Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

インバル/都響

2018年03月31日 | 音楽
 都響のB定期の日が、都合が悪くなったので、C定期に振り替えた。指揮はインバルで、プログラムはシューベルトの「未完成」交響曲とチャイコフスキーの「悲愴」交響曲というロ短調プロ。

 「未完成」、すばらしかった。滑らかな流れで、各声部の絡みも丁寧。木管、とくにオーボエとクラリネットが情感たっぷりに歌い、弦の音も澄んでいる。都響の技量の高さと、インバルの名匠ぶりがよく表れた演奏だった。

 オーボエの1番は広田智之さん、クラリネットの1番はサトーミチヨさん、第1ヴァイオリンは矢部達哉さんと四方恭子さんが並び、その他のパートも各首席奏者がずらりと顔を揃えて、都響としても万全の態勢で臨んだ演奏。

 インバルは暗譜で指揮。プロの指揮者なら誰でも「未完成」くらいは暗譜しているかもしれないが、それでもインバルがシューベルトを振るのは珍しいと思うので、そこになにか意気込みというか、そんな集中力と気合が感じられた。

 じつはわたしは、演奏前は少し心配していた。最近のインバルは、たしかにオーケストラの堅固な構築感は見事だが、どこか覚めたような、もっというと、どこか飽きてしまったような、そんなニヒルなものを感じることがあったから。2016年3月のバーンスタインの「カディッシュ」のような珍しい曲の場合は、そんなことはなかったが、長年振り続けてきた曲の場合は‥。だが、今回の「未完成」では、感性のみずみずしさが感じられたので、わたしはホッとした。

 「悲愴」では、インバルはスコアを置き、スコアをめくりながら指揮をした。なぜだろうと、おもしろかった。演奏機会が少ないことはないだろうが、一応念のため、か。もちろん、大編成のオーケストラ(16型)のドライヴ感は、いつものインバルだったが。

 「悲愴」は、インバルの特徴、あるいは音楽性がよく出た演奏だった。オーケストラが一つの有機体のように動き、音の濁りがなく、フレージングは明瞭、アクセントもはっきりしているが(そしてそれらの点がインバルの美質だが)、たとえば今回の「悲愴」でいうと、底が抜けたような暗さとか、身悶えするような焦燥とか、絶望とか、そういった切羽詰まった要素はなく、あえていえば、楽天性が拭えない。

 それがインバルの演奏の聴きやすさの要因かもしれないし、人気の要因もそこにあるのかもしれない。
(2018.3.30.東京芸術劇場)
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クラウス・フロリアン・フォークト

2018年03月27日 | 音楽
 フォークトの「ローエングリン」は2012年、2016年と2度聴いているので、今回はリート・リサイタルを聴くことにした。昨日はその1回目。プログラムは、ハイドン、ブラームス、マーラー、リヒャルト・シュトラウスというドイツ・リートの王道プロ。

 ハイドンの歌曲は今までノーマークだった。プログラム・ノートによると、「ハイドンがピアノ伴奏つき歌曲のジャンルに手を染めたのは、50歳にも近づこうという時期だった。」。今回歌われた曲は6曲で、作曲年代(または出版年代)は1781年から1801年にわたっている。

 曲名を書くと長くなるので、省略するが、どの曲も素朴な有節歌曲。たとえばモーツァルトの歌曲に比べても、もっとシンプルだ。後期の交響曲やオラトリオからは窺えないハイドンの素朴な面が見える。フォークトの少年のようなピュアな歌声が、ハイドン歌曲のその様式をよく伝えていた。

 次はブラームスの歌曲を5曲。これも曲名は省略するが、「49のドイツ民謡」から3曲、その他が2曲。ハイドンと比べて、ブラームスの歌曲のなんと緻密なことか。音の取り方の微妙さはもとより、ピアノ伴奏部の充実というか、メロディーラインとは独立した動きに、思わず唸ってしまう。ブラームスは明確な意思をもって、一曲一曲、完結した世界を構築しようとしていたことが、ハイドンとの対比で如実に感じられる。

