前日に公式サイト↓のMessage欄に次のような文章を書いていた。
 http://www.taijiroiimori.com/
 「交響曲第6番「田園」は、いわゆる名曲であり、私自身もこの曲に癒されてきた1人ではありますが、今回マルケヴィチ版の洞察に触れ、この作品に対するマルケヴィチの読みがいかに深いか、感動しました。」
 「このマルケヴィチ版の解釈を明日ほんとうに演奏で実現できるのか、怖いような気がするほどです。」

 この文章に窺える音楽にたいする謙虚さに、私は感動した。

 飯守さんは今回のシリーズで、マルケヴィチ版をきっかけに、自身のベートーヴェン解釈を洗い直しているのだろう。それは自らの音楽のルーツに向き合うことでもあるはずだ。端的にいって、今回のシリーズは、飯守さんの生涯の総決算の意味合いを帯びてきたように感じる。私はその現場に立ち会っているような気になってきた。

 会場は多くの聴衆で埋まっていて、カーテンコールでは盛大な拍手が送られた。それは「田園」の名演にたいする拍手であると同時に、今進行しているシリーズが意味するものを十分感じ取っている拍手でもあったと思う。そういう熱いものが拍手には感じられた。
(2010.7.15.東京オペラシティ)
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カンブルラン&読売日響

2010年07月15日 | 音楽
 読売日響の7月定期は常任指揮者カンブルランの指揮で次のプログラムが組まれた。
(1)フォーレ:付随音楽「ペレアスとメリザンド」
(2)メシアン:鳥たちの目覚め(ピアノ:児玉桃)
(3)ドビュッシー:ピアノと管弦楽のための幻想曲(ピアノ:児玉桃)
(4)デュティユー:5つの変遷(Cinq métaboles)

 このプログラムについて、カンブルランはインタビューで次のように語っている(読売日響のHPより)。

 「さて、今回のプログラムは些か奇妙に見えるかもしれません。フォーレ、ドビュッシー、メシアン、デュティユーですから。ちょっとリスクがあるプログラミングであることは判ってます。ですが、私は聴衆を信じています。このような何か違ったものに挑戦する準備は出来ていると思います。演奏を聴き終えたときには、絶対に来て良かったと感じられる筈ですよ。」

 これは嬉しくなる言葉だ。その心意気に応えたい聴衆も多いはずだ。不肖ながら私もその一人。

 1曲目のフォーレが始まると、弦の澄んだ音色が流れてきた。「ああ、そうだった、これがフォーレの音だった!」と思った。例のフルート・ソロの「シシリエンヌ」も透明な響きだった。
 2曲目のメシアンは、児玉桃のピアノが名演だった。私は2008年の「鳥のカタログ」をきいたが、そのときよりもさらに柔軟性が増していた。困難をきわめる譜面だろうが、それを感じさせない演奏だった。
 3曲目のドビュッシーでは、フォーレの音色とのちがいを感じた。ドビュッシーは暖色系の音色で、音にたいする陶酔があった。一方、フォーレは寒色系の音色で、職人技ののりを越えないところがあった。
 4曲目のデュティユーはシンフォニックな演奏だった。オーケストラが炸裂する最後の部分では、カンブルランの指揮が格好よかった!

 近代から現代にかけてのフランスの代表的な4人の作曲家を、このように並べてきいてみると、そのつながりやちがいが感じられて面白かった。前述したように、フォーレとドビュッシーのちがいが際立っていたが、メシアンはドビュッシーに近く、デュティユーはフォーレの遠縁のように感じられた。フランス音楽の網の目のもつれ具合が、透けて見えるようだった。

 音楽的にはメシアンが面白かった。夜中から正午までの鳥の鳴き声というプログラムがついているわけだが、それを忘れてきいていると、恐ろしいほどの前衛音楽にきこえた。
(2010.7.14.サントリーホール)
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佐村河内守:交響曲第1番

