サントリーホール サマーフェスティバル「ザ・プロデューサー・シリーズ」の今年のプロデューサー、野平一郎の企画する《フランス音楽回顧展Ⅰ》。副題に「昇華/飽和/逸脱~IRCAMとその後~」とある。「IRCAMとその後」という言葉がこのコンサートの性格を言い表している。
まず曲目を列挙しよう。トリスタン・ミュライユ(1847‐)の2台のピアノと2群の打楽器のための「トラヴェル・ノーツ」(2015)、ラファエル・センド(1975‐)のチェロとピアノのための「フュリア」(2009/10)、フィリップ・マヌリ(1952‐)の2台のピアノと電子音響のための「時間、使用法」(2013‐14)。
わたしはミュライユとマヌリの名前は知っていたが、当日の曲目は未聴。センドは名前すら知らなかった。
全体を通して、2013年の東京春祭のコンサート「IRCAM×東京春祭」を想い出した。そのコンサートでわたしはブーレーズの「二重の影の対話」(クロード・ドラングルが吹くサクソフォン版で演奏された)に魅了された。
わたしはそのとき、IRCAM(フランス国立音響音楽研究所)ではこのような作曲・演奏活動が行われているのかと、その一端に触れる思いがした。今回の《フランス音楽回顧展Ⅰ》はその続きのように感じた。思えば、東京春祭のコンサートでも野平一郎が関与していたのかもしれない(野平作品も演奏された)。そうであれば、一貫したコンセプトが感じられてもおかしくない。
1曲目のミュライユの「トラヴェル・ノーツ」は、「ロンドのような構造で」(ミュライユ自身のプログラム・ノート)書かれ、そのルフランは「同じ速さで進むところはほとんどなく、加速したり減速したりが大体である。」(同)。その滑らかな演奏の難しさを感じた。
2曲目のセンドの「フュリア」は、NMLに音源があったので、事前に聴いた。ところが当日はPAが使われていたので(その記憶はなかった)驚いた。帰宅後、チェロの山澤慧のツイッターを見たら、前日急遽PAを入れることになったらしい。PAの使用をためらわないこともIRCAMらしい気がする。
3曲目のマヌリの「時間、使用法」は、NMLで聴いたヴィオラと電子音響のための「パルティータⅠ」の繊細な美しさに惹かれたので、じつは大変期待していたのだが、なぜか感銘を受けなかった。
(2018.8.27.サントリーホール小ホール)
まず曲目を列挙しよう。トリスタン・ミュライユ(1847‐)の2台のピアノと2群の打楽器のための「トラヴェル・ノーツ」(2015)、ラファエル・センド(1975‐)のチェロとピアノのための「フュリア」(2009/10)、フィリップ・マヌリ(1952‐)の2台のピアノと電子音響のための「時間、使用法」(2013‐14)。
わたしはミュライユとマヌリの名前は知っていたが、当日の曲目は未聴。センドは名前すら知らなかった。
全体を通して、2013年の東京春祭のコンサート「IRCAM×東京春祭」を想い出した。そのコンサートでわたしはブーレーズの「二重の影の対話」(クロード・ドラングルが吹くサクソフォン版で演奏された)に魅了された。
わたしはそのとき、IRCAM(フランス国立音響音楽研究所)ではこのような作曲・演奏活動が行われているのかと、その一端に触れる思いがした。今回の《フランス音楽回顧展Ⅰ》はその続きのように感じた。思えば、東京春祭のコンサートでも野平一郎が関与していたのかもしれない(野平作品も演奏された)。そうであれば、一貫したコンセプトが感じられてもおかしくない。
1曲目のミュライユの「トラヴェル・ノーツ」は、「ロンドのような構造で」(ミュライユ自身のプログラム・ノート)書かれ、そのルフランは「同じ速さで進むところはほとんどなく、加速したり減速したりが大体である。」(同)。その滑らかな演奏の難しさを感じた。
2曲目のセンドの「フュリア」は、NMLに音源があったので、事前に聴いた。ところが当日はPAが使われていたので(その記憶はなかった)驚いた。帰宅後、チェロの山澤慧のツイッターを見たら、前日急遽PAを入れることになったらしい。PAの使用をためらわないこともIRCAMらしい気がする。
3曲目のマヌリの「時間、使用法」は、NMLで聴いたヴィオラと電子音響のための「パルティータⅠ」の繊細な美しさに惹かれたので、じつは大変期待していたのだが、なぜか感銘を受けなかった。
(2018.8.27.サントリーホール小ホール)