Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

2023年の音楽回顧

2023年12月30日 | 音楽
 2023年はどんな年だったろう。ウクライナ戦争は終わりが見えない。ガザではイスラエルがジェノサイドともいえる攻撃を仕掛ける。世界は戦争の時代に入ったのか。

 ともかく、わたしの2023年を振り返ろう。吉田秀和が「思うこと」というエッセイ(吉田秀和全集第10巻所収)でドイツの詩人、ギュンター・アイヒの詩の一節を引用している。次のような詩だ。「眼をとじてみたまえ/その時、きみに見えるもの/きみのものはそれだ」。わたしも眼をとじてみよう。なにが見えるか。

 まず思い出すのは、ヴァイグレ指揮読響が演奏したアイスラーの「ドイツ交響曲」だ。アイスラーが主にブレヒトの詩をもとに作曲したカンタータ的な作品。詩の内容は、第一次世界大戦後、民主的なワイマール憲法のもとでナチズムが台頭し、ドイツを破滅に導いたことを糾弾するもの。その曲をいまの日本で聴くと、第二次世界大戦後、民主的な日本国憲法のもとで何が台頭するのか不安になる。

 ヴァイグレ指揮読響の演奏は桁外れのパワーとスケールをもつ壮絶なものだった。語弊があるかもしれないが、わたしは本気になったヴァイグレを初めて知った。サントリーホールの大空間が満腔の怒りではち切れそうだった。4人の独唱者と合唱もすばらしかった。一人だけ名前を挙げると、大ベテランのファルク・シュトルックマンが、深々とした声を聴かせた。その声は崇高だった。

 もうひとつ思い出すのは、新国立劇場が新制作したヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」だ。14世紀のイタリア・ジェノヴァの物語。平民シモンは貴族の娘マリアと恋仲になるが、マリアの父親の許しが得られない。女児が生まれるが、行方不明になる。マリアも亡くなる。失意の渦中でジェノヴァの総督に選出される。総督になっても、思うに任せない展開が続く。シモンはヴェルディには珍しく揺れ動くキャラクターだ。深みのある人物像はヴェルディのオペラの中では屈指のものだ。

 このオペラの上演は大野和士の念願だったらしい。熱く雄弁にドラマを描いた。単刀直入に核心に迫るピエール・オーディの演出とともに、このオペラの真価を問う上演だった。歌手ではテノールのルチアーノ・ガンチが収穫だった。

 2023年は暑い日が続いた。その盛りの7月に外山雄三、8月に飯守泰次郎、9月に西村朗が亡くなった。3か月連続の訃報がショックだった。海外ではフィンランド生まれの女性作曲家カイヤ・サーリアホが亡くなった。東京オペラシティのコンポ―ジアム2015ではオペラ「遥かなる愛」が演奏会形式で上演され、またサントリーホール・サマーフェスティバル2016ではテーマ作曲家になった。好きな作曲家だった。ご冥福を祈る。
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国立西洋美術館「キュビスム展」

2023年12月28日 | 美術
 国立西洋美術館で「キュビスム展」が開催中だ。20世紀初頭にパリでピカソとブラックが始めたキュビスムが、あっという間に多くの画家たちに広がり、熱狂の瞬間を迎えたその時に第一次世界大戦が勃発し、キュビスムは重大な転機に立たされる。その経過が生々しく感じ取れる展覧会だ。

 メインビジュアル(↑)の作品はロベール・ドロネーの「パリ市」だ。中央の3人の裸体の女性は西洋絵画の伝統的な図像の三美神だ。右側にはエッフェル塔の断片が見える。左側に見える川はセーヌ川だ。現代のパリの街並みに三美神の幻影を見る。細かいモザイクのような画面は、プリズムを通したように見える。それが三美神の幻想性を高める。絵具は薄塗りで透明感がある。実物を見ると驚くが、サイズは縦267㎝×横406㎝と大きい。1912年のサロン・デ・ザンデパンダンに展示された作品だ。

 本展では「パリ市」の右側にフェルナン・レジェの「婚礼」が展示され、左側にはアルベール・グレーズの「収穫物の脱穀」が展示されている。「婚礼」は縦257㎝×横206㎝。「収穫物の脱穀」は縦269㎝×横353㎝。3作品はほぼ同じ大きさだ。3作品は三連画のようにも見え、また三美神のようにも見える。

