Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

長崎県美術館

2017年11月30日 | 美術
 先日、博多に出張したので、本来は日帰り出張だったが、翌日から休暇を取って長崎に足を伸ばした。一泊したので、今まで訪れたことのない出島や眼鏡橋などの観光名所を訪れることができた。

 長崎県美術館にも行った。同美術館は初めて。今はインターネットで予備知識を得ることができる時代だが、あえてそうしないで、白紙の状態で出かけてみた。

 一番衝撃的だったのは、池野清(1914‐1960)という画家との出会い。まったく未知の画家だったが、「樹骨」と「木立」という2点の作品の前に立つと、思わず惹きこまれた。いずれも117㎝×91㎝ほどの縦長の作品。全体に淡い灰色のモノトーンの中で、「樹骨」では3本の枯れ木が、「木立」では2本の葉を落しかけた木が描かれている。どちらの作品も樹木が灰色の色調に埋もれていくようだ。具象的な絵ではなく、抽象化が進んでいる絵。静謐な世界。(※)

 それらの2点は、池野清の遺作だそうだ。同美術館の所蔵品データベースによると、「題名をつけられることのないまま2点の作品が自宅に残されていたが、弟で画家の池野厳により「樹骨」「木立」と名付けられ、(以下略)」とある。

 同データベースによると、「池野は、原爆投下直後に爆心地付近に入り、友人らの捜索に当たったことから、戦後、被爆の後遺障害に苦しみ、また死の恐怖と向き合いながら活動を続けていた。」。池野の友人だった作家の佐多稲子は、その死を知って、短編「色のない画」を書き、後年、さらに展開させて長編「樹影」を書いた。これも何かの縁なので、一度読んでみたいと思った。

 また、同美術館には鴨居玲(1928‐1985)の一室があるのが意外だった。鴨居玲は金沢出身のイメージが強く、石川県立美術館にまとまったコレクションがあるが、鴨居玲の父親は長崎県出身で、鴨居玲の本籍も長崎県にあったため、長崎県ゆかりの画家の一人と数えているそうだ。

 同美術館の所蔵品では、スペインのラ・マンチャ地方に滞在中の作品に力作が多い。酔っ払い、物乞い、廃兵といった社会の底辺にいる人々を描いた作品。力強い筆致が踊っている。そこには鴨居自身の姿も重ねられているのだろうか。

 同美術館の特色の一つは、15世紀から現代までのスペイン美術のコレクション。興味深い作品、惹かれる作品があったが、疲れてきたので、じっくり見ることができなかった。
(2017.11.28.長崎県美術館)

(※)池野清の作品の画像(同美術館のHP)
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「シャガール 三次元の世界」展

2017年11月27日 | 美術
 先日、元の職場の友人たちと飲み会があった。スタート時間が遅かったので、それまでの空き時間で「シャガール 三次元の世界」展に行った。金曜日の夜間開館の時間帯だったが、予想外に人が多かった。シャガール人気の故か。

 シャガール(1887-1985)は長命だったが、その長い画業の中で、1950年頃から陶器や彫刻なども手がけるようになった。本展は初期から晩年までの油彩画、版画などとともに、それらの陶器と彫刻を展示したもの。シャガールの全体像を知るためには必見の展覧会と思っていたので、行けてよかった。

 わたしは、陶器はよく分からないので、彫刻のほうが面白かった。素材は大理石やブロンズの他、(わたしには未知の)ロニュの石というものも使われていた。プロヴァンスの一都市ロニュで採掘された石。淡い茶褐色の色を持ち、微細な化石を含むザラザラした粗い質感。

 そのロニュの石を使った彫刻が4点展示されていた。どれも1951~1954年の作品。その頃シャガールがロニュの石を入手したという事情でもあったのか。モーゼ、キリストという宗教的なテーマと、恋人たち、風景という世俗的なテーマとがあったが、わたしは独特のザラザラした質感から、宗教的なテーマの作品に惹かれた。

 一方、大理石やブロンズを使った作品は、制作年代が1950年代初めから1980年代初めまで広範囲に渡っていた。わたしは、雪のように白く、きらきら光る微細な成分が浮く大理石の作品に、惹かれるものが多かった。