 休憩後は、マーラーの「さすらう若人の歌」。これは馴染みのある曲だが、その曲をフォークトは、なんとすがすがしく歌ったことか。傷つきやすい若者の心を、フォークトほど透明に表現できる歌手はいないかもしれない。交響曲第1番「巨人」で聴く場合よりも、もっとマーラーの心情が伝わった。

 最後はシュトラウスの歌曲5曲。作品27の4曲を27-3、1、4、2の順に並べ、1と4の間に「献呈」を入れる構成。わたしは作品27を歌った後で、最後に「献呈」で締めくくる方がよかったのではないかと思ったが、どうだろう。

 フォークトはシュトラウスでは明らかに歌い方を変えていた。ワーグナー歌手の片鱗を示すかのように、大きな構えで、張りのある歌い方をした。シュトラウス歌曲の技巧性よりも、ワーグナー後の音楽であることを感じさせた。

 アンコールが2曲歌われた。いずれも軽い動きをもった曲で、フォークトのよさが十分発揮されていた。だれの曲だろう。
(2018.3.26.東京文化会館小ホール)
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須賀敦子「地図のない道」

2018年03月24日 | 読書
 3月の読書会のテーマとして友人が選んだ須賀敦子(1929‐1998)の遺作「地図のない道」を読んだ。友人が本書を選んだ理由はすぐ分かった。前回の読書会でわたしの提案したプリーモ・レーヴィ(1919‐1987)の「これが人間か―アウシュヴィッツは終わらない―」(1947)を取り上げたので、“イタリアのユダヤ人”つながりのためだ。

 「地図のない道」は、「その一 ゲットの広場」、「その二 橋」そして「その三 島」の3章からなっている。各章はさらに3~5節に分かれている。たとえば「その一 ゲットの広場」は3節に分かれ、各節はそれぞれ異なる話になっている。そして各節共通のテーマとして、ユダヤ人の悲劇がある。

 「その二 橋」は少し屈折している。第1節はヴェネツィアのユダヤ人の話だが、第2節ではヴェネツィアの橋の話になり、“橋”つながりで第3節は大阪の話になって祖母の回想に移行し、第4節では祖母の想い出を辿って著者が大阪の街を行く話になる。

 「その三 島」も話をスライドさせながら、夫を亡くした頃の傷心の日々や、それから25年たった今、当時を思い返しながらヴェネツィア沖にいる自身の姿を描く。

 話はそれるが、本書には「ザッテレの河岸にて」というエッセイも収められている。「ザッテレ‥」は「とんぼの本」シリーズの「ヴェネツィア案内」のために書かれたもので、「地図のない道」とはヴェネツィアという共通項がある。一方、「地図のない道」がユダヤ人の悲劇を通奏低音にしているのに対して、「ザッテレ‥」はヴェネツィアに多くいた娼婦の悲劇を通奏低音にしている。

 ユダヤ人、娼婦、ともに社会的に弱い立場の人々、その人々へ想いを寄せるところが須賀敦子らしい。「ミラノ 霧の風景」(1990)から始まったイタリア生活の回想が(そして付け加えれば、須賀敦子の人生の出来事が)、夕日に染まるように、それらの弱い立場の人々への想いで染まっていく。

 詳細は省くが、「ザッテレ‥」の関連で生物学者の福岡伸一氏の「世界は分けてもわからない」(講談社現代新書)を拾い読みした。そこにはこう書いてあった、「私が好きなのは『地図のない道』と題された彼女の最後の本である。」。

 その理由の説明はなかった。わたしはむしろ、今まで読んだ範囲では、「ヴェネツィアの宿」が一押しで、著者が加筆・訂正中だった「地図のない道」には、もう一歩、文章の引き締めがほしい気がする。でも、だからこそ、著者の地の声が聞こえる面もあるかもしれない。
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須賀敦子「ヴェネツィアの宿」

