Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

高島野十郎展

2016年04月28日 | 美術
 高島野十郎(たかしま・やじゅうろう)(1890-1975)は、生前ほとんど世間に知られることがなく、没後もしばらくは忘れられていたが、1980年代に入って再発見された。今では多くの人々を惹きつけている。

 わたしは、その絵が見たくて、福岡県立美術館に行ったことがある。もう10年近く前のことだ。同館の一角に高島野十郎コーナーがあった。全部で10点ほどの作品が展示されていたと記憶する。蝋燭の絵しか知らなかったわたしは、柿などを描いた静物画や、夜空に浮かぶ月を描いた風景画があることを知り、じっと見入った。

 今、目黒区美術館で開かれている回顧展は、総数150点ほどを集めた本格的なものだ。東京帝国大学の水産学科を卒業した後、画家の道を歩み始めた頃から、最晩年の絶筆に至るまで、野十郎の生涯にわたる作品をたどることができる。

 まず静物画からいうと、前述の柿などを描いた作品は、1948年頃から始まり、主に1950年代に描かれたことが分かった。代表作の一つの「からすうり」では、薄茶色の壁にカラスウリがいくつも垂れ下がっている。暖かみのあるオレンジ色の実。左から光が射し、影が壁に映っている。まさに小宇宙と呼ぶに相応しい作品。画家の恬淡とした境地が感じられる。

 風景画も多い。もっとも心を打たれた作品は「林辺太陽」。冬だろうか、葉をすっかり落とした裸の木々が、何本も立っている。それらの木々の間から、落日が今まさに最後の輝きを放っている。眩しいくらいの光。荘厳な光景。たんなる風景画を超えたなにか絶対的なものが感じられる。

 「林辺太陽」は1967年頃の作品。興味深く思った点は、若い頃にも同じような作品があったことだ。1925年の「落暉」という作品。見渡す限りの原野に今まさに夕日が落ちようとしている。夕日の下には池のようなものが見える。周囲は荒れた野原。野十郎の心象風景は、意外に若い頃から変わっていないのかもしれない。

 野十郎のトレードマークのようになっている蝋燭の絵、そして月の絵は、ともに何点か展示されている。静物画、あるいは風景画というにはあまりに強い象徴性が感じられる。そこに描かれたものはなんだったのだろう。

 会場を出るとき、なんだか凄いものを見てしまったと思った。わたしの感性とか思想とか、そういったものの根底に触れるものがあった。その感触は今も残っている。
(2016.4.27.目黒区美術館)

(※)本展のHP
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インキネン/日本フィル

2016年04月23日 | 音楽
 インキネン指揮の日本フィル定期は、庄司紗矢香の登場とオール・イギリス・プログラムで興味を惹いた。

 1曲目はブリテンのヴァイオリン協奏曲。作曲当時25歳だったブリテンの若き日の傑作だ。成熟した音楽は、まだ駆け出しの若手作曲家とは思えない。早熟の天才という言葉はブリテンのためにあるのではないかという気がする。

 庄司紗矢香の演奏は、いつものとおりフレーズの一つひとつの意味をしっかり伝えるもの。揺るぎない存在感が現れてくる。音の大きさで聴かせるタイプではないので、オーケストラに埋もれ気味になることもあったが、その存在感は不動だ。今回はとくに第3楽章(最終楽章)パッサカリアの後半に向けての集中力が凄かった。

 オーケストラは慎重かつ正確にそれを支えていたと思う。だが、もう少しこなれた演奏でもよかったのではないか。硬さというか、遊びのなさが感じられた。

 山崎浩太郎氏のプログラム・ノーツを読んで、あァ、そうだったのかと思ったことがある。アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲が1936年にバルセロナの国際現代音楽祭(ISCM)で初演されたとき、ブリテンがそれを聴いて、深い感銘を受けたとのこと。

