Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

日々の雑感(2014年3月)

2014年03月30日 | 身辺雑記
3月8日(土)~9日(日)
 宮城県の気仙沼へ。東日本大震災から3年たち、被災地に行くのも支援の一つと思いながら、今まで実行できなかった旅に、思い切って出かけました。被災地に行くのは迷惑ではないか、物見遊山に見えないか、などの心配がありましたが、杞憂でした。

 到着後、昼食のために入った復興屋台村(仮設の建物で営業しています)の食堂の方。フェリーで渡った大島の国民休暇村で、夕食後、宿泊客に被災体験を語ってくれた地元の方。翌朝、港へ送ってくれる途中で、どのように津波が押し寄せてきたか、山火事がどのように続いたか、対岸の気仙沼がどんな状況だったかを話してくれた国民休暇村の方。

 気仙沼に戻って、観光タクシーで被災地を回りました。津波で流された地域は、まだなにもなく、ガランとしていました。地盤沈下を起こしたので、今は土盛り中とのこと。陸前高田の「奇跡の一本松」(↑)まで行ってもらいました。そこでは高台への移転のために土地の造成中でした。

 気仙沼に戻って、帰りの電車を待つあいだ、駅前の土産物屋に入りました。お店の方の話によると、駅前に復興住宅を建てる計画があるそうです。そのために向かいのお店は立ち退きを迫られているとのこと。なんだか暗い顔でした。

 思いがけず多くの方々から話を伺うことができました。皆さんよく話してくれました。でも、皆さん、復興を信じてはいませんでした。働き手は仙台に出てしまったそうです。今後は東京オリンピックの影響でどうなるかと心配顔でした。

3月21日(祝)~22日(土)
 栃木県の小山で友人の息子さんの結婚式があるので、前泊しました。ホテルに入ったのは15:30。テレビをつけたら、甲子園でわが母校の試合が始まるところでした。21世紀枠で出場したわが母校。テレビにくぎ付けになりました。途中の応援合戦で校歌が歌われたときには感動しました。結果は11対ゼロで完敗。でも、皆さん、いい経験になったと思います。将来これを糧として大成してほしいものです。

3月27日(木)~現在
 袴田さんの再審開始決定・釈放。袴田さんは一夜明けて、ホテルの窓から海を見て、「ここは大井川かな」といったとのこと。涙、涙です。でも、喜びにわく世論を傍目で見ながら、袴田事件という言葉は知りながら、なにも調べもせず、まして支援もしてこなかった自分を責めずにはいられません。申し訳ない気持ちです。
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矢崎彦太郎/東京シティ・フィル

2014年03月27日 | 音楽
 3月は人事の季節、別れの季節。長らく――2002年以来だそうだ――東京シティ・フィルの首席客演指揮者を務めた矢崎彦太郎が、3月末で任期を終える。その最後の演奏会があったので、送別会のつもりで出かけた。

 1曲目はスメタナの「モルダウ」。冒頭、フルート2本が囁くような弱音で演奏を始め、やがて各種の楽器に受け継がれ、そして第1ヴァイオリンがテーマを演奏し始める、その演奏がしっとりしていることに感じ入った。いつもは東京オペラシティ・コンサートホールで聴いているこのオーケストラの熱い演奏とは、だいぶ印象がちがった。

 2曲目はモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」。ヴァイオリン独奏は米元響子。オーケストラの演奏が始まると、穏やかで、昔LPレコードで聴いたことがあるような懐かしい音が聴こえた。予想どおりという気がした。でも、その一方で、矢崎さんのモーツァルトを聴くのは初めてではないか、という気もした。フランス音楽に傾きがちで――わたしの場合は――、矢崎さんの大事なレパートリーを聴き落としていたのではないかと思った。

 米元響子の独奏は、演奏が進むにつれて、楽器がよく鳴るようになり、第3楽章の例の‘トルコ風’の部分ではオーケストラと丁々発止のやりとりを聴かせた。そこが一番の聴きどころだった。でも、どういうわけか、この部分では、オーケストラのコル・レーニョがそれらしく聴こえなかった。3階後方のわたしの席のせいか。

