フランシス・ベーコン展を観た。全33点、その全部が面白かった。予想以上の面白さだ。ベーコンのことはほとんど知らなかった。20世紀のもっとも重要な画家の一人といわれても、ピンとこなかった。だが、本展を観たら、その意味がわかった。わかった気がする。
ベーコンの面白さは実際に観ないとわからない、ということがよくわかった。画集ではその片鱗さえもわからない。実際に観た後で画集を観ると、初めてその面白さがわかる類のものだ。では、画集と実際ではなにがちがうのか。
まず、作品の大きさ。ベーコンの作品はかなり大きい。画集で想像していたよりも大きい。たとえば初期の「屈む裸体のための習作」(デトロイト美術館)は縦198.1センチメートル×横137.2センチメートル、最晩年の「三幅対(トリプティク)」(ニューヨーク近代美術館)は縦198.1センチメートル×横147.6センチメートル(このサイズの三枚一組で構成されている)。ほとんど同サイズだ。同サイズの作品を例に選んだわけではなく、このサイズの作品が生涯にわたって続いている。
もちろん画集にもサイズは明記されているが、迂闊なわたしはその認識がなかった。大きいだけではなんの意味もないが、それが空虚ではなく、モニュメンタルな存在感がある。
もう一つ、画集と実際のちがいは、作品の美しさだ。正直いって、画集で観ていたベーコンは気味が悪かった。肉の塊のようなものが投げ出されていて気持ちが悪い、というイメージがあった。だが、実際に観たら、気味の悪さは感じなかった。意外にも美しいと感じた。色彩の美しさ、感性の繊細さ、あるいは切羽詰まった精神の状態――そういったものが感じられた。
でも、ベーコンのなにが面白いかを言葉で説明することは難しい。技法で説明することも、○○主義といったイズムで説明することも難しい。そこになにが描かれているかを語っても意味がない。では、ベーコンのなにが面白いのか。
ベーコンの絵を観ていると、疑問が次々に出てくる。たとえばチラシ↑に使われている「ジョージ・ダイヤの三習作」(ルイジアナ美術館)の一枚では、鼻の脇の黒い穴はなにか、顔の左脇の半透明の茶色い影はなにか、服には彩色されていないが、それはなぜか、背景のピンク色はベーコン自身の象徴か(ダイヤは恋人だった)等々。ベーコンの面白さはこんなところにあるのだろうか。
(2013.3.28.東京国立近代美術館)
ベーコンの面白さは実際に観ないとわからない、ということがよくわかった。画集ではその片鱗さえもわからない。実際に観た後で画集を観ると、初めてその面白さがわかる類のものだ。では、画集と実際ではなにがちがうのか。
まず、作品の大きさ。ベーコンの作品はかなり大きい。画集で想像していたよりも大きい。たとえば初期の「屈む裸体のための習作」(デトロイト美術館)は縦198.1センチメートル×横137.2センチメートル、最晩年の「三幅対(トリプティク)」(ニューヨーク近代美術館)は縦198.1センチメートル×横147.6センチメートル(このサイズの三枚一組で構成されている)。ほとんど同サイズだ。同サイズの作品を例に選んだわけではなく、このサイズの作品が生涯にわたって続いている。
もちろん画集にもサイズは明記されているが、迂闊なわたしはその認識がなかった。大きいだけではなんの意味もないが、それが空虚ではなく、モニュメンタルな存在感がある。
もう一つ、画集と実際のちがいは、作品の美しさだ。正直いって、画集で観ていたベーコンは気味が悪かった。肉の塊のようなものが投げ出されていて気持ちが悪い、というイメージがあった。だが、実際に観たら、気味の悪さは感じなかった。意外にも美しいと感じた。色彩の美しさ、感性の繊細さ、あるいは切羽詰まった精神の状態――そういったものが感じられた。
でも、ベーコンのなにが面白いかを言葉で説明することは難しい。技法で説明することも、○○主義といったイズムで説明することも難しい。そこになにが描かれているかを語っても意味がない。では、ベーコンのなにが面白いのか。
ベーコンの絵を観ていると、疑問が次々に出てくる。たとえばチラシ↑に使われている「ジョージ・ダイヤの三習作」(ルイジアナ美術館)の一枚では、鼻の脇の黒い穴はなにか、顔の左脇の半透明の茶色い影はなにか、服には彩色されていないが、それはなぜか、背景のピンク色はベーコン自身の象徴か(ダイヤは恋人だった)等々。ベーコンの面白さはこんなところにあるのだろうか。
(2013.3.28.東京国立近代美術館)