 一例をあげると、旧約聖書からテーマをとった「ヤコブの梯子」(1973年)。縦長の直方体の素材に、下からヤコブ、ヤコブの肩から上方に伸びる梯子、その梯子の上に2人の天使、左右の側面に各1人の天使が彫られている。油彩画にはない凝縮した造形。大理石に刻まれた鑿の跡が生々しく、力強い。

 それらの彫刻、陶器、油彩画、版画などに囲まれていると、たっぷりシャガールの世界に浸った気分になった。またニースにある国立マルク・シャガール美術館から来た彫刻5点に接することができたことも、得難い機会だった。

 わたしは今年5月にドイツのマインツに行ったとき、シャガールのステンドグラスがある聖シュテファン寺院を訪れ、想像を超える美しさに時間がたつのを忘れた。そして本展。わたしの中でシャガールの世界が広がりつつあるのを感じる。
(2017.11.24.東京ステーションギャラリー)
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椿姫

2017年11月24日 | 音楽
 新国立劇場が制作し、2015年5月にプレミエを出した「椿姫」は、古色蒼然とした保守的なプロダクションが多い同劇場としては、例外的に現代的なプロダクションだった。今それが再演されているので、2度目になるが、観にいった。

 やはりすばらしいプロダクションだ。ヨーロッパの主要劇場でも通用する。東京は世界の主要都市の一つなので、本来そこの国立劇場が制作するものは、すべて世界に通用するものであってほしいが、なかなかそうはならないので、この「椿姫」は貴重だ。

 第1幕と第2幕では、床面と舞台下手側の壁面とが鏡面になっていて、それらによるシルエットの乱反射が、複雑で、目眩を起こしそうな非現実感を生み出す。ところが第2幕のフィナーレでアルフレードがヴィオレッタに札束を投げつけると、壁面が後ろに倒れて、真っ暗な空間が現出し、そこに雪のように無数の紙幣が舞う。

 特筆すべきは第3幕。ヴィオレッタ以外の登場人物はすべて紗幕のカーテンの向こうにいる。ヴィオレッタに触れることはできない。臨終を迎えたヴィオレッタがアルフレードに渡そうとする肖像画の入ったペンダント(当演出では白い椿)は、ついにアルフレードの手に渡ることなく、ヴィオレッタの手からこぼれ落ちる。だれにも理解されなかったヴィオレッタの人生が終わる。

 全体はデュマ・フィスの原作のモデルになった高級娼婦マリー・デュプレシ(1824‐1847)への追悼がコンセプト。第1幕への前奏曲が始まると、デュプレシの墓碑銘(パリのモンマルトルの墓地にある)が投影される。また全幕を通してデュプレシを象徴する「19世紀半ばに使われていた実際のピアノ」(ヴァンサン・ブサールの演出ノート)が登場する。デュプレシを通して、現代の女性へ(そして男性へも)男性社会の中で生きる道を問いかける。

 ヴィオレッタを歌ったのはイリーナ・ルング。ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場その他で同役を歌っているだけあって、切れ味のよい歌唱。アルフレード役のアントニオ・ポーリは2015年のプレミエのときも出演した歌手。安定している。ジェルモン役のジョヴァンニ・メオーニも堅実。

 指揮のリッカルド・フリッツァは久しぶりの登場。東京フィルから神経の行き届いた、繊細で、しなやかな演奏を引き出した。今回の公演の功労者の一人。しばらく見ないうちに少し太って、貫禄がついてきた。
(2017.11.23.新国立劇場)
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カンブルラン/読響「アッシジの聖フランチェスコ」

2017年11月20日 | 音楽
 メシアンのオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」は、かつてわたしが「一度観てみたい」と思っていた念願のオペラだった。2011年7月にその念願が叶った。ミュンヘンのバイエルン州立歌劇場で上演されたので観にいった。指揮はケント・ナガノ。

 だが、これは、かなりえぐい上演だった。演出その他一切を担当したヘルマン・ニッチュは、現代美術(というか、パフォーマンス)の世界では著名な人のようだが、そのニッチュが舞台上で受難劇を繰り広げた。その受難劇が刺激的でグロテスクだった。そのため肝心の音楽が疎かになった。

 それに比べると、今回の演奏会形式上演のなんと美しかったことか。バイエルン州立歌劇場での上演がそのような演出であったことを割り引いても、演奏は今回のほうが精緻で完璧だった。カンブルランが時間をかけてオーケストラを整えたことが明瞭に伝わってきた。