 3曲目はシベリウスの「フィンランディア」。矢崎さんのプログラムには常になにか工夫があるが、今回の場合はこの曲だった。合唱付きで演奏された。東京シティ・フィル・コーアの演奏にはさらなる完成度を求めたいが、でも、そんなことは二の次、フィンランド語の語感に涙ぐんだ。母音優勢の――その意味では日本語と似ている――フィンランド語のすんだ語感が、今でも耳に残っている。

 4曲目はラヴェルの「ボレロ」。比較的遅めのテンポ設定だったことにも表れているが、慎重な演奏だった。最近優秀な若手木管奏者が入っているので、その人たちのソロを楽しむことに専念した。ただ、ピッコロ2本とホルンとチェレスタで演奏する部分では、ホルンの音が大きすぎた。

 アンコールにラヴェルの「マ・メール・ロア」から終曲「妖精の園」が演奏された。この曲はこんなに別れにふさわしい曲だったのか――。
(2014.3.26.東京芸術劇場)
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「ザ・ビューティフル」展

2014年03月23日 | 美術
 19世紀後半にイギリスで興った唯美主義は、絵画だけでなく、工芸や文学にもおよび、一大ブームになった。「ザ・ビューティフル――英国の唯美主義1860‐1900」展は当時を概観する企画展だ。

 唯美主義は、耽美主義あるいは審美主義と同義らしい。英語ではAestheticism。‘唯美’と‘耽美’と‘審美’ではニュアンスがちがうような気もするが、厳密には区別されていないようだ。

 ラファエル前派のロセッティやバーン=ジョーンズの作品も並んでいるが、知らない画家も多かった。なかでも、アルバート・ムーア(1841‐1893)の「真夏」(1887)には驚嘆した。この一作を見るだけでも本展に行った甲斐があるというものだ。

 本作は、照明の関係もあるだろうが、文字どおり‘浮き上がって’見えた。これはすごかった。中央で椅子にゆったり腰をかけてまどろむ女性。その両脇に立って扇子で風を送る女性たち。それら3人の女性が身にまとうオレンジ色の衣裳。うぐいす色の扇子。椅子の冷たい金属の感触。

 けれどもこの作品、近寄って見ると、意外に色の塗り方がまだらだった(離れて見ると想像もつかないけれど)。おそらくこれが本作の秘密なのだろう。離れて見たときの‘浮き上がって’見える仕掛けなのだろう。

 同じことは「花」(1881)についてもいえた。花の女神フローラを描いた作品だと思うが(ただし英語の標題はBlossoms)、これも近づいて見ると、衣装のピンク色がまだらに塗られていた。

 もう一人、フレデリック・レイトン(1830‐1896)の「パヴォニア」も美しかった。一人の女性が振り返ってこちらを見ている。その黒い瞳に射すくめられて、目をそらすことができなかった。これも実際に見ないとわからない美しさだと思う。

 音楽好きにはギルバート&サリバンのオペラ「ペイシェンス」のプログラムが興味深いと思う。これは唯美主義の流行にたいする風刺オペラだ。初演は1881年。このプログラムは1882年のものだ。うすっぺらな紙一枚のプログラム。それもギルバート&サリバンに相応しい気がする。当時このオペラは大ヒットした。バカバカしくも可笑しいオペラだ。なお主人公バンソーンはオスカー・ワイルドがモデルという記述を見かけるが、これは俗説らしい。正しくは詩人スウィンバーンやロセッティがモデルのようだ。
(2014.3.20.三菱一号館美術館)

↓アルバート・ムーア「真夏」
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Moore_Albert_Midsummer.jpg

↓↓アルバート・ムーア「花」、フレデリック・レイトン「パヴォニア」
http://mimt.jp/beautiful/midokoro.html
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死の都

2014年03月19日 | 音楽
 新国立劇場の「死の都」。フィンランド国立歌劇場のプロダクションのレンタルだ。演出はデンマークのカスパー・ホルテン。これは‘北欧プロダクション’。舞台美術にも人間描写にも、それに相応しい透明感があった。装置、衣装そして照明は北欧の人たちではないが、全体コンセプトは演出のホルテンのものだろうから、北欧らしい感覚で統一されていたといってもいいだろう。

 昔このオペラを観たくて、ウィーンに行ったことがある。ウィリー・デッカーの演出だった。あのときはどぎつい色彩感だった――舞台美術も人間描写も――。ドナルド・ラニクルズの指揮がそれに輪をかけていた。この作品の性格からいって、それも一理あるのだが、それと今回とどちらがいいかと問われたら、わたしは今回のほうが好ましい。

