Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

カンブルラン/読響

2014年11月29日 | 音楽
 カンブルラン/読響の名曲シリーズ。定期以外のコンサートに行くのは稀だが、これは聴いてみたかった。お目当てはシューマンだった。

 1曲目はモーツァルトの「魔笛」序曲。ピリオド様式ではないのだが、それを意識した演奏であることは覗える。インテンポでひたむきに進む。冒頭および中間部の3つの和音も勿体ぶらない。ティンパニの硬めの音が快い。

 2曲目はシューマンの交響曲第3番「ライン」。前述したように、これがお目当てだった。なぜかというと、カンブルランがシューマンを振ると、どう鳴るのだろうと思ったからだ。楽器を重ね過ぎるといわれるシューマンのオーケストレーションだが、カンブルランの耳はそれをどう捉えるか。

 結論からいえば、モヤモヤしたところがまったくない演奏だった。重ねられた楽器のそれぞれの音が明瞭に聴こえた。メロディーラインを受け持つ楽器を浮き上がらせるのではなく、重ねられた楽器を――その重ねられた状態を示すように――均等なバランスで鳴らす演奏だった。

 結果が灰色のモノトーンに収斂しないのは、カンブルランの耳のよさであるわけだが、より具体的にいえば、厳密なピッチのためだ。ピッチがこれだけ合っていれば、シューマンであってもけっして混濁しないといっているような演奏だ。逆にいうと、往々にしてモヤモヤした演奏があるのは、ピッチの甘さに一因があるのではないかと、そんな気がした。

 個々の楽章では、第3楽章が面白かった。全曲の中でこの楽章は一番地味かもしれないが、音楽の進行に関係ない細かい動きが随所にあり(たとえていえば、藪の中に隠れているようなものだ)、それらが生かされた演奏だった。

 第4楽章は、一切のロマンを排して、シューマンが音を積み重ねたその手つきを見せるような演奏だった。音楽は動きが止まり、第5楽章で再び動き出した。

 3曲目はベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。上記2曲と同様、インテンポで邁進する演奏だ。‘サクサク’した演奏ではなく、音の角をきっちり揃えて、そこにガッツを込めた演奏だ。カンブルランの頭の中で鳴っている音楽はこういう音楽なのかと、わたしは畏敬の念を抱いた。けっして強面ではないが、厳しい音楽だ。明るく、ニュアンスも豊かだけれど(とくに第2楽章はそうだった)、自己にたいして厳しい音楽だ。聴き手のわたしも、日頃弛んでいる精神を引き締めた。
(2014.11.28.サントリーホール)
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ウフィツィ美術館展

2014年11月27日 | 美術
 フィレンツェのウフィツィ美術館は、一度は行ってみたい美術館だが、まだその機会がない。そのウフィツィ美術館および周辺の美術館からボッティチェリ(1444/45‐1510)の作品その他が来日中だ。

 昨日行ったら、意外に空いていた。ボッティチェリをはじめイタリア・ルネッサンスの作品をじっくり鑑賞することができた。名もない画家の作品にも心を動かされるものがあった。これも絵画鑑賞の醍醐味の一つだ。

 そんな作品の一つが‘サン・ミニアートの画家‘による「聖母の幼子キリスト礼拝」だった。1480年頃の板絵だ。1861年の洪水によって損傷を受け、下から4分の1は後世に継ぎ足された板だそうだ。上方4分の3に描かれた聖母子が繊細だ。いつまで見ていても飽きない作品だった。

 ボッティチェリの作品、とくに「パラスとケンタウロス」(1480‐85頃)は圧倒的だった。なんといったらいいか、堂々とした存在感と繊細な優美さとの共存――その均衡――とでもいえばいいのか。ともかく、その前に立つと、多言を弄することが空しくなる、というのが実感だ。ボッティチェリという、人類史上でも稀有な画家の、その代表作の一つ、といえばそれで足りるような気になる。

 その他ボッティチェリの作品は、最初期の「聖母子と天使」(1465頃)から、サヴォナローラの影響が色濃い「聖母子と洗礼者聖ヨハネ」(1505頃)まで多数来ている。日本に居ながらにしてボッティチェリの作品に接することができる得難い機会だ。

 もう一つ、心惹かれたのは、ボッティチェリの師でもあるフィリッポ・リッピ(1406‐1469)の「受胎告知のマリア、大修道院長聖アントニウス」(1450‐55頃)と「大天使ガブリエル、洗礼者聖ヨハネ」(同)だ。2枚で一対の板絵。ともに上下に2分され、各々に表題の聖者が描かれている。大天使ガブリエルは女性のように見える。繊細な線描が美しい作品だ。

 あとは余談だが――。フィレンツェには一度行ったことがある。トスカーナの丘陵にあるサン・ジミニャーノという小村に行く途中だった。ローカル・バスの待ち時間を利用して、大聖堂までは行ったが、それ以上の時間はなかった。