 明るく、艶があり、暖かい音は、カンブルランの美質だが、その音が終始一貫して鳴り渡り、またリズムが鋭く研ぎ澄まされていた。結果、透明で濁りのない音の世界が展開し、けっして崩れなかった。カンブルランが2010年4月に読響の常任指揮者に就任して以来7年余り、その達成のなんという高みか。

 聖フランチェスコを歌ったヴァンサン・ル・テクシエは、たとえば(同役を創唱した)ホセ・ファン・ダムのような美声はないが、滋味のある歌唱だった。そして何よりも、長大なこのオペラ(第1幕約75分+第2幕約120分+第3幕約65分=合計約260分)のほとんどの場面で出番のある同役を歌いきったことに感服。

 天使の役を歌ったエメーケ・バラートは、嬉しい発見だった。明るく澄んだ声(バロックオペラ畑の人らしい)が同役のイメージにぴったり。前述のバイエルン州立歌劇場の上演ではクリスティーネ・シェーファーが歌い、同上演での一服の清涼剤のような印象だったが、今回のバラートには若い人の持つ声の暖かさがあった。

 合唱は新国立劇場合唱団とびわ湖ホール声楽アンサンブル。ほとんど聴こえないくらいの最弱音のハミングから最強音の大合唱まで、よくコントロールされていた。

 3台のオンド・マルトノは、ステージ後方のPブロック背後に1台、客席左右のLBブロック背後とRBブロック背後に各1台が配置されたので、それらの音の動きが聴き取りやすくて効果的だった。
(2017.11.19.サントリーホール)
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ソヒエフ/N響

2017年11月19日 | 音楽
 トゥガン・ソヒエフがN響を振るのは今回で5度目だそうだ。わたしも何度か聴き、その都度感心した。1977年生まれなので、まだ40歳の若さだが、落ち着いた物腰なので、とてもそんな若さには見えない。大物の風貌をすでに備えている。

 今回はBプロとCプロを振るが、そのうちCプロを聴いた。曲目はプロコフィエフのオラトリオ「イワン雷帝」(スタセヴィチ編)。この曲は2006年9月にデプリースト指揮の都響で初めて聴いて、感銘を受けた。あのときもスタセヴィチの編曲版だった。中田朱美氏のプログラム・ノートによると、アトヴミャーン(ショスタコーヴィチの評伝などに出てくる名前だ)の編曲版もあるそうだが、さて、どんな編曲か。

 演奏は大変見事なものだった。堂々として重心が低く、かつヴィヴィッドな感性にも欠けず、N響の実力が発揮された演奏。N響も優秀だが、N響からそのような演奏を引き出したソヒエフもたいしたもの。

 本作は全20曲が連続して演奏されるが、たとえば第7曲「聖愚者」はプロコフィエフの諧謔味がよく出た曲で、その味がまったく危なげなく演奏された。また第20曲「終曲」では壮大な音が鳴った。ソヒエフは現在モスクワのボリショイ劇場の音楽監督兼首席指揮者を務めているが、そのオペラ演奏はかくあらんと想像された。

 独唱者の2名は、メゾ・ソプラノのスヴェトラーナ・シーロヴァが深い声を持ち、いかにもロシアといった歌唱。バリトンのアンドレイ・キマチも、出番は少ないが、しっかり歌っていた。2人ともボリショイ劇場の歌手。

 合唱は東京混声合唱団と東京少年少女合唱隊。ともに大編成だったので、(東京少年少女合唱隊のことは分からないが)東京混声合唱団は大分増員されていたと思う。だが、しっかり歌っていたので、問題を感じなかった。

 本作では語りが重要な役割を果たすが、それは歌舞伎役者の片岡愛之助が務めた。いくつかの声音を使い分け、また歌舞伎の見えを切るような台詞回しを取り入れて、熱演だったが、言葉のすべてが聞き取れたわけではなかったことも事実。それは語りの問題というよりも、台本作成上の難しさのように感じられた。

 語りの台本では、印象的な言葉をどのようなタイミングで入れるかは、想像以上に難しいと思った。全体的に言葉が多すぎると、言葉が埋もれてしまうし、また流れがよくないと、言葉が理解しづらい。
(2017.11.18.NHKホール)
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インキネン/日本フィル