 その初演の様子は、同曲の委嘱者であり、初演者でもあるルイス・クロスナーの手記で伝わっている。わたしは何度も読んだ。感動的なドキュメンタリーだ。当初はウェーベルンが指揮をする予定だったが、盟友ベルクの死の翌年だったその演奏会のリハーサルで極度にナーヴァスになり、演奏会の前日に逃亡してしまった。急場を救ったのはヘルマン・シェルヘンだった。シェルヘンは急きょスコアを読み、翌日の演奏会を成功させた。

 あの演奏会にブリテンがいたとは――。ブリテンとベルクを結ぶ糸がこれでまたひとつ強固になった。

 2曲目はホルストの「惑星」。第1曲「火星」の激烈な演奏に驚いた。速めのテンポをとった鋭角的な演奏。インキネンがマーラーやブルックナーでは決してやらない種類の演奏だ。金管が例の4分の5拍子のリズムを強烈に刻む。そのリズムは全体の中に埋もれることなく、支配者となって君臨する。黙示録的な演奏。

 インキネンには、わたしたちには未知の部分が、まだありそうだ。そういえば、日本フィルのある楽員が「クールに見えるかもしれないが、ものすごく熱いものを持っている」と言っていた。
(2016.4.22.サントリーホール)
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カラヴァッジョ展

2016年04月22日 | 美術
 去年のいつだったか、今年はカラヴァッジョ展が開かれることを知ったときには興奮した。これは大事件だと思った。

 カラヴァッジョはなぜ人々を興奮させるのだろう。カラヴァッジョと聞いただけで血湧き肉踊るのはなぜだろう。その作品の破格のパワー、迫真性、光と影、深い静寂、人間精神の底にあるもの、カラヴァッジョ以外のだれにも表現できない精神の闇、そして救い、なにかそんなものが、カラヴァッジョの破滅的な人生と相俟って、感じられるから、なのだろうか。

 展覧会には来週行くつもりだった。だが、先日の日曜日にNHKの「日曜美術館」で取り上げられたことを知った。次の日曜日には再放送される。そうすると来週は混むかもしれない。そう思って、多少無理をして昨日行ってきた。

 本展の目玉は、最晩年の(といっても、わずか38歳で亡くなったが)「法悦のマグダラのマリア」の真筆と思われる作品。模写は数多くあり、その図像は広く知られているが、真筆は行方不明だった。この度カラヴァッジョ研究の権威ミーナ・グレゴーリが真筆と認めた作品が来ている。世界初公開だ。

 見ているうちに、恐くなってくる作品だ。闇の中でマグダラのマリアが仰向いて、白目をむき、口を薄く開いている。死人のようだ。この世のものとは思えない強い光(神の光だろうか)に照らされて、顔色は白い。血の気がない。光は左上から射している。その方向に光源がある。闇がそこだけぼんやりと明るくなっている。目を凝らすと、闇の中に十字架が見える。そうか、洞窟にこもったマグダラのマリアを描いた作品かと納得する。

 右肩にかかる金髪が妙に平べったい。退色しているのかもしれない。ともかく、本作が発する凄みは尋常ではない。カラヴァッジョが亡くなるときに携えていた3点の作品のうちの1点である可能性が指摘されている。そうかもしれないと思う。

 本作が真筆であることについては、カラヴァッジョ研究者の間で決着済みのことなのかどうか、わたしは知らないが、異常なほどの凄みを感じたことは間違いない。

 去る4月13日の新聞各紙に、フランスのトゥールーズでカラヴァッジョの真筆と思われる作品が見つかったことが報じられた。ローマにある「ホロフェルネスの首を斬るユディット」の別ヴァージョン。カラヴァッジョの失われた作品の探索は世界各地で続いている。現在進行形の画家だ。
(2016.4.21.国立西洋美術館)

(※)「法悦のマグダラのマリア」(本展のHP)
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アンドレア・シェニエ

2016年04月21日 | 音楽
 新国立劇場の「アンドレア・シェニエ」を観るのは3度目だが、意外に新鮮に観ることができた。フィリップ・アルローが演出・美術・照明を担当したこのプロダクションがいかに優れているかが、よく分かった。