 「婚礼」の画像は本展のHP(↓)に載っている。画像では分かりにくいと思うが、画面の中央に小さな2つの顔がある。新郎と新婦だ。その周囲に多数の顔と家並みが見える。婚礼を祝う人々だ。それらが上昇気流に乗って渦巻いているように見える。レジェ特有の円筒形の組み合わせによる画面構成の前の作品だ。色彩は灰色を基調とし、そこに青、緑、ピンクが浮かぶ。本作品も1912年のサロン・デ・ザンデパンダンに展示された。

 上記の「パリ市」と「婚礼」はパリのポンピドゥーセンターの所蔵作品だが、「収穫物の脱穀」は国立西洋美術館の所蔵作品だ。画像は同館のHP(↓)に載っている。農村で収穫物の脱穀をする人々を描く。自然主義的な描き方ではなく、キュビスム的に構成されている。村人たちの素朴な生活が伝わる。色彩は焦げ茶色を基調にして、濃緑色と赤が点在する渋いトーンだ。本作品はキュビスムの画家たちが結集した1912年のセクション・ドール展に展示された。

 国立西洋美術館が「収穫物の脱穀」を購入したのは2005年だ。わたしが同館の常設展で本作品を初めて見たときの驚きは忘れもしない。すごい作品が入ったと思った。だが、すごさを受け止めきれなかったのも事実だ。それ以来、本作品のことをもっと知りたいと思っていた。本展でキュビスムの歴史の中に位置付けられた。見方を変えれば、本展は本作品があったからこそ実現できたのかもしれない。
(2023.11.29.国立西洋美術館)

(※)本展のHP

(※)「収穫物の脱穀」の画像
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レーガー生誕150年

2023年12月24日 | 音楽
 大野和士が指揮する都響の12月定期Aシリーズのプログラムに、今年生誕150年のレーガー(1873‐1916)の珍しい曲が組まれた。「ベックリンによる4つの音詩」だ。実演を聴いてみたくて出かけた。

 ベックリンはスイス生まれの象徴主義の画家だ。レーガーはベックリンの4枚の絵画にインスピレーションを得て作曲した。第1曲は至福にみちた瞑想的な音楽。一貫してコンサートマスターのヴァイオリン独奏が続く(当夜のコンサートマスターは矢部達哉)。第2曲はスケルツォ風の音楽。第3曲はエレジー。悲しみが爆発する。第4曲はフィナーレ。バッカスの祭りだが、開放感に欠ける。

 レーガーには晦渋なイメージがある。だが、少なくともこの曲は平明だ。もっと演奏されていいと思う。実演を聴くと、音に独特の色がある。派手な色ではなく、くすんだ色だ。聴くものを沈んだ気分にさせる。その音を好む人もいるだろう。断言することは憚られるが、プフィッツナー(1869‐1949)の音に似ているかもしれない。

 プフィッツナーと同様にレーガーは保守的な作風だった。そのレーガーがシェーンベルク(1874‐1951)とわずか1歳違いだったことは意外に思う。その事実はレーガー云々よりも、シェーンベルクが時代を超越した人だったことを物語るだろう。レーガーもシェーンベルクもブラームスから出発した。だが、二人の道は大きく離れた。

 演奏会の終了後、レーガーのCDをあれこれ聴いた。楽しいひと時だった。一番惹かれた曲はクラリネット五重奏曲だ。クラリネット五重奏曲というとモーツァルトやブラームスを思い出す。レーガーの曲はブラームスに通じる。一貫して穏やかな曲想だ。わたしはザビーネ・マイヤーのCDで聴いた。息のコントロールが完璧だ。曲に感心したのか、演奏に感心したのか‥。

 もう一曲あげると、オルガン曲「30の小コラール前奏曲」が良かった。いうまでもないが、レーガーはオルガン奏者でもあった。オルガン作品が多数ある。その中で「30の小コラール前奏曲」は異色の作品だ。1曲1曲が1分前後と短い。全曲を通して聴くと40分余りかかる。それらをじっと聴いていると、ヨーロッパのどこかの教会に入り、オルガン奏者がオルガンを弾いているのをたった一人で聴く気分になる。心が澄んでくる。わたしが聴いたCDはビュトマンの演奏だ。ビュトマンはレーガーのオルガン作品全集を出している。

 今秋はペトレンコ指揮ベルリン・フィルとルイージ指揮N響がレーガーの「モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ」を演奏した。有名な主題なので演奏される機会が多いのだろうが、わたしはモーツァルトのイメージから離れるのが難しい。苦手な曲だ。
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ルイージ/N響「一千人の交響曲」