2017年11月18日 | 音楽
 インキネン/日本フィルの1曲目はラウタヴァーラRautavaara(1928-2016)の遺作(といってよいのかどうか‥、亡くなる前年の作品)「In the Beginning」。日本フィル他3団体の共同委嘱。

 7分程度の短い曲だが、湧き上がる雲海のような音型は、ラウタヴァーラ晩年の様式が刻印され、また中間部の美しい弦の旋律は、シベリウスの伝統が今も生きていることを感じさせる。

 2014年のサントリー芸術財団サマーフェスティヴァルで特集されたフランスの作曲家パスカル・デュサパンが、影響を受けた過去の作品として、シベリウスの交響詩「タピオラ」を選んだことが印象に残っている。シベリウスは、20世紀モダニズムの時代には、古臭い音楽として作曲の最前線から等閑視されていたように思うが、21世紀の今になって、デュサパンに限らず、シベリウスへの好みを表明する作曲家が出てきたようだ。

 今回のラウタヴァーラの曲では、前述したように、シベリウスの伝統が今も生きていることが感じられ、それは2人が同国人だからか、あるいは他国でも(たとえばデュサパンのように)同様の例があるのかと、思いをめぐらした。

 シベリウスの伝統というと、日本フィルもそうだ。いうまでもなく日本フィルには渡邉暁雄が築いたシベリウス演奏の伝統がある。それは日本フィルのDNAのようになって今も残っている。ラウタヴァーラの本作にはそのDNAに触れるものを感じた。

 だが、これは言わざるを得ないが、広瀬大介氏のプログラム・ノートに「呼吸のような緩急を繰り返しながら最強音へと達し、突然の終わりを迎える」と書かれている終結部分は、唐突に感じられた。なにかを断ち切るような終わり方。わたしの知る限りでは、ラウタヴァーラの作品は(とくに2000年前後からの晩年の作品では)余韻をもって終わる曲が多いので、本作の終わり方は異様に感じられた。

 2曲目はブルックナーの交響曲第5番。第7番、第8番と続いたインキネン/日本フィルのブルックナーは、明瞭な個性を獲得している。それは軽やかな音、華やぎのある音色、クリアな音像、シャープな造形、演奏が進むにつれて力感が増す(往年のドイツ系指揮者のような)演奏スタイルなどだ。

 それらは第5番にも表れ、個性の確立を感じさせたが、今回は最強音における金管の音の濁りが気になった。
(2017.11.17.サントリーホール)
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吉村昭「戦艦武蔵」

2017年11月16日 | 読書
 大学時代の友人と始めた読書会の2回目を12月に予定している。そのテーマとしてわたしが提案した3作品のうち、友人が1作品を選んだ。残りの2作品は、わたしも未読の作品だったので、よい機会だから読んでみた。まずヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」を読み、その感想を書いた。もう一つは吉村昭の「戦艦武蔵」。

 テーマの候補として本作を選んだのは、昨年、吉村昭の短編集「空白の戦記」を読み、感銘を受けたから。そこに収められた6篇の短編小説は、どれも太平洋戦争の(歴史の表舞台には登場しない)隠れたエピソードを語るものだった。戦争を生きた(あるいは戦争で命を落した)名もない人々の人生が描かれていた。

 わたしは引き続きいくつかの小説を読んでみた。戦記物だけではなく、現代物も面白かった。なにが面白かったかというと、吉村昭の文体だ。感情を露わにすることなく、抑えた文体。事実を淡々と語る文体。曖昧さがない文体。それはわたしが求める文体の一つだった。

 少しずつ吉村昭の小説世界を知ったわたしは、その出世作となった長編小説「戦艦武蔵」を読みたくなった。文庫本で約300頁の作品。そのうちの約220頁は、戦艦武蔵の建造の過程が描かれていた(同艦は三菱重工の長崎造船所で建造された)。残りの約80頁は、同艦が海軍へ引き渡された後に、同艦がたどった運命が描かれていた。

 そのため、全体の7割強を占める前半部分は、戦場場面ではない。造船所で前代未聞の巨艦を建造する技術者たちの叡智の戦い。もちろん背景には戦争の色濃い影があるのだが、技術者たちの苦闘そのものは、一大プロジェクトに挑む人々のドラマだ。