 美術と照明の美しさは、アルローは定評のあるところだが、演出もひじょうに細かい。その例は枚挙にいとまがないが、一例を挙げると、第1幕の最後で貴族の館に押しかけた民衆が追い払われ、貴族たちが踊りを再開する場面で、音楽はのん気なガヴォットに戻るが、舞台では貴族たちに襲い掛かる民衆がスローモーションで描かれる。1789年に設定されたこの場面に相応しい演出だ。

 もう一つの例を挙げると、第3幕で密偵がジェラールにアンドレア・シェニエの逮捕を告げるとき、密偵は娼婦を連れて、いちゃいちゃしている。もちろん台本にはないし、娼婦がいる必要性もないのだが、娼婦が溢れかえる革命下のパリの混乱を象徴して説得力があった。

 こういったディテールを随所に盛り込んで、緊密なドラマを構成した演出。わたしは先日(ちょうど一週間前だ)この劇場で観た新演出の「ウェルテル」を思い出した。台本に書いてあるト書きをそのままやっている演出。ト書きしかやっていない演出。演出家の視点がまったく感じられない演出だった。

 演出家の資質の違いというよりも、やる気の違いを感じた。アルローのこの演出が出た頃は、この演出に限らず、やる気のある演出が相次いだ。それに引き換え最近のこの劇場は、演出面では冬の季節に入ってしまったのではないだろうか。

 今回の公演では、演出は(3度目のお努めにもかかわらず)意外に崩れていなかった。ほっと安堵した。歌手は主要3歌手のレベルが高く、各々の聴かせどころはもちろん、お互いの絡み合いも濃密だった。指揮者は未知の人だったが、緊密な音楽の運びだった。結果的に今シーズンでは一番満足度の高い公演になった。

 余談だが、このオペラでジェラールがアンドレア・シェニエの助命の見返りにマッダレーナの体を求める場面は、「トスカ」でスカルピアがカヴァラドッシの助命の見返りにトスカの体を求める場面とそっくりだ(台本作者は同じ人)。

 直後にスカルピアはトスカに殺されるが、ジェラールは反省してアンドレア・シェニエを助けようとする。ドラマとしては「トスカ」の方が面白いが、人間的にはジェラールの方が興味深い。
(2016.4.20.新国立劇場)
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B→C 上野耕平

2016年04月20日 | 音楽
 東京オペラシティのB→C(バッハからコンテンポラリーへ)シリーズにサクソフォン奏者の上野耕平が登場した。

 上野耕平は2015年9月の山田和樹指揮日本フィルの定期に出演して、イベールの「アルト・サクソフォンと11の楽器のための室内協奏曲」を演奏した。すごい才能だと思った。1992年生まれ。まだ20代前半の若者だ。

 その上野耕平がB→Cシリーズに登場するというので、楽しみにしていた。チケットは完売。当日券はなし。やはり注目されている存在なのだろう。

 意欲たっぷりのプログラムだ。全曲がサクソフォンのソロ。ピアノ伴奏はなし。こんなプログラムはそうそう組めるものではない。B→Cシリーズだからこそ組めるプロだろう。

 前半はソプラノ・サクソフォンで3曲。1曲目はバッハの無伴奏フルートのためのパルティータ イ短調BWV1013。バッハの名作の一つ。ピリオド楽器を含めたフルートの演奏が耳に残っているので、サクソフォンだと感じが違う。音の質量が重いというか、フルートのように抜けるような音ではないので、勝手が違った。

 2曲目はカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの無伴奏フルート・ソナタ イ短調Wq132。原曲を知らないからか、これには違和感がなかった。たとえていうなら、夜の都会のビルの谷間で、だれかが無心にサクソフォンを吹いているような、そんな現代的な感覚があった。

 3曲目は棚田文紀(1961-)の「ミステリアス・モーニングⅢ」。石川亮子氏のプログラム・ノーツによると「最初から最後まで、ビズビリャンド(同じ高さの音を運指を変えて演奏する)、微分音、重音を含む特殊グリッサンド、声を出しながら吹くなど、考えられるすべての現代奏法を駆使し続ける難曲」だが、のん気に聴いているわたしには、たとえば雨上がりに、蜘蛛の巣にびっしり水滴がついて、その糸の1本が垂れ下がり、ゆらゆら揺れているというような、そんな美しいイメージが湧いた。