2018年03月22日 | 読書
 須賀敦子(1929‐1998)の第一作「ミラノ 霧の風景」(1990)と第二作「コルシア書店の仲間たち」(1992)を読んで、わたしは須賀敦子の世界にのめり込んだ。友人と続けている読書会が3月にあり、そのテーマとして友人が選んだのは遺作「地図のない道」(1999)だが、読書会までもう少し日数があるので、第三作「ヴェネツィアの宿」(1993)も読んでみた。

 「ミラノ‥」も「コルシア書店‥」も、60歳代になった著者が、30歳代に過ごしたミラノでの生活、そしてそこで出会った人々の想い出を書いたエッセイだ。次の「ヴェネツィアの宿」も、書名からいっても、当然その流れの作品だと思っていた。

 本書は12編のエッセイからなる。「文學界」の1992年9月号から翌年8月号まで連載されたもの。各編は独立している。その第一篇「ヴェネツィアの宿」(本書全体の書名にもなっている)は、こんな展開になっている――。

 書き出しは、著者がシンポジウムに参加するため、ヴェネツィアの空港に降り立ったところから。旧知の友人のヴェネツィア大学教授が迎えに来てくれる。各国から集まったシンポジウム参加者との昼食会にのぞみ、その後シンポジウム会場に向かう。

 夜はシンポジウムの打ち上げ晩餐会があり、疲れを覚えた著者は、ホテルへの帰り道を歩む。その道が正しいかどうか少し不安になったとき、突如オーケストラの音が鳴り響き、多くの人々が集まっている広場に出る。そこはオペラの名門、フェニーチェ劇場の前の広場。同劇場の創立200年記念ガラ・コンサートが、その広場に同時中継されていた。

 と、ここまで読んできたところで、同劇場は1792年の創設だから、本作の「時」は1992年、つまり「今」だということが分かる。著者はホテルに戻る。やがて「40年ちかくもまえに」、ということは20歳代の後半に、パリに留学したときの想い出がよみがえる。

 そこまでは「ミラノ‥」や「コルシア書店‥」と大差のない展開だ。ところが、そこから先は、思いがけない展開になる。手探りをするように、前2作では触れることのなかった辛い経験に触れていく。わたしは息を潜めるようにしてそれを読んだ。

 以下の11篇にも、辛い出来事、悔恨の情、あるいは口惜しかった想い出が記されている。前2作では著者のみずみずしい感性が眩しかったが、本書ではより翳りのある領域に踏み込んだようだ。
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高関健/東京シティ・フィル

2018年03月18日 | 音楽
 高関健はタングルウッドでバーンスタインに学んだことがあるそうだ。恒例のプレトークでは、そのときの想い出を交えながら、バーンスタインを20世紀の“巨人”と評していた。音楽に限らず、哲学も、文学も、膨大な知識を有していた。英語で話していると、次から次へと哲学や文学の話が出てきた。自分は半分くらいしか分からなかったが、バーンスタインが“巨人”であることはよくわかった、と。

 今回の定期はそのバーンスタイン・プロ。1曲目は「キャンディード」序曲。コンサートの幕開けにふさわしい華やかな曲なので、よくプログラムの冒頭を飾るが、今回の演奏は、威勢がいいだけではなく、音がよく整えられた、丁寧な演奏でもあった。部分的に木管のアクセントが強調されていた。

 2曲目は「セレナーデ」。ヴァイオリン独奏は渡辺玲子。今年1月のN響定期でもこの曲が演奏されたが、そのときのヴァイオリン独奏の五嶋龍が、滑らかな、品のいい演奏だったのに対して、渡辺玲子は、鋭く食い込むような、アグレッシヴな演奏。とくに終曲の最後はスリリングだった。