 残りの3割弱を占める後半部分は、同艦の引渡しを受けた海軍が、同艦をトラック諸島の基地に停泊させ、米海軍との決戦を待つ日々が描かれている。

 決戦の日は訪れたのか。戦艦武蔵の最期はどうだったのか。それを書くことは控えるが、なんともむなしい運命をたどったことに、戦争の実相を感じる。

 本作は反戦小説ではない。また戦争賛美の小説でもない。事実を淡々と書いたリアリストの小説。だからこそ、というべきか、1966年の刊行後、すでに50年余りたっているが、少しも古びていない。

 本作を読んでなにを感じるかは、読者に委ねられている。作者はけっして誘導しない。読者と作者とのあいだには、節度ある一線が引かれている。そこに吉村昭の品格を感じる。
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ヤノフスキ/N響

2017年11月13日 | 音楽
 ヤノフスキとN響とはワーグナーの「リング」4部作の上演ですっかり信頼関係を築いたようで、それが如実に感じられる演奏だった。プログラムはヒンデミット2曲とベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。演奏順とは逆になるが、両者の今が感じられる「英雄」から先に感想を記したい。

 弦は16型(16-14-12-10-8)、木管は倍管(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット各4)、ホルン3、トランペット2そしてティンパニ1対。木管は倍管だが、それによって木管が強調されるわけではなく、16型の弦に合わせたバランスの補強にとどまる。興味深かった点は、ティンパニの音を抑えていたこと。名手、植松氏がティンパニに入ったが、普段は打音が強い植松氏が、この日は極力音を抑えていた。

 で、オーケストラの音はどうなるかというと、弦主体の音になった。ずっしりと厚みのある、だがけっして重くはなく、ニュアンス豊かな弦の音が、オーケストラの前面に立った。比喩的にいえば、尖った音ではなく、丸い音だが、たんに丸いだけではなく、弱音が徹底的にコントロールされていた。

 往年の巨匠を想わせる演奏。でも、だれかに似ているかというと、ちょっと思いつかない。現代に生きる巨匠。N響の歴史から考えると、サヴァリッシュやシュタインの系譜につながる可能性があるが、三者三様の面もある。ヤノフスキの台頭はN響にとって重要な意味を持つかもしれない。

 平末広氏執筆のプロフィールによると、ヤノフスキはベートーヴェンの交響曲全曲録音を「構想中」とのこと。仮に実現するとして、オーケストラはどこになるのだろう。長年芸術監督を務めてきたベルリン放送交響楽団は2016年に退任しているが‥。

 ともかく、現代においては希少価値があり、また、だれか受け継ぐ人がいるかどうか、見当がつきにくい芸風なので、ぜひとも実現してほしいもの。

 話を戻して、前半のヒンデミットだが、曲目は「ウェーバーの主題による交響的変容」と「木管楽器とハープと管弦楽のための協奏曲」(独奏はN響の首席奏者たち)。前者では、とくに刺激的な表現ではないのに、作曲者が仕組んだ奇妙でシニカルなパッセージが浮き上がった。

 後者はヤノフスキ自身「演奏するのは初めて」とのこと。妙に明るい曲。演奏する側は面白いかもしれない。
(2017.11.12.NHKホール)
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リントゥ/都響

2017年11月09日 | 音楽
 ハンヌ・リントゥが指揮する都響のシベリウスの「クレルヴォ交響曲」は、劇的かつ雄渾な演奏。期待どおりの名演になった。リントゥの逞しい音楽性と、シベリウス初期の民族的な作風とがよくかみ合っていた。

 第1楽章の出だしは、オーケストラの音がまとまらなかったが、徐々に持ち直し、弦の音に厚みが出た。第2楽章では安定し、第3楽章以下は荒波が押し寄せるような奔放な演奏が繰り広げられた。なお、これはわたしの側の問題だが、久しぶりに聴く東京文化会館のデッドな音響に慣れるまでに時間がかかった。

 全5楽章のうち第3楽章と第5楽章には合唱が入るが、合唱はヘルシンキ工科大学の学生と卒業生とで構成するポリテク男性合唱団。85名ほどの大編成だった。音楽の山場での音圧がすごいが、それ以上に、フィンランド語の語感の美しさが印象的だった。日本語と同じような母音中心の音。

 第3楽章には2人の独唱者も入るが、歌手はメゾソプラノのニーナ・ケイテルとバリトンのトゥオマス・プルシオというフィンランド人。とくにプルシオの(同楽章最後での)身を振り絞るような劇的な歌唱には目を見張った。