2010年07月13日 | 音楽
 被爆二世の作曲家佐村河内守(さむらごうちまもる)さんの交響曲第1番の演奏会が8月14日に京都コンサートホールで開かれます。
 この曲は2008年9月に広島で「G8議長サミット記念コンサート」として秋山和慶指揮広島交響楽団によって初演されました。ただしこのときは全3楽章のうちの第1楽章と第3楽章だけの演奏でした。2010年4月には東京で大友直人指揮東京交響楽団によって再演されました。このときも第1楽章と第3楽章だけでした。8月14日の演奏会では初めて全楽章が演奏されます(秋山和慶指揮京都市交響楽団)。
 先日、4月の再演のときのブログに、下記のコメントが寄せられましたので、ご紹介します。


>>8月14日全三楽章を京響が演奏 (京都・楠本)
2010-07-10 08:19:52
「佐村河内守」を検索し、ここに来ました。
佐村河内守さんの交響曲第1番HIROSHIMAが、8月14日に京都で全三楽章を通して演奏されます。
私は、実行委員のはしくれですが、佐村河内さんとの交流の中で、この方の人間としてのすごさ(子ども達、特に障害のある子ども達への思い)を思い知らされています。

http://www.fukushi-hiroba.com/samuragochi/index.html
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ファジル・サイ

2010年07月10日 | 音楽
 日本フィルの7月定期は広上淳一を指揮者に迎えて次のプログラム。
(1)ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番(ピアノ:ファジル・サイ)
(2)スクリャービン:交響曲第2番

 目玉はファジル・サイの登場だ。1970年生まれのトルコのピアニスト。私は、名前は知っていたが、演奏をきくのはCDをふくめて初めて。さてどういう演奏をするのか。

 第1楽章のオーケストラの提示部は、起伏の大きい、濃厚な表情付け。「おや、これはどうしたことか」と思っていると、ピアノが入ってきて、そのわけがわかった。ピアノはオーケストラを上回る思い入れたっぷりの演奏だったから。個性的というよりも、自らの感性を恃んだ演奏。感性の赴くままに、好きで、好きでたまらない音楽に没入している様子だった。

 顔の表情が千変万化だった。恍惚としたかと思えば、オーケストラのほうを向いて笑ったり、クシャクシャに歪めたり。おまけにピアノを弾いていないほうの手は、指揮者のように動いていた。

 カデンツァは自作のものと予告されていた。どういうものかと期待が高まった。リストのように音の多い華麗な部分の後、極端に音が薄くなって、アンティークなオルゴールのような音楽になった。意外性に富むカデンツァだった。

 終演後は大きな拍手。アンコールが演奏され、これも面白かった。左手をピアノの中に突っ込んで、弦を押さえながら、右手で鍵盤をたたく特殊奏法が入っていた。この奏法によって撥弦楽器のような音が出ていた。その音型は中東を連想させるオリエンタルなもの。休憩時にロビーに貼り出された曲名は「ブラック・アース」。自作とのことだった。プログラム誌のプロフィールによれば、CDも出ている由。いつかCDをきいてみたいと思った。

 スクリャービンの交響曲第2番は、実演できく機会はまずない。もちろん私も初めてだ。スクリャービンが神秘主義に入る前の作品で、ざっくりいうと、ラフマニノフ的といえなくもない。ただラフマニノフほど甘くはない。全5楽章から成る。明るく終わる最終楽章は紋切り型だが、それまでの楽章は情緒が細やかで、きき応えがあった。

 楽員は、「この譜面をみるのは初めて」という人がほとんどだったろう。その意味では、よくまとめていたというべきだ。だが、「ここまでまとめました」という以上のものがほしかったのも事実。どこかよそよそしいところがあって、内から湧き上がるものが不足していた。
(2010.7.9.サントリーホール)
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混沌から砂漠へ、そして大地