 サン・ジミニャーノで過ごした数日間は今でも楽しい想い出だ。毎朝、濃い霧が出た。幻想的な風景だった。昼間はオリーブ畑を歩き回った。
(2014.11.26.東京都美術館)

↓各作品の画像がご覧になれます。(本展のHP)
http://www.uffizi2014.com/highlight.html
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サンティ/N響

2014年11月23日 | 音楽
 サンティの‘名曲コンサート’のようなプログラム。演奏時間の合計はそうとう短いはずだから、(定期演奏会ではあるけれど)なにかアンコールでも用意されているのでは――と、半ば期待して出かけた。でも、そういうサービスはなかった。

 1曲目はロッシーニの「どろぼうかささぎ」序曲。弦はなんと16型。弦がこれだけ厚いと、管はどうしても分が悪い。最強音の部分では(木管はともかく)金管が埋もれ気味だった。弱音の部分のコントロールは徹底していたのだが。

 2曲目はベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」。これもどっしりと重い――というと語弊があるかもしれないので、言い方を変えると――重量級の(あまり変わっていないか‥)演奏だ。ベルリオーズのトリッキーなリズム処理が感じられず、むしろ堂々と安定している。

 以上の2曲で休憩に入った。えっ、序曲2曲で?という思いはあったが、まあ、仕方がない。サンティの巨躯を支える足もだいぶ頼りなくなったので、適当なタイミングかもしれない。

 3曲目はチャイコフスキーの「イタリア奇想曲」。これは文句なしに楽しかった。サンティの演奏スタイルと音楽とのあいだになんの齟齬も感じなかった。チャイコフスキーの奥行きのある構えがサンティを受け入れたのだろう。

 4曲目(つまり最後)はレスピーギの「ローマの松」。もういうまでもないが、これもどっしりとした演奏。この曲はこれでいい。なので、プログラム前半の2曲よりも、後半の2曲の方が、なにもひっかからずに楽しむことができた。

 「アッピア街道の松」のバンダは、客席ではなく、ステージに載っていた。NHKホールではいつもこうだったか‥。ステージの、向かって左奥に、配置されていた(一方、右奥にはオーケストラの金管群が。これは通常の位置だ)。もちろん、これだと、オーケストラとバンダが合わなくなるリスクは皆無だ。だが、ちょっと物足りない。

 バンダの‘バス・フリコルノ’はユーフォニュームが使われていた。形態はユーフォニュームに似ているが、音はどうなのだろう。個人的な好みでは、トロンボーンの張りのある音の方が好きなのだが。

 以上、いろいろいったが、さすがはN響だ。トゥッティの輝きも、個人の妙技も、たっぷり楽しませてもらった。これほど高性能なオーケストラだ。早く(長老指揮者ではなく)パーヴォ政権になってほしい。
(2014.11.22.NHKホール)
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マクリーシュ/都響

2014年11月22日 | 音楽
 ポール・マクリーシュが都響を振った定期。当初はホグウッドが振る予定だった。新鮮味のあるプログラムだったので、楽しみにしていた。そうしたら、亡くなってしまった。過去に聴いた名演が想い出される。ご冥福をお祈りする。

 代役にポール・マクリーシュの名前が出たときには、えっと驚いた。新たな動機付けができたような気がした。プログラムもそのまま引き継ぐとのこと。これは嬉しいニュースだった。

 1曲目はコープランドの「アパラチアの春」原典版。オーケストラによる組曲版で親しんでいるが、原典版は小オーケストラ編成だ。第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ各2、コントラバス1。管はフルート、クラリネット、ファゴット各1。そしてピアノ。

 冒頭、弦の薄いハーモニーにクラリネットが最弱音でメロディーを乗せたとき、これは名演になると思った。繊細で鋭敏な音。無神経な音は一音たりとも許されない演奏。都響はベストメンバーで臨んでいた。マクリーシュの優秀さも感得された。

 「アパラチアの春」という題名どおり、のどかな風景(=音楽)が続く曲だと思っていたが、後半に、威嚇するような、暗い部分があった。組曲版にはない部分だ。このちょっとした変調を経て、また元の穏やかな音楽に戻る。なるほど、原曲はこうなっていたのかと思った。

 休憩をはさんで2曲目は、リヒャルト・シュトラウスの「13管楽器のためのセレナード変ホ長調」。13管楽器というとすぐにモーツァルトの「グラン・パルティータ」を思い出すわけだが、モーツァルトのバセットホルン2本の代わりに、シュトラウスの場合はフルート2本が入っている。フルートが入るかどうかで、全体の音はずいぶん変わるものだと思った。華やかになる(たしかに……)。でも、聴きなれた(オーケストラの)管楽器パートの音になる。その点が……。