 休憩後の3曲目(「ウェスト・サイド物語」よりシンフォニック・ダンス)の前に、高関健がマイクを持って再登場し、「マンボ!」の掛け声について説明があった。バーンスタインはこの曲を3度録音しているが、2度目までは「マンボ!」が入っていないそうだ。(※)

 高関健はタングルウッドでこの曲を聴いた。そのときは客席から「マンボ!」と声が掛かった。それを今回やってみましょう、と。「マンボ!」の箇所に来たら、皆さんの方に振り向きますから、掛け声をお願いします。

 で、練習が始まった。高関健が客席に向かってキューを出す。1回目は「声が小さい。では、もう一度」。客席から笑い声。2回目は「結構です。でも、ちょっと遅れる。そこは8分休符です」。再度笑い声。3回目はきれいに揃った。高関健も満面の笑み。

 こうして演奏が始まった。「マンボ!」も無事通過。演奏終了後は、会場に和やかな空気が漂った。

 最後は「ディヴェルティメント」。鮮やかで、かつエンターテイメント性にも欠けない演奏。終曲のマーチでは、木管、金管の各奏者が立ち上がり、てんでんばらばらな方向を向いて賑やかに演奏。アンコールにそのマーチを、今度は弦楽器奏者も含めて、オーケストラ全員が立ち上がって演奏。客席は沸いた。
(2018.3.17.東京オペラシティ)

(※)東条先生のブログを読んでいて気が付いたが、「3度録音」はわたしの聞き違いだったようだ。正しくは、「3つの版」があり、その「最初の2つの版」には「マンボ!」の掛け声は書かれていない。また、バーンスタインがニューヨーク・フィルを振った初期の録音にも、「マンボ!」の掛け声は入っていない、ということだったらしい。申し訳ありませんでした。
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ブルニエ/読響

2018年03月17日 | 音楽
 ベルリン・コーミッシェ・オーパーの音楽監督を務めていたヘンリク・ナナシが初登場する予定だった読響の定期が、ナナシ急病のため、直前になってステファン・ブルニエに交代した。ブルニエってだれ?というのが正直なところ。プロフィールによると、ボン市の音楽監督(ボン・ベートーヴェン管とボン歌劇場の首席指揮者)を務めていた人。1964年スイスのベルン生まれ。Opera baseで検索すると、最近はジュネーヴ歌劇場やフランクフルト歌劇場で振っている。そのブルニエが、ナナシに予定されていた、ちょっと特徴のあるプログラムを引き受けた。

 1曲目はモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲。ただし、ブゾーニ編曲。さて、どんな編曲か。演奏が始まると、曲の骨格は変わらないが、時々聴きなれない音が出てくる。それがおもしろくて聴いていると、最後に劇的な改変があった。曲が終わりそうになり、本来なら第1幕が始まるところで、石像の音楽が再現して、オペラのフィナーレの部分につながる。

 これはショックだった。序曲というよりも、「ばらの騎士」や「ニーベルンクの指輪」にあるような、オーケストラのための演奏会用の短縮版に近い感じ。遠い昔、どこかで一度聴いたことがあるような気がした。定かではないが‥。

 演奏は、明るい音色で、活気に富んでいた。初めて見るブルニエは、お腹の大きい巨体だったが、その体躯のイメージとは異なる敏捷さがあった。

 2曲目はブゾーニのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はルノー・カプソン。曲自体は穏やかで、聴きやすい曲だが、ブゾーニならではの独自性はあまり感じられなかった。反面、カプソンの演奏は水際立っていた。演奏の優秀さに息をのんでいるうちに曲が終わった。

 アンコールにグルックの「精霊の踊り」が演奏された。ヴァイオリン一本で切々と歌われるメロディーが、これ以上ないくらいロマンチックに胸を打った。

 最後はリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」。1曲目の「ドン・ジョヴァンニ」序曲のときの明るさと活気に、ずっしりした重心の低さが加わり、聴き応えのある演奏になった。日下紗矢子のヴァイオリン・ソロも見事だった。

