Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

フランシス・ベーコン展

2013年03月30日 | 美術
 フランシス・ベーコン展を観た。全33点、その全部が面白かった。予想以上の面白さだ。ベーコンのことはほとんど知らなかった。20世紀のもっとも重要な画家の一人といわれても、ピンとこなかった。だが、本展を観たら、その意味がわかった。わかった気がする。

 ベーコンの面白さは実際に観ないとわからない、ということがよくわかった。画集ではその片鱗さえもわからない。実際に観た後で画集を観ると、初めてその面白さがわかる類のものだ。では、画集と実際ではなにがちがうのか。

 まず、作品の大きさ。ベーコンの作品はかなり大きい。画集で想像していたよりも大きい。たとえば初期の「屈む裸体のための習作」(デトロイト美術館)は縦198.1センチメートル×横137.2センチメートル、最晩年の「三幅対(トリプティク)」(ニューヨーク近代美術館)は縦198.1センチメートル×横147.6センチメートル(このサイズの三枚一組で構成されている)。ほとんど同サイズだ。同サイズの作品を例に選んだわけではなく、このサイズの作品が生涯にわたって続いている。

 もちろん画集にもサイズは明記されているが、迂闊なわたしはその認識がなかった。大きいだけではなんの意味もないが、それが空虚ではなく、モニュメンタルな存在感がある。

 もう一つ、画集と実際のちがいは、作品の美しさだ。正直いって、画集で観ていたベーコンは気味が悪かった。肉の塊のようなものが投げ出されていて気持ちが悪い、というイメージがあった。だが、実際に観たら、気味の悪さは感じなかった。意外にも美しいと感じた。色彩の美しさ、感性の繊細さ、あるいは切羽詰まった精神の状態――そういったものが感じられた。

 でも、ベーコンのなにが面白いかを言葉で説明することは難しい。技法で説明することも、○○主義といったイズムで説明することも難しい。そこになにが描かれているかを語っても意味がない。では、ベーコンのなにが面白いのか。

 ベーコンの絵を観ていると、疑問が次々に出てくる。たとえばチラシ↑に使われている「ジョージ・ダイヤの三習作」(ルイジアナ美術館)の一枚では、鼻の脇の黒い穴はなにか、顔の左脇の半透明の茶色い影はなにか、服には彩色されていないが、それはなぜか、背景のピンク色はベーコン自身の象徴か(ダイヤは恋人だった)等々。ベーコンの面白さはこんなところにあるのだろうか。
(2013.3.28.東京国立近代美術館)
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アイーダ

2013年03月28日 | 音楽
 新国立劇場の「アイーダ」。1998年の開場記念公演の一環として初演され、その後も何度か上演されているので、既に観たことのある人も多いだろう。だが、わたしは初めてだ。ゼッフィレッリ演出の絢爛豪華な舞台といわれると、食指が伸びないというか、ちょっと引いてしまうところがあった。今は年間会員になっているので、この公演にも出かけた次第だ。

 やはりというか当然というか、意外性とか新しい問題提起とかはない――が、さすがに美しい舞台だ。これはこれでいいと思ってしまえば、十分楽しめる。ゆったりくつろいで、楽々とした気分で楽しめばいい、という舞台だ。

 歌手はすばらしかった。アイーダのラトニア・ムーアLatonia Mooreには仰天した。どんなアンサンブルになっても、まっすぐ声が伸びてくる。すごい声だ。これまで随分「アイーダ」を観てきたが、これほどドラマティックなアイーダは初めてだ。ムーアは昨年9月にサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルで「ポーギーとベス」のベスを歌ったそうだ。よかったろうな。「ポーギーとベス」は大好きなオペラなので、こういう歌手で聴いてみたいものだ。

 ラダメスのカルロ・ヴェントレもよかった。一級品だ。ところがこれらの二人に比べると、アムネリスのマリアンネ・コルネッティは影が薄いというか、他の二人の引き立て役に回った観がある。なぜかはわからないが、本来の力をセーブしている印象だった。コルネッティは5月に「ナブッコ」のアビガイッレを歌う予定だから、それまでは判断保留。

 うれしかったことは、アモナズロの堀内康雄が外人勢に伍していたことだ。さすがに実力あるベテランだ。ランフィスの妻屋秀和も不足なし。こういう常連さんが脇を固めてくれると、われわれ観客は安心して観ていられる。いや、もっと実感に即していうと、劇場に親しみを感じる。