 フィンランド国立歌劇場の公演がDVDになっているそうだ。細部にどの程度のちがいがあるのだろう。これはまったくの想像だが、フィンランドでは官能的なものが、もう少しきちんと位置付けられているのではないだろうか。日本の舞台ではそれが遠慮がちにほのめかされるだけで、かえって気になるというか、変な感じがした。

 歌手ではパウル役のトルステン・ケールがよかった。さすがの力量だ。でも、それを前提にいうのだが、低音域で声音が変わることが、気になるといえば気になった。ケールはこれまでもハンブルクやバイロイト、それに東京で聴いてきたが、あまりこのことには気付かなかった。前からそうだったか。

 マリエッタ/マリー役のミーガン・ミラーもよかったが――これは皮肉でもなんでもなく、正直にいうのだが――、一番ゾクっとしたのは、第1幕の幕切れで舞台裏から聴こえてくるマリーの声だった。逆にいえば、マリエッタの悪女らしさ・下品さは、あまり出ていなかったのではないだろうか。

 フランク/フリッツ役のアントン・ケレミチェフは、歌も演技もなんの不足もないのだが、どういうわけか印象が薄かった。当初予定されていたトーマス・ヨハネス・マイヤーなら、もっと華のあるフランク/フリッツになった気がする。

 ブリギッタ役の山下牧子が光っていた。脇を固めるこういう日本人歌手が揃ってきたことが、この劇場の――歩みは遅いが――成長を感じさせる。

 ヤロスラフ・キズリンク指揮の東京交響楽団には音色面での艶がほしかった。この公演で欠けている点があったとすれば、そこだと思う。
(2014.3.18.新国立劇場)
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インバル/都響

2014年03月18日 | 音楽
 インバルの都響プリンシパル・コンダクターとしての最後の定期、マーラーの交響曲第9番。

 第1楽章からして激しい表現意欲に突き動かされた演奏。凄まじい、といいたいくらいだ。いったいなにが起きているのか、なにがインバルを駆り立てているのか、表現にたいするその衝動はどこからくるのか――それがつかめないまま推移した観がある。

 第2楽章もその延長。そして第3楽章になってますます実体が露わになった。まさにそこで起きているそのものが、インバルのやりたいことであり、嘘偽りのないインバルの「今」なのだと納得した。オーケストラは咆哮し――もう少しで「絶叫」といいたい気持ちになったが、そうはいわせない一歩手前のところで、オーケストラは踏ん張っていた――、それがどこからくるかは不明だが、狂乱のかぎりを尽くした演奏だった。

 だからこそ、その狂乱が不意に静まり、トランペットに回音の音型(ターン音型)が現れる箇所にハッとさせられた。それは文字通り「不意」だった。狂乱に巻き込まれて先の予想などできなかった。

 そして第4楽章。驚くべき分厚い音。弦は弓をこすりつけ、木管も金管もこれをかぎりと鳴らす。トータルとしての音は、かつて日本のオーケストラからは聴いたことがないような大音量だ。ものすごいテンションの高さ。第1楽章から第3楽章までは、第4楽章にむけてテンションを高める過程であり、そう考えれば理解できると思った。

 もちろん最後は音が薄くなり、消え入るように終わる。でも、なぜか、惜別の情とか諦念とかは感じなかった。この曲でイメージする「別れ」=「死」は感じなかった。そういう壮大なものではなく、もっと物理的な音響のコントロールを感じた。

 会場からは盛大な拍手が沸き起こった。楽員が引き上げた後も、インバルは何度も呼び戻された。だが、わたしの心には、隙間が生じていた。ほんとうの意味でインバルの演奏と一体化するのを妨げるなにか亀裂があった。

 その亀裂はじつは前から感じていた。インバルがプリンシパル・コンダクターに就任する前後の頃は、柔軟性と色彩感に驚嘆したが、いつからか演奏が強面になり、同時にファンタジーが消失した。激しい表現意欲はそのままに、その意欲がむき出しに――即物的に――表れるようになった。そういう状態でインバルは任期を終えた。今わたしには消化不良のようなものが残っている。
(2014.3.17.サントリーホール)
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ラザレフ/日本フィル

