Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

アラン・ギルバート/都響

2018年12月11日 | 音楽
 思えばアラン・ギルバートの指揮はN響時代から聴いている。長い付き合いになったものだ。N響時代の演奏では、2002年に聴いたショスタコーヴィチの交響曲第4番と、2007年に聴いたマルティヌーの交響曲第4番が今でも記憶に鮮明だ。その後、2011年に都響を初めて振ったときのブラームス(ハイドン・ヴァリエーションと交響曲第1番)とベルク(ヴァイオリン協奏曲)にびっくり仰天して現在に至っている。

 そんなことを想い出したのは、アランと都響との関係が、2011年の驚愕の出会いから今は落ち着いてきて、お互いの立ち位置を定めようとしている――と、そんな感じがしたからだ。

 今回のプログラムはメンデルスゾーン、シューマンとストラヴィンスキー。アランは8シーズンにわたるニューヨーク・フィル音楽監督時代に、CONTACT!とNY PHIL BIENNIALという2つの現代音楽プロジェクトを立ち上げたそうだが、都響では(ジョン・アダムズの「シェヘラザード.2」を除いて)比較的保守的な路線をとっているようだ。

 1曲目はメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」。冒頭、弦の第1主題のハーモニーに耳慣れない音(あれはセカンド・ヴァイオリンだったか、ヴィオラだったか)が浮き上がった。その後も細かい伴奏音型が浮き上がることがあった。このような小技がきくところもアランらしい。

 2曲目はシューマンの交響曲第1番「春」。アランらしいと思った箇所は、第3楽章スケルツォの2つのトリオでの、激烈でダイナミックな表現だ。欧米のメジャー・オーケストラを常時振っている指揮者らしい破格のダイナミズムだと思った。全体的にも、春うららの演奏ではなく、ダイナミックな、テンションの高い演奏だった。

 以上2曲で印象的だったことは、オーボエの鷹栖さんの鄙びた音色だ。都響のオーボエの2人の首席奏者は、広田さんの蠱惑的な音色にたいして、鷹栖さんの鄙びた音色と対照的で、それによってオーケストラ全体の印象が変わる。

 3曲目はストラヴィンスキーの「春の祭典」。第1部のフィナーレの「大地の踊り」が熱狂的でスリル満点だった。全体的にいって、第1部のほうが第2部よりインパクトが強かった。

 以上3曲のどの曲でも、アランの指揮には一種の大衆性があった。それが受け入れられて、クラシック音楽愛好者が増えることを願いたい。
(2018.12.10.サントリーホール)
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ヘンゲルブロック/N響

2018年12月09日 | 音楽
 ヘンゲルブロックが初めて指揮したN響は、1曲目がバッハの「組曲第4番」。弦の8‐8‐6‐4-2の編成は、ヘンゲルブロックなら当然かもしれないが、その小ぶりな編成で、きびきびした、鋭角的な演奏が繰り広げられた。でも、それもヘンゲルブロックなら当然かもしれない。

 一方、その演奏に余裕のなさを感じたことには戸惑った。ヘンゲルブロックの演奏スタイルを楽しむ様子が、N響には感じられなかった。同じくピリオド・スタイルの演奏ではあるが、あのノリントンのユニークなスタイルをこなしていたN響なのに、といぶかった。

 2曲目はバッハの「前奏曲とフーガ「聖アン」」をシェーンベルクが大編成のオーケストラ用に編曲したもの。期待の演奏だったが、これにも余裕のなさがつきまとった。神経質な色合いはシェーンベルク特有のものだと思うが、その神経質な色合いをふくめて、この作品を楽しむ様子がN響には窺えなかった。

 プログラムにこの曲が入ったのはなぜだろうと思った。わたしの勘では、ヘンゲルブロックの希望ではないのではないか、と‥。N響のホームページに掲載されている企画担当者のコメントを読むと、「古楽・モダンの両分野で活躍するマエストロの個性を最大限に活かすこと」がプログラム編成の方針の一つにあげられているので、その方針とバッハとを結びつけたのかもしれないが、それよりむしろ、たとえばシェーンベルクのオリジナル曲のほうがよかったのではないかと思った。

 3曲目はバルタザール・ノイマン合唱団が加わってバッハの「マニフィカト」。これはすばらしかった。同合唱団を聴くのは初めてだが(初来日)、ヘンゲルブロックの演奏スタイルを熟知し、その表現に一部の隙もなかった。