 後半はアルト・サクソフォンで4曲。リュエフ(1922-1999)、西村朗(1953-)、鈴木純明(1970-)、坂東祐大(1991-)の曲が演奏された。それぞれに面白いポイントがあったが、なにしろ密度の濃い力演が続いたので、年寄りは(わたしのことだが‥)ぐったり疲れてしまった。でも、これが若さの特権だ。B→Cの意義でもある。
(2016.4.19.東京オペラシティリサイタルホール)
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スラットキン/N響

2016年04月18日 | 音楽
 家にいるとラジオをつけっぱなしにしている。熊本と大分の被災状況に気が滅入る。軽い欝のような状態になりそうだ。でも、こんなときだからこそ、東京や大阪にいる人間はいつもどおりの生活(経済活動)をすべきだということを、東日本大震災のときに学んだ。自分にそう言い聞かせて、N響の定期に出かけた。

 指揮はレナード・スラットキン。前半にバッハの名曲の管弦楽編曲版を並べたプログラム。編曲は往年の名指揮者たち。

 オーケストラのチューニングが終わり、スラットキンが登場する。聴衆に一礼。すると、コンサートマスターの伊藤亮太郎が立ち上がって、バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番からプレリュードを弾き始めた。線は細いが、正確で、すがすがしい演奏。スラットキンも指揮台の後ろで聴いている。満場の拍手。

 次に同曲をバッハ自身が編曲したカンタータ「神よ、あなたに感謝をささげます」からシンフォニアが演奏された。オルガンが高音域を駆け巡る。実質的にオルガン協奏曲だ。オーケストラは弦楽の他にオーボエ2本とトランペット2本、そしてティンパニ1対。華やかな音色だ。

 さらに同曲のヘンリー・ウッド(1869-1944)による編曲版。ヘンリー・ウッドはロンドンの夏の風物詩‘プロムス’とは切っても切り離せない名前だ。その編曲による管弦楽版は、原曲にはない音型を加えて、プロムスのお祭り騒ぎを盛り上げる賑やかな音楽になった。

 次に往年の名指揮者バルビローリ(1899-1970)とオーマンディ(1899-1985)の各編曲物が演奏された。逐一記述すると煩瑣になるので、それらは飛ばすことにして、ストコフスキー(1882-1977)の例の「トッカータとフーガ ニ短調」に触れておきたい。

 ステージを埋め尽くす巨大なオーケストラ。マーラーのどんな曲でもやれそうな編成だ。冒頭の、軋むような、緊張した音にハッとした。‘超’派手な編曲。一癖も二癖もあるストコフスキーの個性が光っていた。

 プログラム後半はプロコフィエフの交響曲第5番。指揮者とオーケストラがよくかみ合った演奏。スラットキンとN響の相性のよさが感じられる。オーケストラの鳴り方に無理がない。暖かい音色。どこをとっても曇りがない。緩‐急‐緩‐急と続く全4楽章の、偶数楽章の快適なテンポが心地よい。なおこの曲ではコンサートマスターが篠崎史紀に変わった。
(2016.4.17.NHKホール)
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下野竜也/読響

2016年04月15日 | 音楽
 下野竜也指揮の読響の定期。下野竜也は来年3月に読響の現在のポスト(首席客演指揮者)を退任する。定期を振るのは今回が最後。2006年11月に正指揮者に就任して以来、約10年間にわたって意欲的なプログラムを組んできた。わたしにとっては、現在もっとも重要な指揮者の一人だ。読響との10年間を(わたしなりに)振り返ってみたい気がするが、今はとりあえず昨日の定期から。

 1曲目は池辺晋一郎の「多年生のプレリュード」。2011年1月に今回と同じ下野竜也/読響で初演された。その演奏も聴いたが、どんな曲だったか、(情けないことに)まったく覚えていない。で、まっさらな状態で聴いた。驚くほど面白かった。