2023年12月18日 | 音楽
 N響の第2000回公演。ルイージの指揮でマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」。第1部冒頭の合唱が、力まずに、さらりと入る。勢い込んだ入りとは違う。演奏はだんだん熱が入る。バンダが加わるコーダは圧倒的な音量でNHKホールの巨大な空間を満たした。第2部の冒頭は神経のこもった弱音だ。荒涼とした岩山の風景が浮かぶ。ハープにのって第1ヴァイオリンがゆったり奏でる部分が美しい。聖母マリアが降臨して、ホールが愛に満たされるようだ。だからこそ、グレートヒェンを表す第2ソプラノの歌に説得力があった。神秘の合唱の出だしの再弱音にゾクゾクする。コーダでは肯定的な音が鳴った。

 独唱者はオーケストラの後ろに配置された(聖母マリアを表す第3ソプラノはオルガン席で歌った)。その配置は独唱者には不利だが、承知の上だろう。当日の主役はオーケストラだ。第2000回公演という節目の演奏会なので、聴衆にオーケストラを聴いてほしいのだろう。

 N響の演奏は気合が入っていた。N響は「一千人の交響曲」を2016年9月の定期演奏会でも演奏した。指揮はパーヴォ・ヤルヴィだった。もちろんそれも良かった。そのときの演奏とルイージが指揮した今回の演奏をくらべると(わたしはパーヴォを支持しているので、パーヴォを云々するのではないのだが)、今回の演奏には音に優しさがあった。だから上述のようにホールが愛に満たされる感覚があったのだろう。

 独唱者では第2ソプラノのヴァレンティーナ・ファルカシュの艶のある声に惹かれた。N響とは2019年9月にリヒャルト・シュトラウスの「カプリッチョ」から最後の場面で共演したことがある(指揮はパーヴォだった)。そのときは細かいヴィブラートが気になったが、今回は気にならなかった。また第1アルト(サマリアの女を表す)のオレシア・ペトロヴァはN響とは2022年9月のヴェルディの「レクイエム」で共演したことがある(指揮はルイージ)。今回はそのときほど印象に残らなかった。

 合唱は新国立劇場合唱団。児童合唱はNHK東京児童合唱団。児童合唱のはつらつとした歌声が印象的だ。児童合唱は全員暗譜。すごいものだ。

 それにしてもこの曲は、第1部「来たれ、創造主である聖霊よ」では中世の聖職者の詩句を使い、第2部「『ファウスト』の最後の場」ではゲーテの戯曲を使う。まったく無関係のテクストをつなぎ合わせるマーラーの力技に感服するが、すんなり頭に入らないことも事実だ。もうひとつの問題は、『ファウスト』の最後の場では本来、空中を浮遊するファウストの魂が感じられなければならないが、最後の場だけ取り出すと、それが難しい点だ。無関係のテクストをつなぎ合わせた結果だから仕方ないが。
(2023.12.17.NHKホール)
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スダーン/東響

2023年12月17日 | 音楽
 桂冠指揮者スダーンの振る東響の定期演奏会は、シューマンの交響曲第1番「春」のマーラー版とブラームスのピアノ四重奏曲第1番のシェーンベルク編曲という、一見オーソドックスだが、ひねりの利いたプログラムだった。

 スダーンは東響の音楽監督在任中にシューマンの全交響曲のマーラー版を振ったそうだが、わたしは聴かなかったので、今回が初見参だ。マーラー版といわれると、身構えてしまうが、佐野旭司氏のプログラムノートによれば、それほど警戒(?)すべき版ではないらしい。以下、引用すると――

 「マーラーの編曲は基本的に原曲に忠実である。しかし、例えば第1楽章の冒頭(トランペットとホルンのユニゾン)でホルンの数を増やしたり、また第2楽章の冒頭主題は本来第1ヴァイオリンのみで奏されるところを第2ヴァイオリンを加えたりと、随所で細かい変更を加えて、旋律を際立たせている。」

 たぶんシューマンの交響曲は演奏の現場では多くの指揮者が多少なりとも手を加えていて、そのマーラー版が残っているということだろう。スダーン指揮東響の演奏を聴きながら、そう思った。マーラー版の意識から逃れられないので、細かい点に注意が向きがちだが、演奏全体は逞しかった。わたしはその演奏からマーラーが指揮したシューマンの演奏を想像しようとしたが、さすがにそれは難しかった。