 3曲目はメンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」。ホグウッド校訂版第2稿とのこと。プログラムノートにセルパン(※)という楽器が第4楽章で使われていると書いてあった。どんな音かと注目していたが、残念ながら聴き取れなかった。終演後プログラムノートを読み直したら、コントラファゴットに重ねて、とあった。コントラファゴットに集中していればよかったかもしれない。ともあれ、優秀な指揮者とオーケストラとの出会い。心地よい緊張感のある演奏だった。
(2014.11.21.東京芸術劇場)

(※)セルパン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%B3
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阪哲朗/東京シティ・フィル

2014年11月21日 | 音楽
 阪哲朗が振った東京シティ・フィルの定期。今シーズンでは一番楽しみにしていた定期だ。めったに聴けない曲目。なので、集客は難しいかも――と思っていた。会場に行ったら、予想以上に入りは悪かった。でも、指揮者もオーケストラも熱演だった。聴衆の反応も熱かった。

 1曲目はヨーゼフ・マルティン・クラウス(1756‐1792)の交響曲ハ短調。CDは2種類持っているが、実演を聴くのは初めてだ。弦は6‐6‐6‐3‐2の編成で対向配置(管はオーボエとファゴットが各2、ホルンが4)。小編成の割には(とくに弦が)よく鳴っていた。阪哲朗の指揮のゆえだと思う。

 クラウスは「スウェーデンのモーツァルト」と呼ばれている。モーツァルトと同年生まれ、没年はモーツァルトの翌年。ドイツ人だが、スウェーデンの宮廷で活躍した。

 昔(あれはいつだったか)、シュトゥットガルト歌劇場がクラウスのオペラ「カルタゴのエネアス」を上演したことがある。当時の音楽監督ローター・ツァグロセクの指揮、ペーター・コンヴィチュニーの演出だった。同歌劇場としても力の入ったプロダクションだったと思う。わたしも観に行った。でも、劇場に入ってから簡単なあらすじを読んだだけでは、舞台上の出来事が理解できなかった。今では笑い話だ。

 2曲目はニールセンのクラリネット協奏曲。東京シティ・フィルは、今シーズンは同曲、来シーズンはフルート協奏曲と、ニールセン晩年の2曲の協奏曲を取り上げる。ニールセン好きには堪らない選曲だ。

 クラリネット協奏曲の独奏者は橋本杏奈。若い女性だ。イギリスが本拠地らしい。難曲のこの曲を自分のものにしている様子だ。焦点の合った的確な演奏。その演奏を聴いていると、クラリネットのキャラクターとしてニールセンが抱いていたイメージは、ずいぶん特殊だったのではないか――と。モーツァルトやブラームスが抱いていた枯淡のイメージではなく、道化師のような(グロテスクな)おどけ、そして時に垣間見せる孤独、そういったイメージではなかったかと。

 3曲目はクルト・ヴァイルの交響曲第2番。これもいい演奏だった。メリハリがあり(第1楽章)、また時にはオペラの一場面のように濃密な(第2楽章)演奏。各楽章のキャラクターを描き分けた演奏だ。まったく弛緩せずにキリッとまとめた演奏。いかにもオペラ指揮者という感じだ。阪哲朗の力量を示すものだった。
(2014.11.20.東京オペラシティ)
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「アイナダマール」雑感

2014年11月19日 | 音楽
 日生劇場の「アイナダマール」を観た感想を(拙いながら)アップしたので、他の方のブログも拝見した。左欄のブックマークに登録しているブログは、いずれもそのご意見を尊重している方々なので、興味深く読ませてもらった。

 感想も評価も、人さまざまであっていいのだが、さてこの作品、全体的にはどう受け止められたのだろうと、さぐってみたい気もする。

 昨年の「リア」、一昨年の「メデア」のような現代オペラの、直球ど真ん中という感じの作品と比べると、「アイナダマール」はラテン音楽と現代オペラとのあいだを行き来するユニークな作品だ。そのジャンル横断的なエンタテイメント性をよしとするか否かは、人によって分かれるかもしれない。

 わたし自身はすごく面白かった。だが、正直にいうと、事前にCDで聴いていたときほど面白くはなかった。ラテン音楽の感じがしなかったからだ。その点が不満だったので、ブログに書かせてもらった。たぶん演奏のせいだと思う。

 ゴリホフの音楽は「マルコ受難曲」しか知らないが、初めてその曲を聴いたときの衝撃は、今でも忘れられない。どういう音楽かは書かないでおくので、ナクソス・ミュージック・ライブラリーにアクセス可能な方には、一聴をお勧めしたい。

 付言すると、「マルコ受難曲」は2000年のバッハ・イヤーのためにシュトゥットガルトの国際バッハ・アカデミーが委嘱した作品の一つだ。同アカデミーは4人の作曲家に委嘱した。グバイドゥーリナにはヨハネ受難曲を、タン・ドゥンにはマタイ受難曲を、リームにはルカ受難曲を、そしてゴリホフにはマルコ受難曲を。わたしは幸いにも、後日、グバイドゥーリナとタン・ドゥンの受難曲を生で聴く機会を得た。グバイドゥーリナの曲には魂が震えた。

