Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

MUSIC TOMORROW 2024

2024年05月29日 | 音楽
 N響恒例のMUSIC TOMORROW 2024。今年度の尾高賞受賞作品は湯浅譲二(1929-)の「哀歌(エレジィ)-for my wife, Reiko-」(2023)。コンサートに先立ち授賞式が行われた。94歳の湯浅譲二。体調不良の噂もきく。はたして授賞式に出席できるのかと危ぶんだが、車椅子にのって現れた。数年前までは元気に演奏会にいらしていた。だいぶ弱ったようだ。わたしはそっと敬慕の念を抱いた。

 「哀歌(エレジィ)」は2曲目に演奏されたが、まず「哀歌(エレジィ)」から書き始めると、わたしもこの曲は傑作だと思う。奥様を亡くした悲しみから生まれた曲だ。その慟哭の想いがあふれる。音の密度(物理的な密度ではなく、音に込めた感情の濃さ)が半端ではない。わたしは杉山洋一指揮都響の初演も聴いた。そのときも感動したが、今回のペーター・ルンデル指揮N響の演奏にも感動した。透明な悲しみが湧き上がった。

 今書いたように、今回の指揮はペーター・ルンデルだが、当初の予定はペーテル・エトヴェシュ(1944‐2024)だった。エトヴェシュは体調不良により降板し、今年3月に亡くなった。著名な指揮者・作曲家だったエトヴェシュは、プログラムに自作を2曲組んでいた。ルンデルはそのプログラムを引き継いだ。期せずして今回はエトヴェシュの追悼公演にもなった。

 1曲目はエトヴェシュの「マレーヴィチを読む」(2018)。マレーヴィチ(1879‐1935)はロシア・アヴァンギャルドの画家だ。本作品はマレーヴィチの「シュプレマティズムNo.56」を素材にする(白石美雪氏のプログラムノーツより)。上掲のチラシ(↑)は「シュプレマティズムNo.56」を自由に再構成したものだ。3管編成が基本の大オーケストラに、ツィンバロン、ハモンド・オルガン、エレクトリック・ギター、ベース・ギター各1が加わる。冒頭、ハモンド・オルガン(だったと思う)の音が鳴る。普段オーケストラでは聴きなれない音だ。ハッとする。その後もツィンバロン、エレクトリック・ギターなどの音が炸裂する。

 3曲目はエトヴェシュの「ハープ協奏曲」(2023)。ハープ独奏はグザヴィエ・ドゥ・メストレ。エトヴェシュ最後の作品(のひとつ)だろう。全3楽章からなる。アレグロ・エ・フェリーチェと表示された第1楽章は、ハープのカデンツァから始まる。明るく幸福感に満ちた音楽が続く。これがエトヴェシュの最後の心境かと思うと感慨深い。第3楽章はハープの台座を叩く音も加わり、活気がある。

 4曲目はトリスタン・ミュライユ(1947‐)の「嵐の目」(2022)。フランソワ・フレデリック・ギイのピアノ独奏が入る。スペクトル楽派特有の音の美しさがある。アンコールにドビュッシーの「花火」が演奏された。ドビュッシーの前衛性があらわになる。
(2024.5.28.東京オペラシティ)
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マーク=アンソニー・ターネジの音楽

2024年05月23日 | 音楽
 東京オペラシティ恒例の「コンポ―ジアム2024」。今年の審査員はマーク=アンソニー・ターネジ(1960‐)。演奏会の「マーク=アンソニー・ターネジの音楽」はポール・ダニエル指揮都響の演奏で開かれた。

 1曲目はストラヴィンスキーの「管楽器のためのサンフォニー」(1920年版)。この曲はドビュッシーの追悼のために作曲されたらしい(向井大策氏のプログラムノーツより)。管楽アンサンブルのための曲だ。木管13、金管11、合計24とかなり大きい。そのアンサンブルが一糸乱れずに演奏した。目の覚めるようなシャープな演奏だ。都響のメンバーの他に在京オーケストラの首席奏者も加わっていた。それらの演奏者の力量はもちろんだが、ポール・ダニエルの統率力にも目をみはった。