2010年07月09日 | 音楽
 7月の読売日響は常任指揮者のカンブルランの登場。プログラムは3種類が組まれた。昨日は2番目のプログラム。
(1)ハイドン:オラトリオ「天地創造」から序奏
(2)ヴァレーズ:砂漠
(3)マーラー:交響曲「大地の歌」(アルト:エカテリーナ・グバノヴァ、テノール:ミヒャエル・ケーニッヒ)

 天地創造の混沌(ハイドン)から、乾いた不毛の砂漠(ヴァレーズ)へ、そして悠久の大地を舞台とする人間と自然の生死のドラマ(マーラー)。いかにもカンブルランらしい刺激的なプログラム。

 ハイドンとヴァレーズは続けて演奏されることが事前に告知されていた。まずはハイドンから。大編成のオーケストラが冒頭の和音の一撃を鳴らすと、引き締まった透明な音が会場を満たした。意志がみなぎった音。構えの大きな演奏がそれに続いた。

 ハイドンが終わると、ヴァレーズ。気迫のこもった演奏だった。ただテープ音楽がカットされて、オーケストラ部分だけをきくのは、正直にいうと、少々辛かった。木管・金管楽器と打楽器とピアノという編成なので、私は途中から、「弦楽器奏者はじっと座って待っていなければならないわけか。気の毒だな」と余計なことを考え始めた。

 ところがヴァレーズが終わると、なんともう一度ハイドンが演奏された。こっそり用意された嬉しい驚きの仕掛けだ。ハイドンがなんの不自然さもなくヴァレーズにつながった。この音楽が初演されたときには、ヴァレーズと同じくらい衝撃的だったろうと思った。同時に、ハイドンに挟まれたヴァレーズの音楽が、蜃気楼のように思い出された。

 「大地の歌」は第1楽章ではオーケストラが咆哮し、テノールの声が埋もれがちだったが、容赦なかった。嵐のように猛り狂った心象風景を描くためには、一切手加減しないということか。第2楽章では一転して薄く透明なオーケストラのテクスチュアに、アルトが太く豊かな声を乗せていた。テノールも第3楽章、第5楽章では十分にききとれた。

 第6楽章は第2楽章と同様、薄く透明なオーケストレイションだが、そこに明滅するエピソードがより深い意味をもってくる。約30分もかかる音楽を一気にきかせてしまうマーラーの力量は恐ろしいくらいだ。昨日は、ヴァレーズがこの音楽を逆照射して、その斬新性を意識させているように感じた。

 カンブルラン指揮の読売日響の演奏には底知れぬ緊張感があった。硬質で、色彩感があり、もたれず、エッジのたった演奏。その集中力は並みのものではなかった。
(2010.7.8.サントリーホール)
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オルセー美術館展2010「ポスト印象派」

2010年07月06日 | 美術
 オルセー美術館展2010「ポスト印象派」に行くことができた。金曜日が夜間開館日なので、かねてより狙っていた。金曜日には職場の付き合いが入ることが多く、なかなか行けなかったが、先週やっと行けたしだい。さすがに夜間といっても人が多く、その人気ぶりが感じられた。

 一番人気はゴッホの「星降る夜」とルソーの「蛇使いの女」だった。両作品の前には人だかりができていた。ほかの作品の場合は、しばらく待っていると人が少なくなる瞬間があるのだが、これらの場合はそうはいかなかった。

 さすがに両作品とも素晴らしい。「星降る夜」は、ローヌ川に映るアルルの街明かりが、泣きはらした目に映る滲んだ景色のように見えた。ゴッホはなぜ泣いていたのだろう、幸せすぎて泣いていたのか、それとも将来に向けての不安に怯えて泣いていたのか、と考えてしまった。

 「蛇使いの女」は、月を背にした肌黒い女の目が、猫の目のように光っている。シルエットになった暗い密林のなかでは、シダの群れが不気味に発光していた。図録の解説によると、「蛇使いの女は、しばしば『創世記』中の楽園のイヴの黒い化身と形容される」とのこと。なるほど、異教のイヴと蛇のいる風景というわけか。