 指揮のミヒャエル・ギュットラーはドラマに果敢に切り込んでいた。それも好ましかったが、静寂の部分に緊張感があり、これも同じくらい好ましかった。オーケストラは東京交響楽団。同響の貢献が大きかった。

 音楽についての感想を。最後の地下牢の場でのアイーダとラダメスの二重唱――魂が肉体から離れて浮遊していくような音楽――は、ヴェルディをふくめて、これ以外には書かれたことがない音楽ではないだろうか。死とはこういうものかもしれないと、最近思うようになった。
(2013.3.27.新国立劇場)
コメント (3)
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ベルリンの壁

2013年03月25日 | 身辺雑記
 ベルリンのイーストサイド・ギャラリー(ベルリンの壁の一部。今は無数のカラフルな落書きで埋め尽くされています。)が、住宅建設のために一部取り壊されることになり、反対デモが起きていることが報道されています。その記事を読みながら、2月初めに当地を訪れたことを想い出しました。

 イーストサイド・ギャラリーには行きませんでしたが、東西ドイツの検問所「チェックポイント・チャーリー」を訪れました。何年も前に一度訪れたことがあります。今回思うところあって、再び訪れました。ちょうど地元の中学生(?)の集団が到着したところで、ごった返していました。

 展示室を回っていると、日本語が聞こえてきました。ツァーの人たちです。ドイツ人と思しき中年女性が流暢な日本語で解説しています。なるほど、観光コースに入っているのか、と感心しました。

 なぜチェックポイント・チャーリーを訪れたかというと、ベルリンを一周する環状線(東京の山手線のようなもの)に乗っているうちに、「ベルリンの壁があった頃は、途中で分断されていて、こんな風に一周することはできなかったんだな」と思ったからです。

 壁の崩壊から20年あまり、「今いる年配の人たちは、壁のある生活を経験しているんだ――。逆に壁を知らない若い人たちも増えているんだな」と思ったら、チェックポイント・チャーリーを再訪したくなったのです。

 展示室はあまり変わっていませんでした。変わるもよし、変わらぬもよし。一通り見て回ってから外に出ました。ブランデンブルク門まで歩こうと思ったら、見覚えのない黒いガスタンクのようなものがありました。なんだろうと思ったら、パノラマと書いてあります。壁のあった時代を模擬体験する施設のようです。入場料10ユーロ(約1,000円)は高いなと思いましたが、だまされたと思って入ってみました。

 これが意外に面白かったのです。壁の手前から東ベルリン側を見るという想定のもとで、日の出から日没までの時間の推移があり、今まさにそこにいるような感覚を味わえます。車のクラクションなどの生活音が好ましく、壁があった当時も今と変わらない日常生活があったのだという感慨に浸りました。

 実際の壁を見たくなって、近くの「テロのトポグラフィー」に行きました。なんとそこは近代的な建物に生まれ変わっていました。入場無料のその建物では、ナチスの台頭から近隣諸国への侵略、そして崩壊までの歴史が展示されていました。

↓イーストサイド・ギャラリーの撤去問題
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2931765/10373122
http://www.afpbb.com/article/entertainment/news-entertainment/2934448/10455368
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リットン/都響

2013年03月23日 | 音楽
 アンドリュー・リットン指揮の都響でプロコフィエフ・プログラム。リットンは2009年9月にストラヴィンスキー・プログラムで好演した(あのときは「サーカス・ポルカ」と「カルタ遊び」が組まれていた。これらの曲を見直すきっかけになった)。さらにその後ベルリン・ドイツ・オペラでシュトラウスの「ダナエの愛」を観た。これも好演だった。

 今回も期待して出かけた。1曲目はプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」第3組曲。音楽に快い推進力がある。ベタッとしていない。期待にたがわない演奏だと思った。

 それにしても、この第3組曲は、地味な曲が並んでいる。美味しいところは第1組曲、第2組曲で使い果たしてしまったのか。どこかで聴いた気はするが、さて、どの場面だったかは定かでない、といった曲が並んでいる。興味深いのは、リットンがあえて第3組曲を選んだことだ。普段あまり日の当らない作品に目配りするタイプなのか。