 2曲目はシベリウスの劇音楽「クオレマ」から「カンツォネッタ」。シベリウス自身が弦楽合奏用に編曲したものを、ストラヴィンスキーがクラリネット、バスクラリネット、4本のホルン、コントラバスという一風変わったアンサンブル用に再編曲した。ともかく珍しい曲を聴いた。

 3曲目はターネジの「ラスト・ソング・フォー・オリー」。オリーとは作曲家・指揮者のオリヴァー・ナッセンのことだ。ナッセンはターネジよりも8歳年上だが、ターネジの作曲の師であるとともに、親友でもあったらしい。ナッセンが亡くなったので、それを悼んでターネジが作曲した曲。ターネジも都響との関係が深いが、ナッセンも都響を何度か振ったことがあるので、期待していたが、アンサンブルに緩さがあった。

 4曲目はターネジの「ビーコンズ」。約3分の短い曲だが、極彩色の目の覚めるような曲だ。目の前をカラフルな光線が飛び交うような感覚になる。ターネジは現代の作曲家の中ではとびきり豊かな色彩感の持ち主だと認識を新たにした。

 5曲目はターネジの「リメンバリング」。全4楽章からなり、第1楽章は速い楽章、第2楽章は緩徐楽章、第3楽章はスケルツォ、第4楽章はエレジー(緩徐楽章)なので、チャイコフスキーの「悲愴」交響曲に似た構成といえる。ともかく充実した音楽だ。ターネジが作曲当時(2014~15年)の持てるすべてを投入した作品という手ごたえがある。

 特徴はヴァイオリンを欠くオーケストラ編成だ。ストラヴィンスキーの「詩編交響曲」に似ている。「詩編交響曲」の場合はヴァイオリンの穴を声楽が埋めるが、「リメンバリング」の場合は木管・金管が前面に出る。演奏は見事の一言に尽きる。引き締まったアンサンブルと瞬発力、感情移入、すべての点で申し分ない。
(2024.5.22.東京オペラシティ)
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ヴァルチュハ/読響

2024年05月22日 | 音楽
 今年4月に読響の首席客演指揮者に就任したユライ・ヴァルチュハ。読響を振ったのは一昨年8月が初めてだ。わたしはそのときは都合で聴けなかった。今回が初めてのヴァルチュハ体験。曲目はマーラーの交響曲第3番。ちなみに一昨年8月の曲目はマーラーの交響曲第9番だった。

 長大な第1楽章では、トロンボーンがオーケストラ全体に君臨するかのように轟きわたった。底光りするような音色だ。トロンボーンが古代ギリシャの神ディオニュソスを象徴するのだとしたら、わたしは初めてそれを実感したように思う。

 トロンボーンにかぎらず、第1楽章全体にわたって、音の陰影が濃い。輝くような音から暗くくぐもるような音まで、明暗のコントラストがはっきり付けられている。音のイメージが徹底され、音楽が深く彫琢される。ヴァルチュハは、心地よさよりも、音楽の骨格を重視するタイプのようだ。現代の指揮者界の星といわれるマケラとか、その路線を行くと思われる山田和樹とか、そういった潮流とは別のところにいる人のようだ。

 プロフィールによると、ヴァルチュハは1976年ブラティスラヴァ(当時チェコ・スロバキア、現スロバキア)生まれ。今年48歳だ。スロバキア出身の指揮者というと、新星日本交響楽団(2001年に東京フィルと合併した)の首席指揮者を務めたオンドレイ・レナルト(1942‐)を思い出す。レナルトもマーラーで数々の名演を残した。その演奏の特徴は骨太の構築と大きなスケール感にあった。レナルトとヴァルチュハとは親子ほどの年齢差があるが、何か共通項を感じる。

 第2楽章は、わたしには音楽が流れないように感じられた。停滞しているというほどではないが、もう少し流れがほしかった。第3楽章も基本的には同じだが、音楽が第2楽章よりも込み入っているので、その分、彫りの深いヴァルチュハの演奏に納得できた。なおポストホルン(トランペットで代用長谷川京介氏のブログによると、本物のポストホルンだったらしい)はP席の後方の通路で、ドアを開けて演奏された。アルプスの牧草地が目に浮かんだ。