 話は変わるが、「アイナダマール」の公演プログラムに台本作家デイヴィッド・ヘンリー・ウォンのエッセイが掲載されていた。大変興味深かった。このオペラは2003年にタングルウッド音楽祭で初演されたが、2005年にサンタフェ・オペラで再演される際に改訂された。その経緯や内容が具体的に書かれていた。

 なるほど、台本、ひいてはオペラは、こうやって芸術的に高められるのか――と、創作の現場を覗くような(現場の創造的な空気を吸うような)思いがした。そういう改訂を経て、この傑作オペラ(‘現代オペラ’の尺度では測れないオペラ)が誕生したのだと、感慨もひとしおだった。
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アイナダマール

2014年11月17日 | 音楽
 日生劇場の「アイナダマール」。ありがたいことに、公演に向けてのプレイベントが充実していた。わたしが参加したのは、6月のプレコンサートと8月の演劇公演「マリアナ・ピネーダ」(ロルカの戯曲)。プレコンサートでは石塚隆充(いしずか・たかみつ)というカンタオール(フラメンコ歌手)を知り、「マリアナ・ピネーダ」では「アイナダマール」の背景となるロルカの戯曲を知った。

 「アイナダマール」は待望の公演だった。以前に他団体が取り上げようとしたが、諸事情により中止となった。それを日生劇場が引き継いだのだろう。そのお蔭で――というとその団体には失礼になるが――上記のような事前準備を経ることができた。

 心配していた歌手は――というのは、いつも歌っている音楽とは若干ちがう音楽だからだ――、主要な3歌手とも上出来だった。横山恵子と清水華澄は、さすがに経験豊かな歌手らしく、情熱を込めた歌だった。初めて耳にする見角悠代(みかど・はるよ)には瞠目した。しっかりした歌だ。プロフィールによると、2009年の東京室内歌劇場の「グラン・マカーブル」(リゲティ作曲)でヴィーナス/ゲポポ役を歌ったとのこと(わたしが観た日は森川栄子だった)。どうりで、という感じだ。

 石塚隆充がすばらしかったのは言うまでもない。その歌声は今も耳に残っている。

 粟國淳の演出も悪くなかった。実在の人物マリアナ・ピネーダ(1804‐1831)からロルカ(1898‐1936)へと、そして演劇「マリアナ・ピネーダ」の初演女優マルガリータ・シルグ(1888‐1969)を介して若い弟子ヌリア(モデルはあるが、創作上の人物)へと受け継がれていく人間への愛、そして自由への渇望を、きちんと舞台上で見せていた。

 オーケストラには、クラシック音楽のオペラ(現代オペラ)とラテン音楽がミックスしたこの作品の、ラテン音楽の部分に、もっと弾けるようなリズム感があったら――と、それが実感だ。オーケストラのせいか、指揮者のせいかは分からないが。

 合唱は、とくに最初の頃は、頼りなかった。‘ストリート・シンガー的なスタイル’(プログラムに掲載された長木誠司氏のエッセイの言葉)の歌唱なので、オペラ的な発声は必要ないが、もっと庶民的な活気がほしかった。

 結局のところ、全体としては、もっと磨き上げてほしかった。仮に再演を重ねたらどうなるのか。
(2014.11.15.日生劇場)
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インキネン/日本フィル

2014年11月15日 | 音楽
 山田和樹(9月)、ラザレフ(10月)と続いた日本フィルの定期。今月はインキネンだ。

 1曲目はシベリウスの交響詩「大洋の女神」。終演後のアフタートークでインキネンが話していたが、マーラー(今回は第7番)と組み合わせて、シベリウスのあまり演奏されていない曲を紹介したいとのこと。併せてワタナベ(渡邉暁雄)以来のシベリウス演奏の伝統がある日本フィルと自分とをつなぐものとして、シベリウスを演奏していきたいと。

 「大洋の女神」は交響曲第4番と第5番のあいだに書かれた曲だ。グロッケンシュピール(鉄琴)の使用が第4番と共通していて微笑ましい。

 冒頭の弦が繊細きわまりない音だった。細い繊維が風に揺られて、そこに日が射し、透けて見える――といった感覚の音。だが、途中から波が渦巻くような部分では、もっと暗い音色がほしいと思った。

 2曲目はマーラーの交響曲第7番「夜の歌」。精細で明るい音という基調はこの曲でも変わらない。マーラーの中でも最大級の編成だが、けっして咆哮せず、薄いテクスチュアーを丹念に織り上げていく。