 プログラムの後半。ブラームスのピアノ四重奏曲第1番のシェーンベルク編曲が始まったとき、わたしは意外にも安堵した。これほど大胆に編曲されると、原曲との違いなど気にならなくなり、思い切りの良さが爽快ですらある。3管編成の大編成のオーケストラが演奏するブラームスの室内楽は、シェーンベルクの難解なイメージにとらわれずに、極上のエンターテインメントとして楽しむべきだろう。

 演奏はシューマンよりも切れ味がよかった。ピッチがぴったり合い、強靭な弦の音が鳴り渡った。加えて、コントラバスの音がドスを利かせた。随所に弦楽器各セクションの首席奏者たちのソロが飛び交う。木管、金管の好プレーは枚挙にいとまがない。グロッケンシュピール、シロフォンなどの各種の打楽器は、突出せずに、全体のアンサンブルの中に収まった。一言で言って、シェーンベルクの編曲のおもしろさが全開した。

 この編曲は指揮者の演奏意欲をそそるらしい。今まで数多くの指揮者で聴いてきたが、スダーンの演奏はその中でもトップクラスのおもしろさだった。東響のメンバーがスダーンを信頼してのびのびと演奏しているように見えたことも印象的だ。
(2023.12.16.サントリーホール)
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METライブビューイング「デッドマン・ウォーキング」

2023年12月14日 | 音楽
 METライブビューイングでジェイク・ヘギー(1961‐)の「デッドマン・ウォーキング」(2000)を観た。MET(ニューヨークのメトロポリタン歌劇場)は名作オペラの上演と併せて、現代オペラの上演にも力を入れている。本作品もそのひとつだ。

 主人公は修道女のヘレン。死刑囚のジョゼフとの文通をきっかけに、ジョゼフの求めに応じてジョゼフと会う。ジョゼフは殺人犯だが、罪を認めない。死を恐れるジョゼフ。ヘレンはジョゼフに罪を認め、赦しを乞うよう説得する。「真実はあなたを自由にする」と。

 重いテーマが幾重にも重なる。第一に死刑制度の問題だ。本作品は遺族の苦悩を綿密に描く。死刑制度反対を主張する作品ではない。観る者に考えさせる。第二に信仰の問題だ。ヘレンの信仰はゆるぎない。死におびえるジョゼフに「神は周りに私たちを集めてくださる」と説く。第三に魂と魂のぶつかり合いだ。ヘレンの魂とジョゼフの魂がぶつかり合う。本作品はそれが人間同士が理解し合う唯一の道だと、全力で語っているようだ。

 本作品はプーランク(1899‐1963)の「カルメル派修道女の対話」(1957)に通じるところがある。フランス革命の渦中で弾圧されたカルメル派の修道女たち。そのひとりのブランシュは死におびえる。だが死の恐怖の頂点でブランシュは死を受け入れる。ブランシュとジョゼフが重なり、信仰にゆるぎのないコスタンスとヘレンが重なる。

 本作品には耳に残るメロディがふたつある。ひとつはヘレンの歌う「この旅は」This journeyだ。映画音楽のように抒情的だ。もうひとつは(これもヘレンの歌う)「神は周りに私たちを集めてくださる」He will gather us around。黒人霊歌のような音調がある。その2曲はNMLで聴ける。それら以外にも胸にしみる曲がある。とくにジョゼフの母が歌うふたつのアリアは涙を誘う。

 ヘレンを歌ったジョイス・ディドナートは渾身の歌唱だ。役に没入している。カーテンコールのときには涙をぬぐっていた。ジョイスの入魂の歌唱があったればこそ成立した公演だ。ジョゼフを歌ったライアン・マキニーも全力投球だ。ジョゼフの苦悩を圧倒的に表現した。もうひとり、ジョゼフの母を歌ったスーザン・グラハムが感動的だ。大ベテランでなければ出せない味がある。その一方で、声が若いことに驚く。

 演出のイヴォ・ヴァン・ホーヴェにも最大級の賛辞を。序曲のあいだにジョゼフとその兄のレイプと殺人の現場を見せたこともさることながら、最後の死刑執行の場面のリアルさに戦慄する。わたしたちに「目をそらすな。事実を直視せよ」と語っているようだ。指揮のヤニック・ネゼ=セガンはいつもの通り熱い指揮だ。
(2023.12.13.109シネマズ二子玉川)
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カーチュン・ウォン/日本フィル