 第4楽章のメゾソプラノ独唱はエリザベス・デションというアメリカ人歌手が歌った。しっかりした歌い方で、声にも不足はないが、発声に少し癖があるようだ。超絶的な深い声を期待するわたしには、十分な満足は得られなかった。第5楽章の女声合唱は国立音楽大学(若い声が好ましい)、児童合唱は東京少年少女合唱隊が歌った。

 第6楽章は練りに練った演奏だった。だが、ずっと気になっていた音色の暗さが、この楽章でも続き、とくに最後に和音が解決する部分では、音の輝きが足りなかった。
(2024.5.21.サントリーホール)
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井上道義/日本フィル(横浜定期)

2024年05月19日 | 音楽
 井上道義が振る日本フィルの横浜定期。今年12月末での指揮活動からの引退を表明する井上道義。日本フィルを振る最後の演奏会だ。

 プログラムはオール・ショスタコーヴィチ・プロ。1曲目はチェロ協奏曲第2番。めったに実演を聴く機会のない曲だが、今まで聴いた実演の中では、抜群のおもしろさだった。ショスタコーヴィチ晩年の様式が顕著な曲だ。晦渋とも、暗いとも、謎とも、いろいろなイメージで語られるが、演奏前にマイクをもって現れた井上道義は「ユーモア」といった。「心に余裕がないとユーモアは生まれない」と。

 そのような解釈が関係するのかどうか、ともかく長大な第3楽章が驚くほどおもしろく聴けた。延々に続くチェロのモノローグが、少しも重くなく、むしろ軽やかだった。チェロ独奏は佐藤晴真だが、その独特の豊かな音と丸みをおびた表現、そして日本フィルの管楽器の色彩感、加えて編成を10型に絞った弦楽器の薄さ。それらが相俟ってのおもしろさだった。

 第3楽章だけではなく、たとえば第1楽章の独奏チェロのカデンツァとバスドラムの対話がおもしろく聴けた。あのバスドラムはいったい何だろう。わたしはマーラーの未完に終わった交響曲第10番の最終楽章のバスドラムを思い出したが、どちらも意味深長だ。それ以外にも、第3楽章冒頭のホルンのファンファーレも何か意味がありそうだし、最後の打楽器のリズム音型も(ショスタコーヴィチ最晩年の表象だが)不思議だ。

 要するに、それらのポイントをおもしろく聴かせる演奏だった。佐藤晴真の伸びやかな音楽性はもちろんだが、井上道義が指揮する日本フィルの、キャラが立った、クリアな演奏のためだろう。なお佐藤晴真はアンコールに「鳥の歌」を演奏した。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第10番。弦楽器は16型に拡大された。分厚い弦楽器から繰り出されるパワーあふれる演奏には、ラザレフの薫陶が感じられた。だがラザレフが指揮するショスタコーヴィチはモノトーンで、それがいかにもソ連という時代性を感じさせたが、井上道義が振ると、色彩感が生まれ、明るくポジティブになる。それはそれで個性だろう。惜しむらくは、第4楽章の最後がお祭り騒ぎになったことだ。井上道義が日本フィルを振る最後の演奏会なのだから、それは認めるべきなのか。それとも画竜点睛を欠くというべきなのか。

 演奏終了後、日本フィルから井上道義に花束が贈られた。井上道義は1976年に日本フィルを振ってデビューした。わたしはそれを聴いた。颯爽としたデビューだった。
(2024.5.18.横浜みなとみらいホール)
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ノット/東響

2024年05月13日 | 音楽
 昨日も書いたが、定期会員になっている5つのオーケストラのうち4つの演奏会が土日に重なり、2つを振り替えて聴いた4つの演奏会。最後はノット指揮の東響。ともかくこの演奏会を聴けて良かった。2年後の退任が発表されたノットが、東響であげた数々の成果のうち、この演奏会は忘れられないもののひとつになりそうだ。

 1曲目は武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」。何度も聴いた曲だが、ノット指揮東響の演奏は細部まできっちりして、音楽の区切りが明確で、しかも呼吸感のある演奏だった。武満トーンといわれる音が、過度に柔らかくなく、芯のある音で鳴った。