 後半のワルツが「ばらの騎士」のように聴こえた。この原石から「ばらの騎士」が彫られたのだな、と。そう感じられたのは、ブルニエがオペラ指揮者だからか。
(2018.3.16.サントリーホール)
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須賀敦子「コルシア書店の仲間たち」

2018年03月15日 | 読書
 須賀敦子の「ミラノ 霧の風景」がとてもよかったので、引き続き「コルシア書店の仲間たち」を読んでみた。友人が次回の読書会のテーマに指定したのは「地図のない道」だが、須賀敦子の著作を読んだことのなかったわたしは、まず第一作の「ミラノ 霧の風景」を読み、さらにその印象を確かめるために、第二作の「コルシア書店の仲間たち」を読んだわけだ。

 「ミラノ 霧の風景」が刊行されたのは1990年、須賀敦子61歳のとき。文筆家としては遅い出発だった。翌年、同書は女流文学賞と講談社エッセイ賞を受賞。その翌年に「コルシア書店の仲間たち」が刊行された。60代に入った著者は堰を切ったように珠玉のエッセイを発表し続けた。

 著者は「ミラノ 霧の風景」ですでに第一級のエッセイストだったが、「コルシア書店の仲間たち」では、さらにもう一歩、うまさが増しているように思う。

 「コルシア書店の仲間たち」は11篇のエッセイと、「あとがきにかえて」という副題を持つ短文からなっていて、本文の11篇には、それぞれ異なる友人や知人の想い出が書かれている。それらは短編小説の連作のようでもあり、また全体として、青春群像のようでもある。

 正確を期すと、登場人物の中には初老の人物もいるので、青春群像という言葉は適切ではないかもしれないが、初老の人物を含めて、イタリア在住時代の須賀敦子の、みずみずしい感性が捉えた人物像となっている点で、たとえばプッチーニの「ラ・ボエーム」に通じるような世界になっている。

 須賀敦子は1929年生まれ。その生涯は前半生と後半生とに分けて考えられるようだ。1951年に聖心女子大を卒業した後、途中経過は省略するが、1958年にイタリアに渡り、1961年にペッピーノと結婚。ミラノに住む。ところが1967年にペッピーノが急逝。1971年に帰国。ここまでが前半生。

 後半生では上智大学などで教鞭をとるかたわら、イタリア文学の翻訳を手掛ける。やがてエッセイの寄稿が始まり、1990年の「ミラノ 霧の風景」につながる。そしてそれを起点とする数多くのエッセイは、後半生から見た前半生の回想となり、そこに書かれた人生の輝き、あるいは今は亡き人々への追憶は、長い年月をかけて濾過された蒸留水のような純度を保った。

 前半生の最後を締めくくる約10年間(ペッピーノとの結婚生活とその喪失)と、後半生の最後の約10年間(文筆活動)とは内的に対応している。
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須賀敦子「ミラノ 霧の風景」

2018年03月12日 | 読書
 初めてミラノに行ったのはいつだったろうと思い、日記を繰ってみたら、1998年から99年にかけての年末年始だった。カレンダーにも恵まれて、少し長めの休暇を取り、イタリアに出かけた。コペンハーゲン経由でミラノに着いたときは、濃い霧だった。飛行機から降りてバスで空港ビルに向かったが、1メートル先の人物もボーッとシルエットになるくらいだった。

 その晩はミラノ中央駅のそばのホテルに泊まり、翌日、列車でフィレンツェに向かった。ミラノの街を出るか出ないかというとき、義母が「あらっ」と声を上げた。何だろうと思って車窓を見ると、一面の霧氷だった。まるでガラス細工の世界。昨晩の霧が霧氷になったようだ。わたしたちは歓声をあげた。

 その後、何度かミラノに行ったが、今でもミラノというと想い出すのは、あのときの濃い霧と霧氷。それももう20年前になるのかと、今更ながら驚く。義母は83歳だった。お元気だったと、これまた驚く。