 そう思って聴いていたら、第5楽章で思わぬ発見があった。いつもは唐突で、なんだか座りの悪い、躁状態の音楽だと思っていたが、この演奏では、むしろ自然で、こうでなければならない音楽のように感じられた。

 もう少し実感に即していうと、第1楽章から第4楽章までの質量の総量を、この第5楽章が受け止め、それを別次元に止揚する――そんな凝縮した質量を備えているように感じられたのだ。だから、第5楽章はこの音楽でなければならないと。

 こんな経験は初めてだった。それはインキネン/日本フィルの演奏に由来する。第4楽章までの一見淡々とした演奏は、第5楽章の(とくに冒頭テーマの)誇張のない演奏とまったく断絶がなく、まっすぐつながっていたからだと思う。

 従来はこの曲を文学的に解釈し過ぎていたのではないか。いや、文学的に解釈できないので、苛立っていたのではないか。もうそろそろ、第5楽章をめぐる議論には、終止符を打つ時期ではないだろうか――と、そんなことを思わせる新感覚があった。

 個々のプレイヤーでは若きホルン奏者、日橋辰朗さんに感心した。切れ味の鋭い演奏だった。そういえば最初に日橋さんに注目したのも、インキネンが振ったときだった(「ワルキューレ」の第1幕)。
(2014.11.14.サントリーホール)
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ご臨終

2014年11月13日 | 演劇
 新国立劇場の二人芝居シリーズ第2弾「ご臨終」。これはいい芝居だ。よくできた戯曲だと思う。作者はモーリス・パニッチMorris Panych。1952年生まれのカナダ人だ。

 なにがよかったかというと、なにかが起きるからだ。芝居、とくに新作の場合、思わせぶりな展開で、なにかが起きそうで、結局なにも起きないという作品がある中で、この芝居では、なにかが起きる。取り返しのつかないなにか――。その衝撃と波紋が描かれる。それが起きて初めて見える人生がある。

 回りくどい言い方になったが、こんな言い方をしたのも、この芝居ではネタバレは厳禁だと思ったからだ。初めて観た方(わたしもそうだ)のショックと余韻を大切にしたいと思ったからだ。

 もっとも、この芝居はすでに日本でも何度か上演されている。プログラムに掲載された吉原豊司氏(今回の上演に当たっての翻訳者)のエッセイ「モーリス・パニッチの劇世界」によれば、2006年以来すでに3団体が上演している(原作は1995年カナダ初演)。

 なので、この芝居は、結末を知っていても、十分楽しめる芝居なのだろう。結末を知っていても、それなりに、また別の楽しみ方(=味わい方)があるのだろう。

 一晩たった今も、わたしはまだ余韻の中にいる。「老婆」はなにを思っていたのだろう。「中年男」は今、なにを思っているのだろう。「向かいのおばあさん」は、もしかしたら、分かっていたのだろうか。それぞれの無念さと、満ち足りた想いと、その他いろんな想いがないまぜになって、わたしの中でこだましている。

 中年男は温水洋一(ぬくみず・よういち)、老婆は江波杏子(えなみ・きょうこ)。2人とも名優だ。2人の名優の味わい深い演技――、それがこの公演を性格付けている。言い換えるなら、俳優が替われば、芝居の印象はそうとう変わるだろう。

 中年男と老婆の反応のよさは、2人の名演のためであるが、同時に演出のノゾエ征爾の力量でもあるかもしれない。まだ若い演出家だが、ニュアンス豊かで、切れ味のよい、一種の敏感さが、舞台から感じられた。ノーブルな感性というか、筋のよさが感じられた。

 BGMにジャズやスタンダードなポピュラー曲が静かに流れていた。それらに耳を傾けることも楽しかった。老婆が若い頃に聴いていた曲だろうか。作者のパニッチと同世代であるわたしにも、懐かしい曲があった。
(2014.11.12.新国立劇場小劇場)
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セザール・フランクの教会

2014年11月10日 | 音楽
 パリの話題をもう少し。今回は6泊もしたので、今まで行けなかった所にもずいぶん行けた。セザール・フランク(1822‐1890)がオルガニストを務めていたサント・クロチルド教会(※)もその一つだ。

 大学を出て間もない頃(まだ20代の前半だ)、フランクに嵌まった時期があった。きっかけはヴァイオリン・ソナタだった。仕事からまっすぐ帰った日は、毎晩のように聴いていた。そのうち他の曲にも手を広げた。ピアノ五重奏曲はなかでも好きだった。わたしは密かにフランキストを自認していた。

 フランクは遅咲きの大家だ。楽才は早くからあらわれ、父親は(モーツァルトの父親のように)フランクを売り出そうとしたが、フランクの控えめな性格は、それには向かなかった。父親から離れ、パリで生活を始めた(フランクはベルギー生まれだが、パリ音楽院に学んだ。その後ベルギーに帰国したが、再びパリに戻った)。