 2曲目はベルクの演奏会用アリア「ぶどう酒」。武満徹の音楽にはベルクの影響を感じることがあるが、並べて聴くと、武満徹の、音がまばらで隙間の多い書法にたいして、ベルクの場合は高音域から低音域まで音がびっしり詰まっている。図式化して言ってはいけないが、やはり東洋的な感性と西洋的な感性のちがいを感じた。

 オペラ「ルル」と同時期に書かれたこの曲は、動きの多い、猥雑で、媚びるようなところのある音楽だが、実演で聴くと、独唱パート(ソプラノの高橋絵里が健闘した)はもちろんのこと、オーケストラの入り組んだ動きに関心がむかった。

 3曲目はマーラーの「大地の歌」。第1楽章の嵐のような音楽が、混濁せずに、明瞭に鳴った。たいへんな音圧だが、そこを突き抜けてテノール(ベンヤミン・ブルンス)の声が響く。オーケストラにも声にも感心したが、それ以上に「大地の歌」がリュッケルトの詩による一連の歌曲や「亡き子をしのぶ歌」などの先行歌曲集とは別格の曲だと痛感した。もう何十年も聴いている曲なのに、なぜそう思ったかは、演奏の総体(どこがどうとは言い難い)からくるとしか言いようがない。

 第2楽章のメゾソプラノ(ドロティア・ラング)の存在感のある声にも感心した。不遜な言い方になるが、ブルンスやラングのような歌手でなければ「大地の歌」は歌ってはいけないのではないかと思った。少なくともマーラーはこのクラスの歌手を想定して「大地の歌」を書いたのだろうと思った。

 第6楽章の中間部のオーケストラ演奏を経て、メゾソプラノの歌が再開して以降は、ノットとオーケストラと歌手との呼吸がぴったり合い、神がかった演奏になった。その部分の歌詞は解釈に諸説あり、一般的には「友」がこの世との別れ(=死)を歌ったものと解されているが、わたしは啓示を受けたように、死にゆく友(=愛する人)との別れを歌ったものと感じて涙がにじんだ。
(2024.5.12.サントリーホール)
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藤岡幸夫/東京シティ・フィル~ルイージ/N響

2024年05月12日 | 音楽
 昨日は午後は東京シティ・フィルへ、夜はN響へ行った。連チャンは苦手だが、わたしが定期会員になっている5つのオーケストラのうち4つのオーケストラの演奏会が、昨日と今日に重なったため、2つのオーケストラを振り替えたからだ。

 東京シティ・フィルは藤岡幸夫の指揮。1曲目はディーリアスの「夜明け前の歌」。藤岡幸夫がプレトークで「ディーリアスはイギリス音楽の代表のように思われているかもしれないけれど、ディーリアス自身はフランスに住んでいて、フランスが好きだった」(大意)といっていた。なるほど、そういわれてみると、「夜明け前の歌」はフランス近代の音楽のように聴こえた。

 2曲目はリストのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏は福間洸太朗。緩急のメリハリをつけた演奏だ。演奏によっては捉えどころがなくなりがちなこの曲だが、福間洸太朗の演奏は、現在地がはっきりわかる演奏だ。ピアノの音も輝いていた。アンコールにフォーレの「3つの無言歌」から第3番が演奏された。心優しいシンプルな曲だ。

 3曲目はヴォーン・ウィリアムズの交響曲第2番「ロンドン交響曲」。演奏時間約45分の大曲だ。随所に出てくるロンドンの霧とか、老ヴァイオリン弾きとか、ビッグベンの鐘の音とか、そういったエピソードが藤岡幸夫のプレトークで説明されたので、「ああ、これか」と楽しく聴けた。わたしのように吹奏楽をやった人間には、「イギリス民謡組曲」に似た旋律が出るのも楽しかった。

 次にN響へ。指揮はファビオ・ルイージ。1曲目はリッカルド・パンフィリRiccardo Panfili(1979‐)の「戦いに生きて」Abitare la battaglia。現代イタリアの作曲家の作品だ。現代の作品の例に漏れずに、聴きやすい音で、構成もつかみやすい。演奏時間は約16分。3管編成が基本の大きなオーケストラ編成だが、むしろ音は抑制され、静かな緊張感がある。最後は白黒決着がつくのではなく、霧のような響きの中に韜晦する。