 ミラノは霧が名物らしいと知ったのは、今回、須賀敦子の「ミラノ 霧の風景」を読んだので。本書には12編のエッセイが収められているが、その最初の「遠い霧の匂い」を読んだとき、初めてミラノに着いたときの濃い霧がまざまざと目に浮かんだ。

 「ミラノ 霧の風景」は1991年に刊行された。須賀敦子の第一作。当時ずいぶん話題になったような気がするが、わたしは仕事が忙しくて、文学そのものから遠ざかっていた。

 今回、それを読んだのは、昨年9月から始めた友人S君との読書会で、次回のテーマとして、S君が須賀敦子の「地図のない道」を選んだから。須賀敦子の著作を一つも読んだことのないわたしは、まず「ミラノ 霧の風景」から読んでみようと思った。

 名文だと思った。どんな名文かというと、快い緊張感と滑らかな語り口といったらよいか。第一作とはいえ、須賀敦子がこれらのエッセイを書いたのは60歳の頃(単行本の刊行は61歳の時)。それまでにイタリア語の翻訳経験を積んでいるので、文章が磨かれていたのかもしれない。

 亡夫ペッピーノ(1961年に結婚、1967年に急逝)をはじめ、イタリアで暮らした13年間に出会った人々の想い出、あるいはむしろ(それらの人々の多くが亡くなっているので)追憶が、全篇に流れていることが特徴だ。そこに本書の味わいがある。巻末で本書が「いまは霧の向うの世界に行ってしまった友人たち」に捧げられている所以だ。
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イル・カンピエッロ

2018年03月10日 | 音楽
 新国立劇場オペラ研修所の修了公演では、時々、同劇場の本公演では取り上げられそうもない演目が上演される。記憶に鮮明なのは、2007年のブリテン作曲「アルバート・へリング」と2009年のプーランク作曲「カルメル会修道女の対話」だ。「カルメル会‥」は、大野和士新監督の下では上演されるかもしれないが、「アルバート・へリング」は当分先ではないか。

 今回上演されたヴォルフ=フェッラーリ作曲「イル・カンピエッロ」も、本公演ではいつ上演されることか。そんな観客の渇きをオペラ研修所修了公演が癒してくれるという図式は、喜ぶべきことか、それとも悲しむべきか。

 周知のように、「イル・カンピエッロ」は日本オペラ振興会(藤原歌劇団)が何度か上演している。わたしは2004年の公演を観た。ニェーゼ役の砂川涼子の生き生きとした好演ぶりが今でも目に浮かぶ。楽しい公演だった。そのときの演出は、今回の修了公演と同じ粟國淳。

 そのときの演出がどうだったか、もう記憶が薄れているので、今回初めてのような気分で観たが、それにしてもこのオペラはいいオペラだ、というのが第一印象。3組の恋人たちの、それぞれの性格づけが鮮明に色分けされている。ゴルドーニの原作が与って力があるのだろう。

 本作は1936年にミラノのスカラ座で初演された。当時のイタリアではファシズムの嵐が吹き荒れていた。そういう時代にこの珠玉のような抒情的喜劇が初演されたことに、わたしは、そこだけぽっかり空いた小春日和のような一日を想像する。

 さて、今回の公演だが、今回も何人かの有望な人材がいた。なかでも注目したのは、ルシエータ役の砂田愛梨とアンゾレート役の氷見健一郎。お二人にはプロとしてやっていくためのパワーと切れ味があるようだ。ともに今月で3年満了。もう一人あげると、まだ1年目だが、ドナ・パスクア役の濵松孝行。そのコミカルな演技に注目した。

 また、すでにプロとして活躍している人だが、ファブリーツィオ役の清水那由太(賛助出演)の、太くて深い声にも注目した。今後ますます活躍する人だろう。

 指揮は柴田真郁。わたしは初めて聴いたが、オーケストラを抒情的に歌わせる箇所に聴きどころがあった。オーケストラは新国立アカデミーアンサンブルと銘打つ団体。エレクトーンが1台入っていて、時々、あれっ、と思うような音が聴こえた。
(2018.3.8.新国立劇場中劇場)
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至上の印象派展 ビュールレ・コレクション