2014年03月16日 | 音楽
 ラザレフ/日本フィルの東京定期。事情があって金曜・土曜の両方聴いた。ずいぶん印象がちがった。面白いものだ。できることなら、ラザレフが振るときは、2度とも聴きたいものだと思った。

 1曲目はスクリャービンのピアノ協奏曲。スクリャービンの若い頃の作品。この頃のスクリャービンはショパンの影響が色濃いピアノ曲を盛んに作っていた。この曲もその一つ、と思っていたら、実際に聴くと、意外に独自色があった。やっぱりスクリャービンだ、いくら若いといっても、そんなに簡単に済む話ではない。

 ことに第2楽章が面白かった。変奏曲形式で書かれている楽章。テーマは素朴で夢見るようにやさしい。そのテーマにもとづく比較的シンプルな変奏が続く。シンプルではあるが、そのシンプルさがテーマの性格に合っていた。

 ピアノ独奏は浜野与志男。父は日本人、母はロシア人だそうだ。藝大の大学院に在籍中の若いピアニスト。美しい音をもっている。水滴のような瑞々しさだ。演奏に背伸びしたところがないことに好感をもった。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。この曲の演奏は金曜日と土曜日でそうとう様相がちがっていた。金曜日は緊張感の張りつめた――息詰まるような――弱音が特徴的だった。その一方で、なにか足りないとしたら、音色かなと思った。ところが土曜日になったら、オーケストラは自信満々、豊かな音色で鳴り渡った。反面、ピリピリした緊張感はなかった。

 どちらがいいとかということではなく――そういう単純な話に収斂するのではなく――それぞれの演奏で、なにが達成され、なにが失われたかを考えるほうが大事だと思った。そこからさらなる成長の道が見つかればなによりだ。

 ともかく、そういうちがいがあったにせよ、これは高いレベルの演奏だった。さすがはラザレフというべきか。過剰なものも過小なものもない演奏、すべての音があるべきところに収まった演奏、音の方向性がきちんと整えられた演奏、そして――これが肝心な点だが――少しのデフォルメもない演奏。並外れて幅広いダイナミックレンジの演奏だったが、それはこの作品の真の姿を伝えるためのものだ。

 土曜日の演奏では第4楽章の終結部の、第1楽章第1主題が回帰する直前で、ふるえるような感動が走った。あの部分で人間的な感情の発露を感じたことは初めてだ。
(2014.3.14&15.サントリーホール)
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下野竜也/読響

2014年03月13日 | 音楽
 下野竜也/読響のドヴォルザークの「レクイエム」。東日本大震災の発生から3年たったその節目の追悼プログラムだ。

 驚いたのは「怒りの日」の冒頭だ。巨大で暗い音の塊が湧きあがってきた。それはまるで沖合から津波が押し寄せるようだった。思わず目を見張った。何度も何度もその音の塊が押し寄せてくる。回数を重ねるごとに大きくなるようだった。あれを津波と思ったのはなにかの勘違い――あるいは思い込み――だったのだろうか。それとも演奏者の皆さんもそのようにイメージしていたのか。

 一方、「オッフェルトリウム」の終盤では肯定的なハーモニーが輝かしく鳴り響いた。感動的な瞬間だった。また「サンクトゥス/ベネディクトゥス」の対位法的な部分では、目くるめくような――畳み掛けるような――展開に息をのんだ。

 だが、ぐっとテンポを落とす部分では、ちょっともたれてしまった。正直にいって、集中力の持続が困難な部分があった。

 結果的にこの演奏は、まだら模様の印象が残った。印象が強い部分と弱い部分とが不分明に存在し、まとまった一つの像を結ぶことはなかった。

 最近時々感じるのだが、下野竜也は一つの壁にぶつかっているのではないだろうか――それはだれでも通る道なのだが――。若い頃のだれからも賞賛される季節が終わり、真の巨匠になるための長い苦難の道に差し掛かっているのではないか。とくに、この1曲にかけるという勝負のときに、それを感じる。演奏に自然な息遣いが失われ、音楽が青ざめるというか、硬直した面が否めないことがある。

 独唱陣は、中嶋彰子、藤村実穂子、吉田浩之と、ここまでは完璧な布陣だったが、惜しいことに妻屋秀和が体調不良のために降板した。代役に久保田真澄が立った。おそらく急な代役だったのだろう。急場を救った久保田真澄には感謝しなければならないが、仕方がないこととはいえ、他の3人に比べて、音楽が身体に入っていない感があった。