2023年12月10日 | 音楽
 カーチュン・ウォン&日本フィルの快進撃が続く。12月の東京定期はこのコンビらしいプログラムだ。1曲目は外山雄三の交響詩「まつら」。日本フィル恒例の九州公演から生まれた曲だ。わたしは1985年9月の渡邉暁雄&日本フィルと、2014年12月の外山雄三&日本フィルの演奏を聴いた。今回久しぶりに聴き、「こんなにいい曲だったっけ」と思った。冒頭の静謐な音楽から祭囃子の幻想的な音楽へ自然に移行する。祭囃子がお祭り騒ぎにならない点が好ましい。この曲の難点だと思っていた強引なエンディングは、軽いアクセントを打って終わるように聴こえた。

 2曲目は伊福部昭の「ラウダ・コンチェルタータ」。マリンバ協奏曲だ。わたしは一時この曲に夢中になった。きっかけは1990年4月に聴いた安倍圭子のマリンバ独奏、山田一雄&新星日響の演奏だ。憑依したような安倍圭子のマリンバ演奏に圧倒された。山田一雄の指揮も思い入れたっぷりだった。巨大な渦がステージ上に巻き起こるような印象だった。その後2010年6月に聴いた安倍圭子のマリンバ独奏、井上道義&日本フィルの演奏ではあまり感銘を受けなかったが‥。

 今回のマリンバ独奏は池上英樹。当然のことながら、安倍圭子とは異なる。硬質な音が飛び回るような演奏だ。安倍圭子の場合は大地に打ち込むような音だった。言い方を変えれば、安倍圭子の場合は深々とした低音が印象的だったが、池上英樹の場合は高音が印象的だ。率直にいえば、安倍圭子の演奏のほうが音の数が多く、池上英樹の演奏は音の数が少ないように感じた。

 池上英樹のアンコールがあった。「星に願いを」を自由に崩した演奏だ。重音を極力避けて、単音がポツン、ポツンと続く。例えていえば、冬の澄んだ夜空のような感覚だ。そこから「星に願いを」のメロディーが浮き上がる。

 3曲目はショスタコーヴィチの交響曲第5番。先に結論をいえば、日本フィルのイメージを一新する演奏だった。音がクリアーなことにまず耳を奪われた。暖色系で色彩豊かだ。日本フィルはラザレフの指揮でショスタコーヴィチの名演の数々を繰り広げたが、ソ連時代の証言のようなラザレフの指揮では、音はモノトーンだった。それに引き換え、カーチュン・ウォンの指揮では現代的でカラフルな音になる。

 細部へのこだわりは驚異的だ。次から次へと驚くべき発見がある。今まで埋もれていたパートが浮き上がり、意表を突くテンポの変化があり、また思いがけない音色が現れる。端的にいえば、至る所にドラマトゥルギーがある。長大なこの曲があっという間だ。日本フィルの集中力は最後まで切れなかった。
(2023.12.9.サントリーホール)
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カンブルラン/読響

2023年12月06日 | 音楽
 カンブルラン指揮読響の定期演奏会。1曲目はヤナーチェクのバラード「ヴァイオリン弾きの子供」。レアな曲だ。そんな曲があったのかと思う。スヴァトブルク・チェフの詩に基づく曲という(澤谷夏樹氏のプログラムノーツによる)。チェフといえば、オペラ「ブロウチェク氏の旅行」の原作者だ。別人の手によるオペラ台本では、第2部の冒頭にチェフ自身が現れて詩を朗読する。印象的な場面だ。「ヴァイオリン弾きの子供」の作曲年は1912年。ちょうど「ブロクチェク氏の旅行」を作曲中のころだ。

 1912年はピアノ曲集「霧の中で」の作曲年でもある。「ヴァイオリン弾きの子供」は「霧の中で」に通じる抒情性がある。しんみりしていて、どこか儚げだ。カンブルラン指揮読響の演奏はその曲想をよく表現した。コンサートマスターの日下紗矢子のヴァイオリン独奏もその演奏にマッチしていた。

 2曲目はリゲティのピアノ協奏曲。ピアノ独奏はピエール=ロラン・エマール。今年はリゲティの生誕100年なので、予想外にリゲティの曲を聴く機会が多かった。その中でも当夜の演奏は真打登場の感があった。エマールのピアノも、カンブルランの指揮も、この超難曲を完璧に理解し、手の内に収めていた。どっしりと構え、緊迫感に満ちた演奏だった。