 フランクはいくつかの教会オルガニストを務めた。1858年にサント・クロチルド教会のオルガニストに就任してからは、亡くなるまでその職に留まった。後年パリ音楽院の教授になったが、サント・クロチルド教会のオルガニストは続けた。

 サント・クロチルド教会ってどういう所だろうと、昔から考えていた。行ったこともないのに、セピア色の古い写真のようなイメージが、わたしの中にできていた。

 その教会は、サンジェルマン通りから一本奥に入った裏通りにあった。あたりは静かな住宅街だ。2本の尖塔が聳えている。それほど大きくはない。堂々としているが、重厚というよりも、シャープな感じだ。中に入ってみると、意外に明るかった。窓が多いことに加えて、壁が白っぽいからだ。暗い教会が多い中で、一風変わっていた。

 見上げるとオルガンがあった。白っぽい教会内部にあって、オルガンだけが焦げ茶色だ。重厚な感じがした。パンフレットを読むと、初代のオルガニストはフランクだったと(少し誇らしげに)書いてある。それを読んで、わたしも嬉しくなった。

 帰国して、週末に、久しぶりにフランクのオルガン曲「前奏曲、フーガと変奏曲」を聴いた(アンドレ・イゾワールの演奏)。驚いたことに、目の前にあの明るい教会の内部が、パッと浮かんできた。清澄な世界。わたしの精神にこびり付いた垢が、洗い清められるようだった。

 これは個人的な感覚だが――、この曲の本質が分かったような気がした。

(※)サント・クロチルド教会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%81%E3%83%AB%E3%83%89%E8%81%96%E5%A0%82
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パリ日記5:ヴォーチェ弦楽四重奏団

2014年11月09日 | 音楽
 翌日は帰国日だったが、夜便をとったので、日中は空いていた。朝ホテルをチェックアウトして(荷物はホテルに預けて)、チュイルリー公園に行った。前日までは暖かかったが、この日は寒くなった。枯葉が舞って晩秋のパリらしくなった。

 チュイルリー公園の外れにオランジュリー美術館がある。セーヌ川の対岸のオルセー美術館は長蛇の列だが、こちらは空いていた。モネの大作「睡蓮」4点。さすがに力がある。間近で見るとキャンバスの継ぎ目がよく分かった。必ずしも線がつながっていないことを発見した。

 メトロに乗ってシャンゼリゼ劇場へ。室内楽の演奏会。当日券で入った。かなり盛況だったが、すぐに空席が見つかった(全席自由席)。

 ヴォーチェ弦楽四重奏団(今年12月に来日予定だ)にヴィオラ奏者のリーズ・ベルトーLise Berthaudが加わった演奏会だ。

 1曲目はモーツァルトの弦楽五重奏曲第3番ハ長調K.515。各パートの均衡がとれて、この曲のあるべき姿を再現した演奏だ。なるほど、この曲はK.500番台に相応しい成熟した書法なのだなと、よく納得できる演奏だった。姉妹作の第4番ト短調K.516(小林秀雄が「疾走するかなしみ」というアンリ・ゲオンの言葉を引用した曲だ)に惹かれがちだが、第3番もそれと拮抗する名作だ。

 2曲目はフィリップ・エルサンPhilippe Hersant(1948‐)のヴィオラ独奏曲「パヴァーヌ」。5分ほどの短い曲だ。ノスタルジックなメロディーに不協和音のきしみが交錯する。魅力的な曲だ。独奏はベルトー。作曲者もカーテンコールに現れた。満場の拍手。

 3曲目はブラームスの弦楽五重奏曲第2番ト長調作品111。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが交替した。それがこの団体のやり方なのだろう。面白いことに、第1と第2が交替すると、演奏のイメージが変わった。ブラームスではよりアグレッシヴな演奏になった。それがこの曲に合っていた。最晩年の、すでに交響曲第4番もドッペル・コンチェルトも書き上げたブラームスの、なおも内に燃える情熱の炎。

 アンコールにドヴォルザークの弦楽五重奏曲変ホ長調作品97の第2楽章(民族舞曲風のスケルツォ楽章)が演奏された。第1ヴィオラのソロが魅力的だ。モーツァルトでもそうだったが、ヴィオラがソロを取っても内声部が薄くならないのは、弦楽五重奏ならではのことだ。
(2014.11.2.シャンゼリゼ劇場)
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パリ日記4:後宮よりの逃走

2014年11月08日 | 音楽
 翌日もガルニエで、演目はモーツァルトの「後宮よりの逃走」。これは全席完売だった。ガルニエでオペラ、しかもモーツァルトだから当然、ということかもしれないが、もう一つは、演出が人気の女優・映画監督のザブー・ブライトマンZabou Breitmanということもあったかもしれない。