 2曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第21番。ピアノ独奏は伊藤恵。都響に伊藤恵が出てくると、どうしてもジャン・フルネの引退公演を想い出す。具体的には書かないけれども、あのときの凍りつくような一瞬に、伊藤恵がフルネにむかって微笑んだことで、フルネはもちろん、聴衆もどれだけ救われたことか。

 それはともかく、今回の第21番。オーケストラが始まると、プロコフィエフのときとは音色がちがうことに気が付いた。これはどういうことだろうと考えた。ピアノが入ってきて、わかった。アナログ・レコードの音なのだ。それがいいとか、わるいとかいうのではなく、昔懐かしいアナログの音だ。おそらくピアノの音に引っ張られて、オーケストラの音も変わったのだろう。

 その音は最後まで続いた。なので、一風変わった経験をした。そのためか、こちらの意識も覚醒した。そうしてみると、カデンツァ(とくに第1楽章のカデンツァ)が面白かった。今まで聴いていたものとは一味ちがう気がしたが――。

 3曲目はプロコフィエフの交響曲第4番(1947年改訂版)。鋭角的なリズムによるアグレッシヴな演奏、バレエ音楽の出自をきれいさっぱり拭い去った演奏、がっちり構築されたシンフォニックな演奏。メリハリの利いた音楽づくりは、下野竜也に通じるものがあると思った。いや、言い方がちょっと変だ、下野竜也はこういうタイプになるのではないか、と思った。
(2013.3.22.東京文化会館)
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カンブルラン/読響

2013年03月21日 | 音楽
 カンブルラン/読響の定期、マーラーの交響曲第6番「悲劇的」。緩みのないテンポで進むマーラー。昨年12月のベートーヴェン「第九」のときもそうだった。「第九」のときにはいい意味でこちらの期待を裏切る側面があったが、今回はちがった。この曲のイメージの枠内にある解釈だった。カンブルランにとってもこの曲はまだアクチュアリティを失っていないのだろう。

 明るく、艶のある音、瑞々しさを湛えた音――それがカンブルランを聴く最大の喜びだ――、その美点にますます磨きがかかている。今のカンブルラン/読響はすごいことをやっている、けっして大袈裟ではなく、オーケストラを聴く醍醐味、あるいはある種の究極にむかって邁進している、と思った。

 カンブルランは今月末で当初の契約の3年を満了するそうだ。この3年間で達成した成果は、昨年4月の「ペトルーシュカ」と今回のマーラーで如実に感じられる。契約はさらに3年延長されたというから、これからなにが達成されるか、大いに興味がある。わたしなどの予想を超えるものがあるといいが。

 カンブルランは昨年9月からシュトゥットガルト歌劇場の音楽総監督を務めている。カンブルランの音楽的な性向からいって、――そして同歌劇場の志向するところから見ても――最適のポストだと思う。その仕事との両立がどうなるか。シュトゥットガルトでも歴史に残るような成果をあげてほしいし、読響もおろそかにしてほしくない。ファンの心理は複雑だ。

 話を戻して、今回のマーラー。第2楽章と第3楽章の演奏順はアンダンテ→スケルツォだった。この順序は久しぶりに聴いた気がする。最近は逆のケースが多かった。なるほど、これだと、どっしり落ち着く。もっとはっきりいうと、スケルツォのパロディ性が薄れる。第2楽章にスケルツォがくると、第1楽章を――その舌の根が乾かないうちに――異化するが、第3楽章だとその印象が薄まる。

 もう一点、第4楽章のハンマーの回数は2回だった。マーラーの改訂は5回→3回→2回だったから、アンダンテ→スケルツォの演奏順ともども、今回の演奏はマーラーが考えていた最終形――と思われるもの――を踏襲したわけだ。

 基本的には、過度に悲劇的ではなく、また、過度に甘美でもない演奏、言い換えるなら、文学的な解釈に頼るのではなく、徹底的に音楽的な演奏だった。その意味では潔い演奏でもあった。
(2013.3.19.サントリーホール)
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宮本文昭/シティ・フィル

2013年03月19日 | 音楽
 東京シティ・フィルが宮本文昭体制になって1年が過ぎた。その1年目の掉尾を飾る定期が週末にあった。

 1曲目はシベリウスのヴァイオリン協奏曲。ソロはパリ管の副コンサートマスター千々岩英一。同氏はすでにベルクとエルガーの協奏曲を共演している。ベルクがすばらしく、エルガーはあまり記憶に残っていない――申し訳ないが――。今回のシベリウスはその中間といったところか。もっとも、これはあくまでもわたしの主観だ。