 余談だが、3月8日(土)~9日(日)に気仙沼を訪れた。がれきは片付いていたが、地盤沈下を起こしたので、土盛りをしているところだった。復興などまだまだ先だ。何人もの地元の方々と話をしたが、だれも復興を信じていなかった。むしろ、これからは東京オリンピックの影響で、復興がさらに遅れるのではないかと不安視していた。皆さん諦めたような表情で、元気がなかった。
(2014.3.12.サントリーホール)
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ラファエル前派展

2014年03月10日 | 美術
 「ラファエル前派展」はすごい内容だ。ラファエル前派の画集に必ずといっていいほど載っている作品が、ずらっと並んでいる。生きた画集、というのも変だが、日本にいながらにしてラファエル前派の代表作を目にする、またとない機会だ。いずれもロンドンのテート美術館から来た作品。

 テート美術館には昔一度だけ行ったことがある。あのときはターナーが目当てだった。ターナーは満喫したが、ラファエル前派は素通りだった。その雪辱というか、そのとき見落としたものを、じっくり見る機会になった。

 なんといっても一番感銘を受けたのは、ロセッティの「ベアタ・ベアトリクス」↓。この世ならぬ光が射している。その光は画集ではわからない――実物でなければわからない――性質のものだ。亡き妻を悼むロセッティの、唯一無二の作品。ロセッティとしても二度と描くことのできない作品。

 同じくロセッティの「プロセルピナ」↓は凄みのある美しさ。これには圧倒された。「ベアタ・ベアトリクス」もこの作品も、‘ラファエル前派’としての活動が終わった後の作品だ――グループとしての活動は短命だった――。ロセッティの力量はこの頃、最高潮に達したと思う。

 一方、ラファエル前派の綱領に忠実な作品として、ハントの「クローディオとイザベラ」↓と「良心の目覚め」↓がある。どちらも有名な作品だが、実物を見ると、想像以上に面白かった。とくに「良心の目覚め」に惹かれた。画集で見ると平板な感じがするが、実物では、びっしり描き込まれた家具や小物の一つひとつが、たしかな存在感をもって浮き上がってくる。

 もう一人、ミレイの「オフィーリア」↓はいつ見ても新たな発見があり、今回もまたあった。「マリアナ」↓↓も画集で馴染みの作品だ。この美しさは「オフィーリア」と双璧だ。

 以上のロセッティ、ハント、ミレイの3人が中心となってラファエル前派を結成したのが1848年。パリで2月革命が起きた年だ。その激震はヨーロッパ中に波及した。ドレスデンでの革命運動が失敗し、ワーグナーが指名手配されたのもこの頃だ。そんな時代を背景とする反アカデミズム運動がラファエル前派。当時3人は20歳前後の若者だった。その出発点から各人の軌跡、そしてバーン=ジョーンズの登場までを俯瞰する展観が本展だ。
(2014.3.7.森アーツセンターギャラリー)

↓「マリアナ」以外の作品の画像(本展HP)
http://prb2014.jp/archives/artworks/

↓↓「マリアナ」の画像(Wikipedia)
http://en.wikipedia.org/wiki/File:John_Everett_Millais_-_Mariana_-_Google_Art_Project.jpg
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アルトナの幽閉者

2014年03月07日 | 演劇
 サルトルの「アルトナの幽閉者」。わたしの高校時代から大学時代にかけて、サルトルは必須アイテムだった。「嘔吐」を読んで、わかりもしないのに、サルトルを論じていた。今思えば恥ずかしい。

 そのサルトルの「アルトナの幽閉者」が上演されることを知って、ついに――長い年月を隔てて――サルトルと向き合う時期がきたと思った。事前に戯曲を読んでみた。興奮するほど面白かった。昔は読んでいなかった。あのころ読んだらどうだったろう。サルトルが少しはわかったろうか。それとも、今の年齢だから、面白いと思えるのか。

 なにが面白かったか。それは戦争と個人との関係だ。戦争でおこなった残虐行為の記憶に苦しむ主人公フランツ。フランツは生家に引きこもり(自らを幽閉し)、30世紀にむけて(未来の人類にむけて)自らを弁護し、また裁く。その姿は今の時代でもアクチュアルだ。第二次世界大戦の終了後も、今にいたるまで、戦争の絶えない人間社会にあって、戦争のトラウマに苦しむ人々の姿が、そこに重なる。