 その演出だが、序曲の途中から、このオペラの前史(コンスタンツェがペドリロとブロンデをお供にして旅行中にトルコ人に捕えられ、それを知ったコンスタンツェの恋人のベルモンテが救出に向かう)をレトロな無声映画で見せるなど、それなりの工夫はあるのだが、総体としては、こういってはなんだが、(今回観たオディやミキエレットのようなプロの仕事と比べて)お嬢様芸的なものだった。

 でも、そのお嬢様芸的な舞台が、ガルニエの独特の雰囲気(ヨーロッパでも類を見ない豪華な装飾と貴族性)に合っていないわけでもなかった。苛々しない自分が可笑しかった。

 歌手はA組、B組のダブルキャスト。初演後(10月16日)間もないので、この日はA組だった。ブロンデをアンナ・プロハスカが歌っていた。知っている歌手はそれくらいだが、他の歌手も見劣りせず、プロハスカだけが目立つということはなかった。皆さん実力ある(もしかすると名もある)人たちなのだろう。

 指揮は音楽監督のフィリップ・ジョルダン。さすがに精彩を放っていた。もっとも、モーツァルトの青春の輝きであるこのオペラを、つまらなく演奏する人は、ほとんどいないかもしれない。でも、そんなレベルではなく、活きのいい音楽の運びは、ジョルダンの音楽性を感じさせた。

 じつはこの公演で一番感じたことは、オーケストラも声楽も、聴きやすい音だということだ。2日間バスティーユで聴いた後、前日はガルニエだったが、PAを使う現代音楽だったので、気が付かなかったのだが、生音のこの公演を聴いて、ガルニエの音は尖っていると思った。残響が少ない(ほとんどない)ので、音が生々しいのだ。

 それに比べてバスティーユの音は、残響が多いせいか、または巨大な空間のせいか(もしくはその両方のせいか)、音の角がとれて穏やかになる。その音が沈殿する。

 現代的な劇場とは難しいものだと思った。顧みて新国立劇場はどうだろう。バスティーユよりはよっぽどいいと思う。それにしては、時々、生気のない公演があるが――。
(2014.11.1.パリ国立歌劇場ガルニエ)
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パリ日記3:雨

2014年11月07日 | 音楽
 翌日はガルニエでコンテンポラリー・ダンスの「雨」を観た。じつは最初この公演予定を見たときは、ほとんど関心を持たなかったが、何気なく使用する音楽を見たら、スティーヴ・ライヒの「18人の音楽家のための音楽」とあったので驚いた。えっ、あの「18人の……」か。でも、テープ録音ではないだろうな――。いや、ちゃんと演奏者名が書いてある。では、生演奏でやるのか――。で、今回の旅をパリに決めた次第だ。

 「18人の音楽家のための音楽」はスティーヴ・ライヒの作品の中では最大規模だ(もっとも、他にオペラがあるが、あれはどういう編成なのだろう)。CDは持っているが、生で聴く機会が訪れるとは、あまり想像していなかった。

 演奏はアンサンブル・イクトゥスEnsemble Ictus。ブリュッセルの現代音楽アンサンブルだ。指揮はジョルジュ・エリ・オクトルGeorges-Elie Octorsというこのアンサンブルの指揮者だ。指揮?「18人の……」に指揮者を置くのか――。でも、たしかにピットの中の指揮者の位置にオクトルが座っていた。文字通り指揮をしていたかどうかは、わたしの席からは目視できなかったが。

 演奏がいいか、わるいかというふうには聴かなかったが、ともかく面白かった。CD(スティーヴ・ライヒのアンサンブルの演奏)で聴いていたイメージ通りなのだが、音の精密さよりも、ライヴ感が先行する演奏だった。

 本音をいえば、ピットの中での演奏よりも、ステージ上での演奏を聴きたい(見たい)気がした。たとえばこの曲の‘セクション’から‘セクション’への移行の際の演奏者間のコンタクトの取り方はどうか、とか。でも、今回は仕方がない。

 振付はAnne Teresa de Keersmaekerという人。10人のダンサー(男性3人、女性7人)が一瞬の休みもなく動き回る。予想がつかず、ランダムな動きだ。それが地面に落ちた雨粒のように感じられる。もっとも、床には多数の線や点が記されていたので、ダンサーの動きは厳密に規定されているわけだ。

 こういう作品を(別にこの作品でなくてもいいが)日本で観ることができる日は、いつ来るのだろう。そんなに遠くないかもしれない。でも、ダンサーはいざ知らず、演奏にかんしては、この種の曲を演奏する常設のアンサンブルが、今は見当たらないことが、ネックになるかもしれない。
(2014.10.31.パリ国立歌劇場ガルニエ)
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パリ日記2:セヴィリアの理髪師

2014年11月06日 | 音楽
 翌日は「セヴィリアの理髪師」。ダミアーノ・ミキエレットの演出が注目だ。この演出はまったくの新演出というわけではなく、2010年9月のジュネーヴ大劇場のための演出の改訂版だそうだ。