 それよりもアンコールが面白かった。細川俊夫の「無伴奏ヴァイオリンのためのエレジー」。細かな音が張り巡らされた、いわゆる現代音楽だ。よくこういう曲をアンコールに選ぶものだ。ヨーロッパでは普通の感覚のような気もするが、日本では珍しい。会場の反応もよかった気がする。

 同氏のツィッター(3月17日)を見たら、最初はシベリウスの初稿の第1楽章カデンツァ――後にシベリウス自身が破棄した――を用意していたそうだ。うーん、と唸ってしまった。それも聴きたかった。同ツィッターによれば、「うまい終結方法が思い浮かばず断念」したそうだ。演奏家のこだわりはすごい。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第5番。いつもながら――というべきだろう――全身全霊を投入した熱い演奏。昭和の男のロマン、というと、なにか揶揄しているニュアンスを感じる向きもあるかもしれないが、けっしてそうではない。なんのてらいもなくそれをやってのける姿が板についてきた――少なくともわたしのような聴衆にも違和感がなくなってきた――。

 ブラームスだと少し気恥ずかしい面もあったが、ショスタコーヴィチだからよかったのかもしれない。

 ともかく、気合の入った、張りのある音。同フィルは前任の飯守泰次郎時代から、プロのオーケストラとしては珍しいくらい熱い演奏をしてきた。その熱さはそのままに、音が外向的になってきた。それが宮本文昭の色なのだろう。

 同フィルのブログ(3月13日)によると、リハーサル初日に宮本文昭は「俺がプレーヤーだった頃、こんなことやられたら文句言った」といったくらい、自らのこだわりを押し通したそうだ。それができるオーケストラとの関係は幸せだ。

 なお、付言すると、フルートやオーボエなど、木管で時々ハッとするようなソロがあった。これは宮本文昭の指導のたまものかと、微笑ましく思った。
(2013.3.16.東京オペラシティ)
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インキネン/日本フィル

2013年03月18日 | 音楽
 インキネン/日本フィルのシベリウス・チクルス第1回、交響曲第1番と第5番。期待の企画だったが、第1番には「?」が付いた。もっとも、会場からはブラヴォーの声が出たので、わたしだけかもしれないが――。第1楽章冒頭のクラリネットのソロが、はっきりした、大きな音で、なんの陰影もなく演奏された。それが象徴的だった。この曲のイメージの北欧情緒、暗い空、厳しい冬、それにもめげず人々の内面で燃える情熱、といった要素がまったく感じられない演奏だった。

 インキネンのシベリウスで疑問を感じたのはこれが初めてだ。いったいどうしたのだろうと思った。音楽の骨組みしか聴こえなかった。たとえていえば、家の建築で土台と柱が立った状態、まだ壁がなく、スカスカの現場のように感じられた。

 第4楽章でやっとこの曲のイメージに合ってきた。けれどもそれで帳尻が合うはずはなかった。

 後半の第5番では一転して中身の詰まった演奏が繰り広げられた。これこそインキネンの演奏と感じられた。肌理の細かいアンサンブルと、そこで演奏されている音楽とのあいだに隙間がなく、完全に一体化した演奏。

 それなら、第1番はなんだったのだろうと、どうにも腑に落ちない思いだった。そこで週末には渡邉暁雄/日本フィルのCDを久しぶりに聴いてみた。すばらしく充実した演奏だった。わたしのもっているCDは1981年の録音、このコンビの2度目の録音だ。このころの日本フィルはまだ争議中だった。それでもこんなに充実した演奏をしていたのかと、あらためて目を開かされた。

 ついでに第5番も聴いてみた。ところがこれは、まだるっこい演奏だった。インキネンを聴いた後だから、そう感じたのかもしれない。日本フィルの状態がどうのというよりも、渡邉暁雄とインキネンの個性のちがい、世代のちがい、さらにいえば音楽性のちがいが感じられた。第1番と第2番に共感する音楽性の持ち主と、第3番以降に共感する音楽性の持ち主と。