 2曲目以降はレスピーギのローマ三部作が演奏された。その演奏順に一ひねりがあった。まず「ローマの松」が演奏され、休憩をはさんで、プログラム後半が「ローマの噴水」と「ローマの祭り」という順だった。

 3曲の中では「ローマの祭り」がもっとも聴き応えがあった。彫りが深くて、ダイナミックで、いかにもヴィルトゥオーゾ・オーケストラの演奏だ。「ローマの祭り」はアメリカで初演される予定で書かれたので、曲自体、他の2曲とは性格が異なるのかもしれない。他の2曲に抜きん出た派手さは、そう考えると腑に落ちる。
(2024.5.11.東京オペラシティ~NHKホール)
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カーチュン・ウォン/日本フィル

2024年05月11日 | 音楽
 カーチュン・ウォンが日本フィルを振ってマーラーの交響曲第9番を演奏した。それは予想もできない演奏だった。第1楽章は音の断片が飛び交うマーラーの音楽の、その断片が鋭角的に発音される。ニュアンスが際立ち、パッチワーク風とも、コラージュ風ともいえるが、その言葉には収まりきらない、全体が崩壊の寸前でとどまっている感覚があった。わたしは現代音楽が好きなのだが、まるで現代音楽を聴くようだった。

 第2楽章はのどかなレントラーやワルツといった舞曲よりも、軋み(きしみ)とか、歪み(ゆがみ)とか、何かそんなものを感じさせた。主体(マーラー)と客体(舞曲)とのかい離といったらいいか。素直には喜べない感覚があった。

 第3楽章は闘争的な音楽だが、その音楽と演奏の間に齟齬がなかった。全4楽章の中でもっとも普通に聴くことができた。終盤に入ってシンバルの一撃の後に平穏な音楽に移行するが、そのときのトランペット首席奏者のオッタビアーノ・クリストーフォリの明るく澄んだ音が、すべての苦しみを浄化するようだった。

 第3楽章が終わったところで、カーチュン・ウォンはいったん指揮台から降りた。気を静めるように長い間を置き、第4楽章は指揮棒なしで振り始めた。そのとき弦楽器から出てきた音の熱量の高さに圧倒された。前3楽章とは明らかに異なる音だ。カーチュン・ウォンの中では、第1楽章~第3楽章が一つのまとまりとなり、第4楽章はそれと対峙する、もう一つの独立した音楽になっているようだった。

 第4楽章で展開された音楽は筆舌に尽くしがたいものがある。リミッターが振りきれるという形容があるが、それを超えて、スケールの点でも、(繰り返しになるが)音に込められた熱量の点でも、普段の日本フィルとは次元が異なる演奏だった。

 周知のように、カーチュン・ウォンと日本フィルは昨年10月にマーラーの交響曲第3番で名演を繰り広げた。私見では、その演奏の特徴は、バランスのとれた構成ときめ細かいアンサンブルにあった。だが第9番の演奏は、第3番の成果に安住せずに、そこからさらに飛躍しようとするチャレンジングなものだった。カーチュン・ウォンの計り知れないパワーを手加減せずに日本フィルにぶつけ、日本フィルの表現力の向上を目指す。いわばカーチュン・ウォンと日本フィルの真剣勝負のような感があった。わたしたち聴衆はその真剣勝負に固唾をのんだ。

 個別の奏者では、ホルンの首席奏者の信末碩才が全楽章にわたって安定した演奏を聴かせた。優れた奏者は、指揮者が優れていればいるほど、実力を発揮するようだ。
(2024.5.10.サントリーホール)
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国立西洋美術館:ゴヤ「戦争の惨禍」

2024年05月08日 | 美術
 国立西洋美術館でゴヤ(1746‐1828)の版画集「戦争の惨禍」が展示中だ(5月26日まで)。全82点。スペイン独立戦争(1808‐1814)の悲惨な状況と、(戦争には勝利したものの)戦後の反動政治による抑圧を、ゴヤの冷徹な目で描いたものだ。