 エマールのアンコールがあった。リゲティの「ムジカ・リチェルカータ」から第7曲と第8曲。大サービスだ。あのピアノ協奏曲を弾いた後で、平気な顔をして「ムジカ・リチェルカータ」を2曲も弾くエマールに脱帽だ。

 休憩後の3曲目はヤナーチェクの序曲「嫉妬」。ヤナーチェクがオペラ「イェヌーファ」のために書いた曲だが、ボツになった。冒頭のティンパニの強打が衝撃的だ。たしかに「イェヌーファ」の中に渦巻く情念を要約したところがある。カンブルラン指揮読響の演奏も表出力十分だった。

 わたしはカンブルランがシュツットガルト歌劇場の音楽監督を務めていた2016年1月に同歌劇場で「イェヌーファ」を観た。そのときは数日間シュツットガルトに滞在して、毎日同歌劇場に通った。他の指揮者が振るときと比べて、カンブルランが振るとオーケストラの演奏が見違えるように引き締まった。「イェヌーファ」の演出はカリスト・ビエイトだった。当時脂の乗り切ったビエイトの演出と相俟って、すばらしい上演だった。

 4曲目はルトスワフスキの「管弦楽のための協奏曲」。リゲティのピアノ協奏曲に比べると緩さの感じられる演奏だったが、その代わり轟然と鳴った。終演後の拍手は盛大だった。カンブルランは読響の聴衆から愛されている。
(2023.12.5.サントリーホール)
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高関健/東京シティ・フィル「トスカ」

2023年12月01日 | 音楽
 高関健指揮東京シティ・フィルの「トスカ」の演奏会形式上演。歌手の面でもオーケストラの面でも「トスカ」の音楽を堪能できた。

 歌手でもっとも感銘を受けたのは、カヴァラドッシをうたった小原啓楼だ。第1幕の余裕をもったカヴァラドッシから、第2幕の拷問に苦しむカヴァラドッシ、拷問の途中でナポレオン軍の勝利の報が届き、歓喜の叫びをあげるカヴァラドッシ、そして第3幕の処刑を前にした絶望のカヴァラドッシまで、表現の幅が広い。わたしは以前、松村禎三のオペラ「沈黙」で小原啓楼のロドリゴを聴き、たいへん感銘を受けたのだが、それ以来の感銘を受けた。

 トスカをうたったのは木下美穂子。安定した歌唱で安心して聴けた。「歌に生き、恋に生き」もたっぷり聴けた。スカルピアは上江隼人。過不足ない歌唱だ。アンジェロティは妻屋秀和。第1幕を引き締めた。本公演の順調な滑り出しは妻屋秀和のおかげだ。もう大ベテランだが、声は健在だ。堂守をうたった晴雅彦は、コミカルな演技が堂に入っていた。この役を得意にしているのだろうか。

 オーケストラは表現力が豊かだった。張りのある音から繊細な音まで縦横無尽にドラマを語った。ドラマの進展にともない音に陰りが出る箇所もハッとさせた。細かいところで「こんな音が鳴っていたのか」という発見は多々あった。一例をあげると、第3幕でカヴァラドッシが「星は光りぬ」をうたい始める前のチェロのソリがしみじみ聴けた。舞台上演で何度も聴いている箇所なのに、今回注目したのはなぜだろう。演技がなかったからか。

 合唱は東京シティ・フィル・コーアと江東少年少女合唱団。第1幕の「テ・デウム」はなかなか壮麗だった。大人数で押し切る合唱ではなく、きちんとうたえる人で編成されているように思えた。

 全体的に歌手もオーケストラも合唱もモラルが高かった。ホールがよく鳴っていたことも印象的だ。終演は9時50分。遅くなったにもかかわらず、カーテンコールが続いた。

 高関健がプレトークで語っていたが、高関健がカラヤンのアシスタントを務めていたときに、カラヤンの「トスカ」のレコーディングがあったそうだ。トスカをカーチャ・リチャレッリがうたい、カヴァラドッシをホセ・カレーラスが、スカルピアをルッジェーロ・ライモンディがうたった1979年盤だ。そのとき第2幕のフルート、ヴィオラ、ハープの舞台裏でのバンダの指揮が必要になり、カラヤンが高関健を見て「だれか振れ」といったそうだ。そこで高関健が振った。それが1979年盤になっている。わたしは一時1979年盤を愛聴していた。第2幕のバンダを高関健が振っているとは知らなかった。
(2023.11.30.東京オペラシティ)
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