 それがわかると、今回のチクルスで一番楽しみなのは、4月定期の第3番、第6番、第7番の会だという気がした。これらの曲でどのような成果を上げるか。新世代の感覚というか、シベリウスの個人様式に共感し、それと一体となって呼吸する演奏。20世紀の音楽の歴史を経験して初めて得られるパースペクティヴのもとで、それらの3曲が演奏されるのではないかという気がした。
(2013.3.15.サントリーホール)
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エル・グレコ展

2013年03月13日 | 美術
 エル・グレコは、大原美術館に「受胎告知」があるお陰で、日本人にもお馴染みの画家だ。また、国立西洋美術館には「十字架のキリスト」があるので、わたしのような東京在住の者にとっては、いつでも観られる画家の一人になっている。

 でも、これには一長一短がある。観ようと思えば簡単に観られるので、普段あまり意識しないというか、わたしのような怠け者は、その生涯さえろくに知らないでいた。このたび、世界中の美術館から作品を集めた労作「エル・グレコ展」に接して、はじめて明確な認識をもてた。

 なるほど、これは大変な画家だ。スペインの三大画家という言い方があるらしいが(エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤ)、たしかに他の二人に匹敵する力量の持ち主だ。もちろん時代がちがうので、工房の存在という要素があるが、そこを透かして見えてくる力量はものすごい。

 宗教画がメインのフィールドであることはまちがいない。今回の超目玉「無原罪のお宿り」↑(サン・ニコラス教区聖堂)の濃厚さといったら――。工房の存在はあったにしても、それによって作品が薄まった感じはまったくない。さらにまた、肖像画や聖人画においても、エル・グレコ直筆であることが想像される作品が多く、感銘深いものがいくつもあった。

 大原美術館の「受胎告知」で決定づけられた、不穏な黒い雲、そこを切り裂く黄色い稲妻、艶のない暗い赤、といったイメージは、かならずしもエル・グレコのすべてに共通するものではないこともわかった。「聖アンナのいる聖家族」(タベラ施療院)や「悔悛するマグダラのマリア」(ブダペスト国立西洋美術館)などは明るい青空が背景だ。

 また、国立西洋美術館の「十字架のキリスト」は工房作である可能性が指摘され、わたしなどは、いかにも気乗りがしていない作品だと、生意気にも考えていたが、今回、他の多くの工房作を観ているうちに、かならずしも他の作品に比べて劣るものではないことがわかった。

 本展の監修者であるマドリード自治大学のフェルナンド・マリーアス教授は、クローズアップされがちな「宗教画家」の顔だけでなく「16~17世紀を生きた普通の人であり、人間的にも興味深い画家だったことを紹介したい」と語っている。たしかに、その時代背景をふくめて、この画家を身近に感じることのできる展示内容になっている。

 そういう意味でもありがたい展覧会だった。
(2013.3.8.東京都美術館)

↓大原美術館「受胎告知」
http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a03.html
↓国立西洋美術館「十字架のキリスト」
http://collection.nmwa.go.jp/P.1974-0001.html
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遺体 明日への十日間

2013年03月11日 | 映画
 東京では先週後半から暖かい日が続いていた。今年も3.11が近づくなかで、あの日はあんなに寒かったのに、と思っていたら、昨日の夕方から急に寒くなった。3.11を迎えるにあたって相応しい気がした。

 寒くなった都心のビル街を抜けて、映画「遺体 明日への十日間」を観にいった。今年の3.11をどのように迎えようかと思っていたところ、朝のラジオでこの映画の君塚監督のインタビュー番組を聞いて、「そうだ、これを観て3.11を迎えよう」と思ったからだ。

 震災直後の岩手県釜石市。廃校の体育館が遺体安置所にあてられる。被害がどの程度なのか、まったくつかめない状況のなかで、汚泥にまみれた遺体が次々と運び込まれる。いったいどこまで増えるのか。ビニールシートを敷いた体育館の床は汚泥の山になる。

 市役所から派遣された担当職員も、なにをどうしたらいいか、途方に暮れる。みんな苛立っている。あちこちで怒声が聞こえる。そんな状況のなかで、民生委員をしている男が訪れる。その惨状を見て息をのむ。男はひざまずき、遺体に声をかける、「寒かったでしょう、大変だったね」。その様子を見ているうちに、人々の苛立ちは消え、やがて自分にできることを始める。

 本作は、津波で亡くなった多くのかたに捧げる鎮魂の映画であるとともに、――プログラム誌上で何人ものかたが指摘しているように――日本人の死生観を描いた映画であり、さらにいえば、途方もない災害に遭遇して自分を見失った人々が、少しずつ人間性を回復していく再生の物語でもある。