2018年03月08日 | 美術
 チューリヒのビュールレ・コレクションは、一度行ってみたいと思っていた美術館。オペラを観るために同地を訪れることは何度かあったが、その都度(同コレクションが気になってはいたが)きちんと場所を調べて行かなかったので、結局はチューリヒ美術館を見るだけで終わった。そのうち、2008年に同コレクションで盗難事件が起きて、その後は入館が難しくなったと聞き、訪れる機会を失った。

 そのコレクションが日本に来た。願ってもない機会。なお、同コレクションは2020年にチューリヒ美術館に移管されるそうなので、その後は見るのが楽になる。

 本展は、印象派・ポスト印象派を中心として、その前はクールベ、アングル、さらにはカナレットやフランス・ハルスまで遡り、またポスト印象派以降は、フォーヴィスム、キュビスムへと辿る構成。語弊があるかもしれないが、西洋美術史の“教科書”的な感じがする。個々の画家では、セザンヌやゴッホなどは、初期の作品から晩年の作品まで、作風の変遷を辿る構成。

 会場を一巡して、その全貌をつかんだ後は、さて、どこをどう見ようかと思案した。何か新しい見方を提案するとか、知られざる画家を紹介するとか、そういう展覧会ではないので。

 試しに、気に入った作品を3点選んでみた。3点は、考えるまでもなく、すぐ決まった。ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)」、セザンヌの「赤いチョッキの少年」そしてモネの「睡蓮の池、緑の反映」。どれも当たり前すぎて、自分でも拍子抜けした。

 ルノワールの「可愛いイレーヌ」は、今までいったい何人の人に見られたのだろう、何百万人か、何千万人か‥と考えた。美しすぎて、手垢のついた永遠の少女。セザンヌの「赤いチョッキ‥」は、よく指摘される“長すぎる腕”が必然と思えた。そう思えたことが嬉しかった。モネの「睡蓮‥」は、もっと離れて見たかった。写真撮影が許されているので、多くの人々が群がっていた。

 会場ではプロモーション・ヴィデオが放映されていた。同コレクションはE.G.ビュールレ(1890‐1956)の個人コレクション。ドイツに生まれたビュールレは、1920年に銀行家の娘と結婚。義父が買収した会社の再建のため、チューリヒに移った。会社は武器の商売で成功。ビュールレは武器商人だったことを隠さない点が好ましかった。
(2018.3.5.新国立美術館)

(※)本展のHP
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下野竜也/日本フィル(追記)

2018年03月06日 | 音楽
 先日の下野竜也指揮日本フィルの定期は、予想以上におもしろかったので、その感想を拙いブログにまとめた。その後、わたしが閲覧したプロの評論家のご意見も、概ね好評のようだった。一例をあげると、東条碩夫氏の次のくだりは、わたしには“わが意を得たり”の思いだった。

 「ユニークで斬新的な選曲と配列だが、実はこれがよく考え抜かれた、一貫性のある、よく出来たプログラミングであることは、聴いてみればすぐ理解できる。」

 他の評論家の方々も、基本的には同じような論調だったが、細部の点で、ある音楽ライターの捉え方が、わたしとは異なっていたので、興味を抱いた。

 それはジェイムズ・マクミランの「イゾベル・ゴーディの告白」について。この曲は冒頭で、弦楽器を主体にした、静かで、光り輝くような音楽が続き、中間部ではそれが激しく劇的な音楽に変化し、終結部では冒頭の静かな音楽が回帰したかと思うと、結尾で巨大なクレッシェンドが起こり、ホールを揺るがすような強打で終わる。