 わたしは初めてヘンゲルブロックの何たるかに触れた思いがした。それは、先ほど例に引いたノリントンとの比較でいうと、ノリントンのお茶目なユーモアとは正反対に、真面目で、ぬくもりがあり、ドイツの精神風土に根ざしたものだった。

 同合唱団では第6曲と第9曲のアルトのソロ・パートをカウンターテナーが歌った。その歌手の声と表現がすばらしかった。

 アンコールにバッハの「クリスマス・オラトリオ」から第59曲が演奏された。ドイツ語の曲になると(「マニフィカト」はラテン語)、同合唱団の味がさらによく出た。さらにもう一曲、15世紀のフランスの曲が演奏された。
(2018.12.8.NHKホール)
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沼尻竜典/日本フィル

2018年12月08日 | 音楽
 久しぶりに日本フィルの指揮台に戻ってきた沼尻竜典が振る定期。1曲目はベルクの「歌劇《ヴォツェック》より3つの断章」。冒頭で弦の透明な、沈潜したようなハーモニーが聴こえてきたとき、その音はいつもの日本フィルとは違うと思った。その音はその後も崩れなかった。

 そこには沼尻竜典の(後述するような)成長した姿があった。同時に、ラザレフ、インキネンによってアンサンブルが鍛えられた日本フィルの姿もあった。そしてもう一つ、ゲスト・コンサートマスターの白井圭の効果もあったかもしれない。

 ソプラノ独唱のエディット・ハラーの、呟くような、ドラマ性をはらんだ弱音から、ホールを揺るがす、朗々と響く大音量までの声のコントロールは、さすがにウィーンやミュンヘンの大歌劇場で活躍する第一線の歌手だけあると思われ、圧倒的だった。

 オーケストラの美しさと歌手の力量とが相俟って、ベルクのオペラがステージ上に見事に現出した。最近はオペラの演奏会形式上演が盛んだが、ベルクのオペラこそふさわしいと思った。言い換えると、演奏会形式でその音楽に浸りたいと思わせるものが、ベルクのオペラにはあると思った。

 「断章」はベルク自身によって編まれた。オペラを作曲したものの、上演のあてがなかったベルクが、いわばプロモーション用に編んだ。オペラの中から兵士ヴォツェックの内縁の妻マリーが登場する場面を中心に編んでいる。オペラの中でも抒情的な場面が選ばれている。その選択の巧みさゆえだろう、意外なくらい新鮮に感じた。

 2曲目はマーラーの交響曲第1番「巨人」。これも名演だった。名演という一般的な言い方より、いつもの日本フィルとは一味違う演奏といった方がいいかもしれない。精緻なテクスチュアが、淀みなく、流麗に流れる演奏。ホルンの1番奏者などに小さなミスがあったが、それも音楽の流れに浮かぶ塵のようなものにすぎなかった。

 沼尻竜典は成長したと思う。淀みのない音楽の流れは、デビュー以来のものだが(わたしは昔、新星日本交響楽団の定期会員だったので、沼尻竜典が1993年に同団の正指揮者になって以来、もう25年も聴いていることになる)、音楽の流れは磨かれ、またリスクを取った表現の積極性が目覚ましくなった。

 オーケストラ全体が沼尻竜典の流れに乗る中で、オーボエ首席奏者の杉原由希子の濃厚な表現が異彩を放ち、存在感があった。
(2018.12.7.サントリーホール)
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ヴェデルニコフ/N響

2018年12月03日 | 音楽
 N響の12月の定期は、デユトワの来日が中止になったので、代わりにヴェデルニコフ、フェドセーエフ、ヘンゲルブロックが登場する。とくにヘンゲルブロックは、瓢箪から駒が出たようなもので、期待がつのる。ヘンゲルブロックの演奏会は今週末にあるが、その前にヴェデルニコフの演奏会があった。

 曲目はオール・ロシア・プロ。1曲目はスヴィリドフ(1915‐1998)の組曲「吹雪」。元はプーシキンの原作に基づく映画のための音楽だが、それを演奏会用組曲に編曲したもの。そのためか、たいへんわかりやすい。明快でロシア情緒に浸ることができる。とくに第4曲(全体は9曲で構成)は、情感豊かな旋律が何度も繰り返され、そこにオブリガート旋律が絡まって、どこか懐かしい感じがする。