 ほかにも多くの人が足を止めている作品があった。たとえばセザンヌの「水浴の男たち」やモローの「オルフェウス」などはその代表例。一言でいうと、この展覧会はオルセー美術館をギュッと圧縮したような内容だ。

 私は普段は図録を買うのは我慢するのだが、今回だけは買った。帰宅後、パラパラめくっているが、たいへん面白い。普段我慢するのは、値段が高いのと、本棚が一杯であることが理由。本棚は仕方ないとしても、値段はけっして高くないと思った。

 ポスト印象派を一言で定義するとしたら、どうなるだろうと思っていた。図録にのっているオルセー美術館長のギ・コジュヴァル氏の「印象派を越えて」のなかで、次のような文章に出会った。
 「印象派は、無数の断片に砕け散ってゆき、煌く星雲のごとくに輝いた。ポスト印象派はある意味で、この大爆発の「輝き」であると言えるかもしれない。」

 ビッグバンになぞらえて、宇宙に浮かんだ無数の断片と表現するのは、的確なような気がする。その一つひとつが個性的な形態をしているわけだ。これを言い換えるなら、個人の様式を探求し始めた世代、ということになるのではないだろうか。現代に通じる意味合いでの芸術は、このへんから始まっているような気がする。
(2010.7.2.国立新美術館)
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エネミイ

2010年07月02日 | 演劇
 新国立劇場で蓬莱竜太の新作「エネミイ」が始まった。エネミイとは敵を意味する言葉だが、逆から読めば「意味ねえ」になるとのこと(プログラム誌に載った座談会での作者の発言)。そのためわざわざ「エネミー」ではなく「エネミイ」にしたそうだ。

 この芝居は「68年世代」を扱ったもの。私はこの言葉を知らなかったが、先日たまたま新聞で知った。いわれてみると、1968年前後は激動の時代だった。この年には東大紛争がピークを迎え、翌年1月の安田講堂事件まで一気に進んだ。当時高校生だった私は、テレビの報道をみながら、受験のことを心配していた。
 呑気な私だったが、ベ平連の集会には何度か参加していた。反戦集会だが、切羽詰った雰囲気ではなかった。明るいフェスティヴァルくらいに思っていた。

 私にとっては、68年世代は先輩の世代だ。後輩の私が大学に入ったときには、立看が林立し、ビラが舞っていたが、時代は変わっていた。内ゲバの時代。私の大学が某セクトの牙城だったこともあり、時おり内ゲバを目撃した。それは決闘というものではなく、闇討ちだった。1972年2月には「あさま山荘事件」が起きた。陰惨な自滅の道。それは時代の帰結だった。

 蓬莱竜太は1976年生まれとのこと。私の息子の世代だ。その世代が68年世代をみたときに、どうみえるか、というのがこの芝居。昨日が初日だった。これからみる予定のかたも多いと思われるので、ストーリーにふれることは控えたい。登場人物は68年世代の男3人と妻1人、息子と娘と息子の友人が各1人。息子の友人は影が薄いが、それ以外の6人は個性豊かに描かれていて、それぞれの人生が感じられる。ストーリーは笑いを誘いながら展開する。68年世代と若い世代とのぎこちない心の交流が温かい。結末には人生のしんみりした味わいが残る。

 1968年をノスタルジックに描くのではなく、また神話化するのでもなく、生身の人間の人生としてとらえ、かつ若い世代の人生もとらえている芝居だ。細部には意見をいいたい点もなくはないが、全体的には成功作だと思う。

 役者さんも素晴らしい。皆ほかの役者さんなど考えられないほど役柄の肉付けをしている。ベテラン4人と若い3人のがっしりした絡み合いもよい。
 演出は鈴木裕美。私にはどこまでが演出の力で、どこからが役者さんの力かはわからないが、明るく活気のある舞台や、微妙な心理の揺らぎなどは、演出の力が大きいはず。
 その他のスタッフも若い人中心のようだった。これは鵜山仁芸術監督の退任に当たっての置き土産なのだろうか。
(2010.7.1.新国立劇場小劇場)
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