 同美術館は「戦争の惨禍」の初版を所蔵する。これまでもその数点を展示することはあったが、全点の展示は初めてだ。初版はゴヤの死後35年もたった1863年に出た。そのときには80点にとどまった。残りの2点の原版が見つからなかったからだ。その後2点の原版が発見された。同美術館は2点の第2版を所蔵する。

 82点すべての画像は同美術館のHPで見ることができるが、実物のほうが、細かい描写や繊細なニュアンスがよくわかる。本展の解説によると、全体は三部に分けられる。第一部は戦争の現実を描く作品(2番~47番)。虐殺、婦女暴行、その他ありとあらゆる蛮行が描かれる。第二部は戦争中に起きた飢餓を描く作品(48番~64番)。多くの民衆が、戦争で死ぬのではなく、飢えで死ぬ。第三部は戦後の反動政治を描く作品(65番~80番)。戦争に勝ったと思ったら、今度は権力者たちが民衆を抑圧する。

 第一部の戦争のむごたらしさはいうまでもないが、第二部の飢餓も悲惨で(200年前のスペインの話だが)妙にリアルだ。いまの日本でも、やれ中国だ、やれ北朝鮮だと、権力者たちは勇ましいことをいうが、いざ戦争が起きたら、日本でも飢餓が起きることは間違いない。戦争で死に、また飢餓で死ぬのはわたしたちだ。権力者たちではない。

 個々の作品に触れると、本展のHP(↓)に掲載されている59番「茶碗一杯が何になろう?」は、修道女が餓死しそうな男にスープを飲ませようとする。だが題名は、男が間もなく死ぬことを示唆する。それに先立つ58番「大声を出してはならない」は、飢えた人々の間で茫然とたたずむ修道女を描く。その前の57番「健康な者と病める者」は、飢えた人々を救おうと努める修道女を描く。3点の修道女は同一人物だ。57番~59番には一連の物語がある。そのような作例は他にもある。2点一組の作例はかなり多い。2点の対比にゴヤの思考回路が窺える。

 ゴヤの生涯はモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの生きた時代と重なる。モーツァルトは若くして亡くなったが、ベートーヴェンが経験したフランス革命とナポレオン戦争はゴヤにも深い影響を与えた(「戦争の惨禍」で描かれたスペイン独立戦争は、ナポレオンとの戦争だ)。ベートーヴェンやシューベルトが崇高な音楽を書いていた一方にはゴヤの描いた現実があった。
(2024.4.17.国立西洋美術館)

(※)本展のHP
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SOMPO美術館「北欧の神秘」展

2024年05月05日 | 美術
 SOMPO美術館で「北欧の神秘」展が開かれている(6月9日まで。その後、松本市、守山市、静岡市に巡回)。北欧絵画の展覧会は珍しいので、新鮮だ。手つかずの自然や素朴な人々を描いた作品が多い。

 北欧とはいっても、本展はノルウェー、スウェーデン、フィンランドの3か国の画家の作品で構成される。デンマークとアイスランドの画家は含まれない。実質的にはスカンジナビア半島の文化圏の展覧会だ。

 北欧絵画はあまり馴染みがないが、近年、国立西洋美術館がデンマークのハンマースホイ(1864‐1916)の作品を収蔵し、その記念に2008年にハンマースホイ展が開かれた(2020年にも開かれた)。最近はフィンランドのガッレン=カッレラ(1865‐1931)の作品を収蔵し、またスウェーデンの劇作家で小説家のストリンドベリ(1849‐1912)の絵画を収蔵した。興味深い点は、それらの画家(劇作家・小説家)がフィンランドの作曲家のシベリウス(1865‐1957)やデンマークの作曲家のニールセン(1865‐1931)と同世代なことだ。かれらの背景には北欧の民族意識の高まりがある。

 本展には上記のガッレン=カッレラの「画家の母」とストリンドベリの「街」が展示されている。「画家の母」は、国立西洋美術館の「ケイテレ湖」がフィンランドの民族的叙事詩のカレワラに題材をとった風景画であるのとちがって、リアルな肖像画だ(本展のHP↓に画像が載っている)。一方、「街」は国立西洋美術館の「インフェルノ(地獄)」と同様に荒々しい筆触の風景画だ。わたしは「街」に強い印象を受けたが、残念ながら本展のHPには画像が載っていない。