 その中間部の激しく劇的な音楽について、その音楽ライターは「魔女集団の悪行が凶暴な響きによってくりひろげられる」と書いている。一方、わたしは「次第に凶暴化する民衆の描写は恐ろしいほど。」と書いた。

 これは真逆ではないか。音楽ライターは「魔女集団の悪行」と捉えた。その描写だとすると、本作はムソルグスキーの「禿山の一夜」のような曲になる。一方、わたしは「次第に凶暴化する民衆の描写」と捉えた。現代でも起こり得る社会的な狂気への警鐘ではないか、と。

 どちらなのだろう。当日のプログラムは捨ててしまったので、今は確認できないが、これについての明確な記述は記憶に残っていない。

 各人好きなように聴けばよい、という類の事柄かもしれない。また、抽象芸術たる音楽の本質に根差す多義性の一例かもしれない。一応、念のためにWikipedia(英語版)のThe Confession of Isobel Gowdieの項を参照してみたら、音楽評論家Stephen Johnsonの言葉が引用されていた。「裁判、拷問、または集団ヒステリー」を暗示する(according to Johnson, redolent of “trial, torture or mass hysteria”)、と。

 もちろん白黒つけるような問題ではない。今後この曲を聴くときに、さて、どちらか、と想像しながら聴くおもしろさが加わった、と考えるべきだろう。
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下野竜也/日本フィル

2018年03月03日 | 音楽
 下野竜也が指揮する日本フィルの定期。1曲目は、意表を突いて、スッペの「詩人と農夫」序曲。下野竜也へのインタビューによると、2曲目のユン・イサンの「チェロ協奏曲」とともに「チェロが活躍」するから。だが、ユン・イサンの「悶え苦しむ奮闘している曲」に対して、スッペのほうは「穏やかなのんびりした田園風景を語っているような幸せな音楽」と対照的。

 演奏は下野竜也らしいシンフォニックなもの。アンサンブルもよかった。現代曲が2曲も並んだプログラムなので、オーケストラの負担は大きかったろうが、前プロのこの曲もきちんと準備されていたことが好ましい。チェロ独奏は同フィルのソロ・チェロ、辻本玲。

 2曲目はユン・イサン(1917‐95)の「チェロ協奏曲」(75‐76)。ステージ・セッティングの間に下野竜也が登場して、一言説明した。それによると、ユン・イサンは、パリ、そしてベルリンへ留学する前に、大阪と東京で音楽を学んだ。その頃は素朴な美しい曲を書いていた。しかし、ベルリンに渡った以降は、苦しみの多い困難な人生を歩み、作曲にもそれが反映した。これから演奏する「チェロ協奏曲」の前に、ユン・イサンが大阪で夢見ていた曲のようなものとして「詩人と農夫」序曲を演奏した、と。なるほど。

 独奏チェロは作曲者自身で、オーケストラは自身を取り巻く世界とされ、両者の激しい葛藤が表現されるが、それを知らなくても、この曲には異様な緊張感があり、想像を絶する苦しみがこめられていると感得できる。それが見事に表現された演奏。

 独奏チェロはルイジ・ピオヴァノ。音楽に没入し、切れ味鋭い演奏を展開した。アンコールに「アブルッツォ地方(イタリア)の子守唄」が演奏された。チェロを弾きながら歌われる唄に癒された。

 休憩をはさんで3曲目はジェイムズ・マクミラン(1959‐)の出世作「イゾベル・ゴーディの告白」(1990)。冒頭の、オーケストラの内側から光を発するような、不思議な音楽が美しい。魔女狩りをテーマとした曲で、次第に凶暴化する民衆の描写は恐ろしいほど。その演奏に息をのんだ。

 巨大なクレッシェンドで曲は終わるが、演奏はそのままブルックナーの弦楽五重奏曲から「アダージョ」(スクロヴァチェフスキ編曲の弦楽合奏版)に流れ込み、わたしは緊張から解放された。

 プログラム全体のコンセプトも演奏も見事な定期だった。
(2018.3.2.サントリーホール)
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