 今回どの程度手が入っているかは分からないが、ともかくこれは徹底した、一種突き抜けたところのある演出だ。いかにもミキエレットらしい演出。今が旬の演出家の仕事という感じがする。

 場所はどこかの下町の(‘場末の‘といったほうがいいかもしれない)4階建ての団地のような建物。そこにドン・バルトロやロジーナそして家政婦のベルタの部屋がある。それだけではなく、他の住人もいる。そこには皆それぞれの生活がある。さらにまた外のベンチで日がな一日新聞を読んでいる老人もいる。アイスクリーム屋もいる。どこにでもありそうな日常風景だ。

 アルマヴィーヴァ伯爵は高級車を乗り回すお金持ちの若者。ロジーナと相思相愛だ。ドン・バルトロが邪魔をする。その騒動に他の住人も加わったり、無関心でいたり――。

 舞台のどこかで絶えずなにかが起こっている。そのディテールを追おうとすると、本筋がそっちのけになる。これは口をあんぐり開けて、‘おもちゃ箱をひっくり返したような’その舞台を眺めていればいい。そういう底抜けな舞台だ。

 正直にいえば、このような舞台も、今の新国立劇場なら、そろそろ射程距離に入ってきた気がする。ディテールが多いので、作り込みは大変だろうが、でも、できないことはないと思う。日本にいてもこういう舞台を観ることができる日は、もう遠くないのではないか。

 歌手はA組、B組のダブルキャストだ(前日の「トスカ」はA組、B組、C組のトリプルキャスト)。この日はB組(「トスカ」はC組)。

 結果的には若手中心のB組でよかった。フィガロ役のFlorian Sempeyは張りのある声で元気いっぱい。ロジーナ役のMarina Comparatoは滑らかなベルカントに聴きほれた。アルマヴィーヴァ伯爵役のEdgardo Rochaは、やや線が細いながらも、軽い胸声の高音を持っていた。なお、最後のアルマヴィーヴァ伯爵の大アリアはカットされていた。今後何度も使う演出なので、リスクは取れなかったのだろう。

 指揮はカルロ・モンタナーロ。序曲では縦の線が合わない感じがしたが、声楽が入ってからは気にならなくなった。
(2014.10.30.パリ国立歌劇場バスティーユ)
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パリ日記1:トスカ

2014年11月05日 | 音楽
 10月下旬に休暇を取れることになったので、どこでなにをやっているか調べてみた。いろいろ観たいものがあったが、結局パリのガルニエでスティーヴ・ライヒの「18人の音楽家のための音楽」にダンスを付けた演目があったので、それにした。その前後に新演出のオペラ3作がある。では、パリにじっとしているか――と。

 最初に観たのはオペラ「トスカ」。「トスカ」を観るのは何年ぶりだろう。10年か、ひょっとすると20年ぶりくらいではないだろうか。

 一番の興味はピエール・オディPierre Audiの新演出だ。オディ(アウディとも表記される)はネーデルランド国立オペラの芸術監督を務めている人だ。

 第1幕は岩山をくりぬいた石窟(のように見えた)。石窟には教会がしつらえられている。中央には地上から石窟に降りる階段がある。階段をはさんで向かって右側にはカヴァラドッシが絵を描いている仕事場。左側には礼拝堂。

 アンジェロッティもスカルピアも岩山の上から登場する。岩山はかなり高いので、その登場の場面はインパクトがある。第1幕最後のテ・デウムの場面も司教の行列は岩山の上に登場する。威圧するような様子だ。司教の足に接吻するスカルピア。

 パリでオペラを観たことは何度かあるが、いわゆる読み替えとか、テクストにたいする批判的な視点とかはあまり感じない代わりに、視覚的なインパクトがある例がある。これもその一つだ。

 第2幕は普通の(イタリア的な赤い色調の)スカルピアの部屋。だが、頭上に巨大な十字架が吊り下がっている。黒光りした十字架。舞台全面にのしかかるようだ。

 第3幕は聖アンジェロ城ではなく、戦場の野営地のように見えた。今年は第一次世界大戦開戦から100年目に当たるので、その関係だろうか。頭上の十字架はそのまま残っている。カヴァラドッシを処刑する兵士に祝福を与える従軍牧師。なんだかやり切れない光景だ。そして処刑。さて、トスカは(身を投げる場所がないのだが)どうするか。突然、上から紗幕が落ちてきた。トスカの死の暗示か。舞台奥に歩み去るトスカ。で、幕。

 歌手はミラノやロンドン、ニューヨークでも歌っている人たちだが、新国立劇場もひけを取らない、という水準だった。むしろダニエル・オーレン指揮のオーケストラに感心した。煽るだけではなく、しっとりした部分に聴きどころがあった。
(2014.10.29.パリ国立歌劇場バスティーユ)
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