新国立劇場が清水脩のオペラ「修禅寺物語」を上演した。昨年の山田耕作の「黒船」に引き続き、日本の創作オペラの歴史をたどる第2弾。芸術監督の若杉弘さんらしい着眼点だ。若杉さんは体調不良のため今回は指揮することができなかったが、さぞかし残念だったことだろう。
私は「修禅寺物語」をみるのは初めて。プログラムの解説で片山杜秀さんが書いているように、このオペラがドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」を参考にしていることはよくわかった。既存の戯曲にそのまま作曲している点もそうだが、さらに根本的には「フランス語(引用者注:「修禅寺物語」の場合は日本語)の微妙な響きと抑揚を活かし、語りと歌のちょうど中間を狙っている」点も――。
結果としての作品は、岡本綺堂の原作の簡潔でリズムがよく緊張感にも事欠かない言葉を、日本語の平べったい抑揚そのままの音楽に変換する試みとなり、日本語による創作オペラの一つのアイディアだと思った。西洋流のメロディーラインに日本語を乗せるときの気恥ずかしさがない反面、正直にいうと、とくに第1場では単調さを感じた。
演出は歌舞伎の重鎮の坂田藤十郎さん。舞台美術から歌手の動作まで、すべてが歌舞伎をみているように美しかった。頼家の村上敏明さん、夜叉王の黒田博さん、かつらの小濱妙美さん、その他のどの歌手の所作もさまになっていて、日本人のDNAを感じた。
ただ、これなら歌舞伎をみたほうが良いかと思ったことも事実。
「修禅寺物語」はマチネー公演だったので、その夜はバレエ「コッペリア」をみた。新国立劇場の中ではしごをするのは初めての経験。
ローラン・プティの振付はどこをとっても小粋。たとえば第2幕冒頭で村の娘スワニルダ(タマラ・ロホ)とその友人たちが謎の紳士コッペリウス(ルイジ・ボニーノ)の部屋にしのびこむ場面で、スワニルダと友人たちの足がガタガタ震える。こんな小さな場面でも、思わず微笑んでしまう振付。そして、娘たちを追いだしたコッペリウスが、人形を相手にダンスを踊る場面――この振付でもっとも有名な場面だが、私はそのエロティシズムにドキッとした。
第3幕のディヴェルティスマンは大幅にカットされていた。バレエ好きのかたにはどうだったかわからないが、バレエにもドラマを求める私のような人間には、このカットは納得のいくものだった。
「コッペリア」をみながら、ここには「修禅寺物語」にはなかった音楽の楽しさと、人生の味わいがあると感じた。
(2009.06.28.新国立劇場中劇場&大劇場)
私は「修禅寺物語」をみるのは初めて。プログラムの解説で片山杜秀さんが書いているように、このオペラがドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」を参考にしていることはよくわかった。既存の戯曲にそのまま作曲している点もそうだが、さらに根本的には「フランス語(引用者注:「修禅寺物語」の場合は日本語)の微妙な響きと抑揚を活かし、語りと歌のちょうど中間を狙っている」点も――。
結果としての作品は、岡本綺堂の原作の簡潔でリズムがよく緊張感にも事欠かない言葉を、日本語の平べったい抑揚そのままの音楽に変換する試みとなり、日本語による創作オペラの一つのアイディアだと思った。西洋流のメロディーラインに日本語を乗せるときの気恥ずかしさがない反面、正直にいうと、とくに第1場では単調さを感じた。
演出は歌舞伎の重鎮の坂田藤十郎さん。舞台美術から歌手の動作まで、すべてが歌舞伎をみているように美しかった。頼家の村上敏明さん、夜叉王の黒田博さん、かつらの小濱妙美さん、その他のどの歌手の所作もさまになっていて、日本人のDNAを感じた。
ただ、これなら歌舞伎をみたほうが良いかと思ったことも事実。
「修禅寺物語」はマチネー公演だったので、その夜はバレエ「コッペリア」をみた。新国立劇場の中ではしごをするのは初めての経験。
ローラン・プティの振付はどこをとっても小粋。たとえば第2幕冒頭で村の娘スワニルダ(タマラ・ロホ)とその友人たちが謎の紳士コッペリウス(ルイジ・ボニーノ)の部屋にしのびこむ場面で、スワニルダと友人たちの足がガタガタ震える。こんな小さな場面でも、思わず微笑んでしまう振付。そして、娘たちを追いだしたコッペリウスが、人形を相手にダンスを踊る場面――この振付でもっとも有名な場面だが、私はそのエロティシズムにドキッとした。
第3幕のディヴェルティスマンは大幅にカットされていた。バレエ好きのかたにはどうだったかわからないが、バレエにもドラマを求める私のような人間には、このカットは納得のいくものだった。
「コッペリア」をみながら、ここには「修禅寺物語」にはなかった音楽の楽しさと、人生の味わいがあると感じた。
(2009.06.28.新国立劇場中劇場&大劇場)