 原作は石井光太のノンフィクション「遺体 震災、津波の果てに」(新潮社刊)。なので、これはフィクションではなく、事実にもとづいた映画だが、ドキュメンタリーではない。脚本・監督の君塚良一、主演の西田敏行、その他すべてのキャスト・スタッフの想いが込められた作品だ。

 震災直後には何本かのドキュメンタリーが作られた。今後も「その後」のドキュメンタリーは作られるだろう。だが、いつかはフィクションの形で、震災で起きたことを語る作品が生まれるはずだと思っていた。本作はその嚆矢となる一作だ。

 日曜日の夜だったせいか、観客はけっして多くはなかった。その多くはない観客の大部分は、若い人たちだった。若い人たちがこの映画を観て、涙をぬぐい、終了後もなかなか立ち上がろうとはしなかった。
(2013.3.10.有楽町スバル座)

↓予告編
http://www.youtube.com/watch?v=nkjdyNAkhLY
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長い墓標の列

2013年03月08日 | 演劇
 福田善之の「長い墓標の列」が始まった。1957年、早稲田大学演劇研究会によって初演された作品。翌1958年には改訂版がぶどうの会によって上演された。当時、福田善之は20代だった。80歳を超えた今もなお健在だ。

 日本がファシズムに突き進む1939年、ファシズム批判の立場をとる河合栄治郎東大教授が休職処分を受ける――この実話を題材にした芝居。弾圧を受けながらも信念を曲げない主人公(役名は山名庄策)と、時流に合わせた生き方をする弟子(役名は城崎啓)の対立を軸に、その両者のあいだで揺れる弟子と学生たちを描く。

 信念にしたがった生き方とはなにか、人間の生き方とはなにか、人間とはなにか――といった議論が続く。みんな真剣だ。自分を賭けた議論を戦わせる。自分も傷つき、相手も傷つける。みんな自分の深部を見つめ、相手の深部を見つめる。

 わたしは1951年生まれだが、わたしの生まれ育った時代には、まだこういう時代の空気が残っていた。この芝居の時代(1939年前後)はいざしらず、初演当時(1957~1958年)の空気が濃厚に反映されていることは、経験からもよくわかる。

 それから約50年、時代はすっかり変わった。今でもこういう議論が交わされているのだろうか。わたしの知らないどこかで交わされているのだろうとは思う。だが、あまり目立たなくなった。形が変わった。

 プログラムに掲載された福田善之ご自身や、初演当時を知る人々のエッセイを読むと、主人公と対立する城崎にたいする興味・関心が共通しているのが意外であり、驚きだった。わたしの共感は圧倒的に山名にあった。実感からすると、今の世のなか、城崎みたいな人物でいっぱいだ。山名のような人物は絶えてしまった。わたし自身のことを考えても、忸怩たるものがある。

 山名を演じたのは村田雄浩。すばらしい風格だ。重厚で、かつヒューマニズムに溢れている。城崎を演じた古河耕史(演劇研修所修了生)もよく主人公と対峙していた。

 演出は宮田慶子。いつもながら、肌理の細かい、綿密な手触りだった。

 美術は伊藤雅子。天井まで届かんばかりの書棚(実際、河合栄治郎の自宅がそうだったらしい)の迫力もさることながら、舞台奥に傾斜のついた坂道を作り、そこに登場人物の立ち去る姿を見せ、まただれかが訪れる姿を見せていた。これがドラマに陰影を与えていた。
(2013.3.7.新国立劇場小劇場)
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カルディヤック

2013年03月04日 | 音楽
 新国立劇場オペラ研修所の公演、ヒンデミットの「カルディヤック」を観た。昔から観たいと思っていたオペラの一つだ。その念願が叶った。DVDは出ているが、DVDを観る習慣がないので、舞台上演に接する機会を待っていた。それがオペラ研修所公演のかたちで訪れた。

 話は少し遠回りするが、今までのオペラ研修所公演のことから。初めてその公演に接したのは2007年の「アルバート・ヘリング」(ブリテン作曲)だった。あれも一度は観たいと思っていたオペラだ。公演はすばらしかった。長年の渇きがいやされた。