 全体として、オーケストラも合唱も独唱も、モチベーションの高さが際立っていた。この演奏会がフィンランド独立100周年記念と位置付けられていることがその一因だったと思う。民族の血とか魂とか、そういう一般的な言葉では片付けられない、なにか特別な要素が感じられた。

 珍しいことだが、アンコールが予告されていた。シベリウスの交響詩「フィンランディア」。すっかり聴き慣れたこの曲が、「クレルヴォ交響曲」の後だと(しかもフィンランド独立100周年という文脈だと)、ものすごく新鮮に聴こえた。熱い、真摯な心情が迸り、名曲コンサートのときとは違って聴こえた。

 「フィンランディア」は合唱付で演奏された。フィンランド語の語感が澄んだ空気のように美しかった。

 余談だが、「クレルヴォ交響曲」は第3楽章を中心としたアーチ型の構成になっていると考えられるが、そこにはマーラーの影響があるのだろうか。時期的にはマーラーの交響曲第1番の初稿(ブダペスト版。「花の章」をふくむ全5楽章)の初演があった頃の作品だが。それとも、偶発的な、一回限りの類似性だろうか。
(2017.11.8.東京文化会館)
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プライムたちの夜

2017年11月08日 | 演劇
 新国立劇場の演劇公演「プライムたちの夜」の初日が明けた。作者のジョーダン・ハリソンは1977年生まれのアメリカ人。本作は2014年にロサンジェルスで初演。その後ニューヨークでも上演され、映画化もされた。

 プライムとは人工知能をもつロボットのことのようだが、この定義で正しいかどうか、自信がない。人工知能とかロボットとか、公演プロモーションで使われているアンドロイドとかいう言葉にはまったく疎いので、公演を観てとりあえずそう思ったという程度の定義。

 そのプライムに亡き夫ウォルターの情報をインプットし、昔話を楽しむ85歳のマージョリー、その娘テスと夫のジョン、以上の4人(ウォルターのプライムも1人とカウントする)が登場人物。時は2062年(作者の生年1977年+マージョリーの年齢85歳=2062年)の近未来劇。

 なんといっても、マージョリーを演じる浅丘ルリ子が注目の的。美しくもあり、可愛くもあり、また大女優の風格も漂う。認知症の兆しが見える母マージョリーに苛立つテスを演じる香寿たつき(こうじゅ・たつき)は、その苛立ちが今一つ分かりにくいが、それは台本のせいかもしれない。

 テスの夫ジョンを演じる相島一之(あいじま・かずゆき)は、人のよさを醸し出して味のある好演。ウォルターのプライムを演じる佐川和正(さがわ・かずまさ)は、マージョリーと会話をしているが、じつは人間ではない存在を演じて絶妙。本物のプライムのように見えた。

 プライムが家族の一員になった生活は、正直、気味が悪いが、その気味の悪さをきちんと滲ませた宮田慶子の演出もよかったと思う。

 というわけで、面白かったのだが、不満がなかったわけでもない。プライムが家庭の中に入ってくるという設定は興味深いが、だからこそ、もっとストーリーに発展の余地があったのではないかと想像され、(具体的な台詞の引用は控えるが)人を愛することを称える結末は、陳腐で平凡で、こじんまりと収まってしまった感がある。

 なお、テロリストが置かれた状況を描いた「負傷者16人―SIXTEEN WOUNDED―」から始まった海外の現代戯曲を紹介するシリーズは、本作で終了。全5作、どれも面白かった。また同様の企画を願いたい。
(2017.11.7.新国立劇場小劇場)
コメント (2)
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ヘルマン・ヘッセ「シッダールタ」

2017年11月05日 | 読書
 大学時代の友人と始めた読書会。9月に開いた第1回は楽しかった。テーマは三島由紀夫の「仮面の告白」。第2回は12月の予定。テーマはわたしが提案した3作品の中から友人が選んだ。友人が選ばなかった2作品は、未読の作品だったので、そのうちの一つを読んでみた。

 それはヘルマン・ヘッセの小説「シッダールタ」。シッダールタとは釈尊の出家以前の名前だが、本作はその名前を借りて、「悟りに達するまでの求道者の体験の奥義を探ろうとした」作品(新潮文庫の翻訳者、高橋健二の「解説」より)。