 北欧の画家で一番有名な人はムンク(1863‐1944)だろう。本展には「ベランダにて」が展示されている(本展のHP↓)。雨が多くて憂鬱な北欧の秋。姉妹の立つベランダの床が濡れている。姉妹は雨に煙るフィヨルドを眺める。ベランダの床のピンクと紅葉した樹木の赤がムンクの色だ。

 本展には未知の画家の作品が多い。それらの作品の中でもっとも惹かれた作品は、ニルス・クレーゲル(1858‐1930)というスウェーデンの画家の「春の夜」だ(本展のHP↓)。北欧の春。すでに日が長くなっている。夕日が地平線に沈む。澄みきった藍色の空に渡り鳥が飛ぶ。その鳴き声がきこえるようだ。手前の藪が不気味な形をしている。北欧の人々はこのような藪から超自然的な存在のトロールを想像したのかもしれない。

 トロールはキッテルセン(1857‐1914)というノルウェーの画家のドローイングをデジタル処理した動画が楽しい。トロールは北欧の人々には親しい存在だとよくわかる。

(※)本展のHP
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国立新美術館「遠距離現在 Universal Remote」展

2024年05月02日 | 美術
 国立新美術館で「遠距離現在 Universal Remote」展が開かれている(6月3日まで)。8人と1組の現代美術家の作品の展覧会だ。「遠距離現在」という言葉はあまり聞きなれない言葉だが、開催趣旨は、世界規模に広がる人間活動にあって、人と人との距離、人と社会との距離は近くなったのか、それとも遠くなったのか、ということらしい。

 本展のキーワードはインターネットの普及とパンデミックの経験だ。作品はすべてパンデミック以前に制作されたものだ。それらの作品をパンデミック以後のいま見るとどう見えるか、と本展は問う。

 8人と1組は国も年齢も、そして関心のありようもさまざまだ。わたしがもっとも面白かった作品は、北京とニューヨークを拠点とするシュ・ビン(1955‐)のヴィデオ作品「とんぼの眼」だ。本作品はインターネット上で公開されている監視カメラの映像を切り貼りして作られている。「監視カメラ」の映像が「公開」されている点にまず驚く。そういう時代なのだろうか。

 シュ・ビンの制作チームはそれらの映像を約11,000時間分ダウンロードした。それを切り貼りして約81分のストーリーを作り上げた。いわばストーリーをでっち上げた。ストーリーはある愛の物語だ。中国の貧しい青年がある娘に恋をする。だが娘はつれない。青年はストーカー的に娘を追う。だが娘の気持ちは動かない。ストーリーは奇想天外な変転をたどる。それはストーリーそのものを異化するかのようだ。なお本展のHP(↓)に予告編が載っている。

 本作品は2017年に制作された。制作意図は、社会に無数に設置された監視カメラの存在を人々に意識させることにあったらしい。だが、少なくともわたしは、それらの監視カメラの存在をすでに受け入れてしまっている自分に気付く。むしろわたしは、本作品を、インターネット上に氾濫する映像に気を付けろという警鐘と思った。ストーリーはでっち上げることができる。ましていまはインターネットが権力者による世論誘導のための場となっている。映像の意図を問えと。

 その他の作品では、デンマークのコペンハーゲンで活動するティナ・エングホフ(1957‐)の「心当たりあるご親族へ――」に惹かれた。本作品は27枚の写真からなる。いずれも孤独死した人の部屋の写真だ。本展のHP(↓)に載った写真は、がらんとした部屋に明るい陽光が射す。部屋の主(あるじ)の不在を感じさせる。私事だが、孤独死した元同僚が本年1月に発見された。死亡推定時期は昨年11月中旬。元同僚は家庭に問題を抱えて、長年妻子と別居していた。元同僚はどんな部屋で発見されたのだろうと思う。
(2024.3.8.国立新美術館)

(※)遠距離現在 Universal / Remote | 企画展 | 国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO
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