 次に観たのは2009年の「カルメル会修道女の対話」(プーランク作曲)だった。あれもすばらしかった。翌年にプロの団体が上演したが、まだ余韻が残っていたので、観に行く気になれなかった。その後ベルリンで観る機会があったが、感銘の深さではオペラ研修所のほうが上だった。

 そして今回の「カルディヤック」。作品としての興味は劣らないので、その音楽を生で聴けたことは十分満足だが、演出については(美術・照明をふくめて)今までとは異質なものを感じた。

 演出は三浦安浩さん。プログラムに掲載されたプロダクション・ノートは、ひじょうに興味深く、この作品について深く読み込んでいることが一目瞭然だった。三浦さんの演出は今までいくつか観たが、そのどれもと同じく、この作品でも十分に準備し、突っ込んだ解釈をしていることがわかった。

 だが、舞台化すると、説明過剰に陥りがちだった。今回の場合は「影」(分身・ドッペルゲンガー)の起用。個々の場面ではひじょうに面白く、なるほど、そうなのかと、――登場人物の深層心理の表現として――教えられることがいっぱいあったが、全体としては、少し煩わしいというか、垢ぬけない感じが否めなかった。

 ドラマトゥルグとしての力量はものすごくある人だと思うのだが――。

 指揮は高橋直史(なおし)さん。積極果敢にオーケストラと歌手を引っ張っていた。ヒンデミットの音楽を聴いたという実感をもてたのは、高橋さんの指揮によるところが大きい。高橋さんは1973年生まれ。現在はドイツのエルツゲビルゲ歌劇場(ドイツ語表記はEduard-von-Winterstein-Theater)の音楽監督をしている。ホームページを見ると、年10回のオーケストラ・コンサートのうち8回を振るなど、頼もしい仕事ぶりだ。
(2013.3.1.新国立劇場中劇場)
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塀の中のジュリアス・シーザー

2013年03月01日 | 映画
 映画「塀の中のジュリアス・シーザー」を観た。シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」を刑務所の中で、本物の受刑者たちが演じるというもの。特異な設定なので、まずその説明から。

 ローマ近郊のレビッビア刑務所では、受刑者の更生プログラムとして、演劇実習を取り入れている。プロの演出家の指導を受け、刑務所内の劇場で(この刑務所には劇場がある!)、一般の観客を招いて公演する。日本では考えにくいが、以上は事実だ。

 今年の演目は「ジュリアス・シーザー」。受刑者たちのオーディションが始まり、出演者が決まる。台本が配られ、独房で、廊下で、階段で、図書室で、そしてまた中庭で、稽古が進む――ドキュメンタリーのようだが、これはフィクションだ。もっともフィクションと現実との境目ははっきりしない。どこからどこまでがフィクションで、どの部分は撮影の過程で起きたハプニングなのか――。

 フィクションと現実との絡み合いがこの映画だ――と、まずはいえる。ひじょうに知的な、創意あふれる映画作りだ。

 そして一面では、シェイクスピアの戯曲の、きわめてユニークな脚色でもある。大胆にカットされた、男だけのシェイクスピア劇(女性が登場しないのは、刑務所であるがゆえの制約かもしれない)。ディテールを削ぎ落とした、求心的な展開。端的にいって、演劇的にも面白かった。これに比べると、どんな劇場の上演でも、どこか嘘っぽく感じられるのではないかと思ったほどだ。

 監督・脚本はタヴィアーニ兄弟。兄弟ともに制作時点で80歳を超えていた。が、80歳を超えた人が作った映画とはとても思えない。若々しく、生き生きした精神が感じられる。日本人は、80歳を超えたら、もっと穏健な、もしくは枯れた作風になるのではないだろうか。日本人と西洋人(この場合はイタリア人)とは、フィジカル・メンタルの両面で、そうとうちがうようだ。

 俳優ではブルータス(シーザーの台詞「ブルータス、お前もか」のブルータス)を演じた人の繊細な演技に注目した。実はこの人だけは現役(?)の受刑者ではなく、元受刑者だった。刑期の途中で減刑になり、出所後、プロの俳優になったそうだ。ラストシーン――公演が終わって、カーテンコールの場面――での、破顔一笑、くったくのない笑顔は、別人のようだった。これもまた演技だから驚く。
(2013.2.26.銀座テアトルシネマ)

↓予告編
http://www.youtube.com/watch?v=AtM59aG7UA8
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