 驚いたのは第6曲「軍隊行進曲」。弦楽器はお休みで、木管、金管と打楽器だけで演奏される。まさにN響ウインドアンサンブルだ。それはもう見事なもの。中学・高校と吹奏楽に明け暮れたわたしの昔日の血が騒いだ。

 2曲目はスクリャービンのピアノ協奏曲。ピアノ独奏はアンドレイ・コロベイニコフ。いうまでもないが、ショパンの影響が濃厚な曲。後年の異端的な面影は微塵もない。そんな曲を楽しむには、演奏が重すぎた。遊びがなくて息苦しい。それは主にピアノの演奏に由来するが、オーケストラもなす術がなかった。

 アンコールにスクリャービンの練習曲集作品42から第5曲嬰ハ短調が演奏された。わたしはこの方がおもしろかった。左手が轟々と鍵盤をたたき、右手も負けていない。ピアノから猛烈なエネルギーが巻き起こった。

 3曲目はグラズノフの交響曲第7番「田園」。これはおもしろかった。高橋健一郎氏のプログラム・ノーツで指摘されているが、第1楽章はたしかにベートーヴェンの「田園」交響曲を思い起こさせる。そのパロディーというより、真面目な再構成(パラフレーズ)という感じがする。第2楽章以下はグラズノフの音楽が展開する。

 ヴェデルニコフの指揮は、今まで何度か聴いたことがあるが、この曲は名演の一つだ。N響をバランスよく鳴らし、全体的に安定感がある。音がベタッとせずに弾みがある。ヴェデルニコフは主情的な表現をするタイプではないので、そんな音楽性がグラズノフの音楽によく合っているようだ。

 ヴェデルニコフの音楽性にはネーメ・ヤルヴィと似たところがあるのではないかと思う。
(2018.12.2.NHKホール)
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「作曲家の個展Ⅱ」金子仁美×斉木由美

2018年12月01日 | 音楽
 今年の「作曲家の個展Ⅱ」は金子仁美(1965‐)と斉木由美(1964‐)。二人は同世代で、フランス留学の時期も重なっている。そんな二人が「お茶をしながら」練った企画テーマは「愛の歌」。一見して甘いテーマに見えるが、もちろんそんなことはなくて、「愛の歌」はスペクトル楽派のジェラール・グリゼイ(1946‐1998)の曲名から取られている。金子はグリゼイに師事し、斉木も管弦楽法を学んだ。

 プログラムは前半が金子と斉木の旧作を1曲ずつ、後半が新作を1曲ずつ。演奏順とは前後するが、まず金子の作品から記すと、旧作はピアノとオーケストラのための「レクイエム」(2013)。東日本大震災のとき金子はパリにいたが、多くの人が心配してくれる中で、本作を書いた。

 演奏時間は20分くらいだったろうか(不確か)、その中で入祭唱→キリエ→怒りの日→ラクリモサ→サンクトゥス→ベネディクトゥス→アニュスデイ→ルクスエテルナ→リベラメ→インパラディスムが展開する。

 新作は「分子の饗宴」。プロローグ→基本味(酸味、塩味、旨味、苦味、甘味物質の分子構造)の提示→摂取(食事)→消化(体内での消化)→エピローグと続く。旧作、新作とも一つの推移が構想されているのは偶然だろうか。金子の作品を聴くのは今回が初めてなので、わからないが。

 演奏はピアノが野平一郎、オーケストラが沼尻竜典指揮の都響。作品を十分に消化して、鮮度の高い演奏を繰り広げた。最近の作曲家は幸せだ。初演のときから完成度の高い演奏で紹介される。

 一方、斉木の旧作は「アントモフォニーⅢ」(2003~4)。本作は2004年6月の読響定期で初演された(指揮はゲルト・アルブレヒト)。わたしはそれを聴いているが、今回再び聴いて、そのときの記憶が蘇った。じっと耳を澄ますと、さまざまな虫の音が聴こえてくる、という音の風景をオーケストラで表現した曲。

 新作は「The First Word/第一の言葉」。曲名はイエスの十字架上の7つの言葉の第一の言葉「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」に由来する。本作を契機に今後7つの言葉の連作に発展するのか、と期待される。

 楽音以外のノイズも交えた曲。曲想はシリアスで緊張感に富む。全体を通して、金子の音楽が理科系なのに対して、斉木の音楽は文科系で、その対照がおもしろかった。
(2018.11.30.サントリーホール)
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