 かなり意気込んで、この芝居を観にいった。結果はどうだったか。ちょっと期待はずれだった。壮大であるはずのこの芝居が、家庭劇のようになっていた。たしかにその要素はある。引きこもり、近親相姦、不倫その他。でも、家庭劇のレベルに収斂して、壮大さを捉えそこなっているように感じられた。今の日本の身の丈に合わせた――今の限界を超えられない――公演だと思った。

 フランツの苦悩が感じられなかったわけではない。その大きさは感じられた。でも、それはフランツを演じた岡本健一の個人技によるものだ。公演全体から立ち上がってくるものではなかった。

 そう感じた一因は、父を演じた辻萬長(つじ・かずなが)にあったかもしれない。井上ひさし作品でいい味を出す名優なので、こんなことをいっては申し訳ないが、この作品では父性愛に傾きがちで、権力者のもつ巨大な虚無感が出てこなかった。

 岩切正一郎の新訳による台本は、妙にすっきり感じられた。サルトルの言葉の奔流というか、大伽藍というか、ともかくその過剰性が、なぜか感じられなかった。もちろん公演用の台本なので、多数のカットはあるだろうが。

 サルトル(1905‐1980)とメシアン(1908‐1992)は同時代人だ。前者は言葉の、後者は音の、それぞれ大伽藍を構築した。そこにはなにか共通性がないか。
(2014.3.6.新国立劇場小劇場)
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ナクソス島のアリアドネ

2014年03月03日 | 音楽
 新国立劇場オペラ研修所の公演「ナクソス島のアリアドネ」。注目したのは、バッカスを歌った伊藤達人(ITO Tatsundo)。この人は逸材だ。情熱のある声。今後世界に向かって雄飛してほしい。アリアドネを歌った林よう子は、最初は低調だったが、バッカスが登場してからは声が出て、旋律ラインが大きくなった。素質のよさがわかる。

 このように有望な歌手の発掘がオペラ研修所公演の楽しみだが、もう一の楽しみは、十分に準備されたアンサンブルだ。今回は、水の精、木の精、エコーの3人の女声が美しかった。ツェルビネッタの取り巻きの男声4人も楽しかったが、アンサンブルとしては女声のほうが楽しめた。

 ツェルビネッタはゲスト出演の天羽明恵。デビュー当時からの持ち役なので、もう堂に入ったもの。例の大アリアでは一人舞台だった。

 指揮は高橋直史(TAKAHASHI Naoshi)。昨年の「カルディヤック」以来2度目だ。今回も手堅い手腕が感じられた。ドイツのエルツゲビルゲ歌劇場の音楽監督。ホームページを見たが、活躍している様子だ。

 オーケストラはボロニア・チェンバーオーケストラという臨時編成のオーケストラ。知っている名前も散見されたが、全体としてはもっと豊かに鳴ってほしいと感じた。このオペラ特有の、室内オーケストラ編成とはいえ、驚くほど豊麗に鳴るオーケストラの楽しみには今一歩だった。

 演出・演技指導は三浦安浩。率直にいって、垢ぬけない舞台だった。でも、それは演出のせいというよりも、舞台美術のせいだと思った。たとえば、アリアドネがテセウスをミノタウロスの迷宮から救い出したときの糸。テセウスに置き去りにされたアリアドネが、その糸をもって悲嘆にくれる演出で、それはいいのだが、その糸がピンクの蛍光色で光っているのは、キャバレーのネオンサインのようで品がなかった。

 一方、よかったのは、幕切れの演出だ。オペラ(劇中劇)「アリアドネ」が終わって、ジュールダン氏の招待客たちが現れる。皆さん退屈しきっている。絶望する作曲家。そこにツェルビネッタが現われて、作曲家を慰める。心なごむ演出だ。三浦氏のオリジナルかどうかはわからないが、気に入った。

 オペラ研修所の公演では「アルバート・へリング」と「カルメル会修道女の対話」が見事な出来だったが、それに次ぐ公演には、残念ながらまだ出会えていないと思った。
(2014.2.28.新国立劇場中劇場)
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