 巻頭に「インドの詩」と書かれている。たしかにAとBとが対立してドラマが起きるという意味での小説とは異なる。主人公シッダールタの目に映った世界。ドラマは起きるが、悪意とか姦計とか、そんな不純物とは一線を引いたところで起きるドラマ。

 文庫本で200頁足らずの短い作品の中に、シッダールタの生い立ちから悟りに達するまでの人生が凝縮されている。いかにもヘッセらしい深い思索が感じられる。

 わたしが一番ヘッセらしいと感じた場面は、シッダールタが仏陀と出会う場面。仏陀はすでに悟りに達し、多くの信者を集めている。それまでシッダールタと行動をともにしていた友人ゴーヴィンダも、仏陀のもとにとどまる。だがシッダールタは自らの道を歩む。そのときシッダールタは仏陀にいう。

 「あなたは死からの解脱を見いだしました。それはあなた自身の追究から、あなた自身の道において、思想によって、沈潜によって、認識によって、悟りによって得られました。教えによって得られたのではありません! それで、私もそう考えるのです。おお覚者よ――何ぴとにも解脱は教えによっては得られないと!」

 強烈な自我だと思う。その自我のためにシッダールタは苦難の道を歩む。そこにはヘッセ自身の人生が投影されている。ヘッセを読む意味はその自我の苦闘にある。

 シッダールタは回り道の人生の末に、川の渡し守と出会う。そのもとで生活を始める。川を見ていて、なにかを感じる。渡し守はいう。「川は至る所において、源泉において、河口において、滝において、渡し場において、早瀬において、海において、山において、至る所において同時に存在する。川にとっては現在だけが存在する。過去という影も、未来という影も存在しない」

 シッダールタは、時間にたいするこの観念を起点に、やがて驚くべき悟りに達する。
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近藤譲 七十歳の径路

2017年11月02日 | 音楽
 長年、わたしの主なフィールドは在京オーケストラだったので、近藤譲の音楽を聴く機会は、今まであまりなかった。自ら求めて現代音楽の演奏会に行けば、いくらでも聴けたとは思うが、少なくとも仕事が現役だった頃は、その時間も気力もなかった。

 だが、近藤譲の音楽は気になっていた。初めてその音楽に触れたのは、わたしが20代前半の頃。時流から距離を置き、時流にたいして批評を加えるような、シンプルで風変わりな音楽は、強烈な印象となってわたしの中に残った。また音楽誌に掲載された文章からも強い印象を受け、著書を1冊買ったりした。

 今回のコンサートはその音楽との、40年あまりの年月を隔てた再会だった。

 演奏された曲目は、1975年の「視覚リズム法」から2015年の「変奏曲(三脚巴)」(日本初演)までの計8曲の室内楽。1980年代の作品がなかったが、それは単なる偶然か。

 面白かったのは「視覚リズム法」。ピアノ独奏版もあるが、今回はオリジナルの室内アンサンブル版での演奏。チューバ、バンジョー、スチールドラム、電気ピアノそしてヴァイオリンという編成。明るく透明、どこか浮世離れした音がする。ユーモラスでもあり、また叙情もある。乾いた叙情というか、もし叙情という言葉が強すぎるなら、感性といってもよいが、乾いた感性が漂う。

 演奏曲目の一つに「空の空」(くうのくう)(2009)があった。近藤譲が執筆したそのプログラムノートには、次のようなくだりがあった。

 「実のところ、この曲に限らず私の作品は全て、目的をもっていない。つまりそれらは、作曲や演奏の技術練習のためではないし、自己表現のためでもなく、感情表現のためでもなく、物語を語るためでもなく、抽象的な音構成体としての形式の実現のためでもなく、又それ以外の何かの目的のためでもなく、更に言えば、無目的ということが目的になっているわけでもない。」。

 そして、最後にこういう。「その意味では、この作品は(私の他の作品と同様に)、結果として、私自身にとっての、そして同時にそれに耳を傾ける全ての聴き手にとっての、「聴くこと」のエチュードだと言ってよいのかもしれない。」。

 近藤譲の音楽を語る言葉として、「聴くこと」のエチュードというこの言葉は、感動的なほど分かりやすいと思った。
(2017.10.31.東京オペラシティ・リサイタルホール)
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