 まるでアニメを見るような曲だ。息つく暇もなく場面が転換する。元気いっぱいの少年(あるいは少女)が野原を飛び回って冒険をするアニメ。そんなアニメをこの曲につける人が現れてもおかしくないと思った。

 演奏もよかったと思う。ユーモアがあって、いたずら好きで、生き生きとしていて、活発な演奏。下野竜也と読響がこの10年間に育んできた個性の一部が、最良の形で発揮された演奏だったと思う。

 2曲目はベートーヴェンの交響曲第2番。冒頭の和音が(誤解を恐れずに言うなら)池辺晋一郎の曲と同じようにポジティヴな音で鳴った。少なくとも、池辺晋一郎の曲とベートーヴェンのこの曲との間に断絶がなく、同じ平面で続いていった。

 演奏には下野竜也の精神面での充実を感じた。前向きなエネルギーに満ち、しかも一本調子にならずに陰影に富み、かつ安定感を失わない演奏。わたしはとくに第2楽章ラルゲットでのみずみずしい息遣いに惹かれた。

 3曲目はジェラルド・フィンジ(1901-1956)の「霊魂不滅の啓示」。物々しいタイトルだが、これはイギリスの詩人ワーズワース(1770-1850)の詩のタイトルだ。湖水地方の自然を謳いながら、ワーズワースの死生観を投影した詩。その詩を使ったオーケストラと合唱とテノール独唱のための音楽がこの曲だ。

 いかにもイギリス音楽らしい曲。その味わいがよく出た演奏だ。大曲だが、大曲をまとめる手腕は、下野竜也/読響のコンビは定評のあるところ。安心して聴いていられた。テノール独唱のロビン・トリッチュラーは、ブリテンにも適性がありそうなノーブルな声の持ち主だ。二期会合唱団も美しかった。
(2016.4.14.サントリーホール)

追記
 帰宅してパソコンを開いたら、熊本で震度7の大地震が起きていた。その後も余震が起きている模様。テレビがないので、インターネットで情報を得るだけだが、どれも断片的で心配が募る。ツィッターで、詩人の和合亮一氏が、東日本大震災のときのご自身の経験を踏まえて、実際的で、かつ適切なアドバイスを発信していた。さすがだ。胸が熱くなった。
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ウェルテル

2016年04月14日 | 音楽
 新国立劇場の「ウェルテル」。今シーズンの3本の‘新制作’の内、唯一の自前の新制作(なお他の2本はレンタル)。観客の一人としては、自前の制作であれば、否が応でも力が入る。さて、どういう出来か。

 演出は、長らくトゥールーズ・キャピトル劇場の芸術監督を務め、最近ではパリ・オペラ座の総監督も努めたニコラ・ジョエルによるもの。今の時代から見て、かなり保守的な演出だ。新たな発見とか、問題提起とかはない。ストーリーをそのままなぞった演出。正直に言って、最初は時計の針が20年ほど逆戻りしたような感覚を持った。

 演出はそうだったが、舞台美術はそれなりに面白かった。第1幕は大法官の屋敷の入り口が舞台。緑したたる森が大きく映し出される。自然を賛美するウェルテルのソロに対応するものだ。第2幕はドイツのヴェッツラーの街角が舞台。遠くに高い山が見える。開放的な野外の情景。

 心理的なドラマが深まる第3幕は、シャルロットが嫁いだアルベールの屋敷の中が舞台。窓から降りしきる雪が見える。自然の描写はそれだけ。ウェルテルが自殺する第4幕は、天井まで届く書棚が立ちはだかる。自然から切り離された閉鎖的な空間。

 というように、ドラマの読み込みという点では、とくに目新しいものはなかったが、舞台装置はそれなりに用意されていた。あとは歌手が持てる力を発揮するだけ。さて、個々の歌手はどうか。と、そんな方向に興味を向ける演出だ。

 歌手では、なんといっても、ウェルテル役のディミトリー・コルチャック。第2幕のソロと第3幕の「オシアンの歌」で情熱ほとばしる歌唱を聴かせた。シャルロット役のエレーナ・マクシモアは、声の素質はよいと思うが、フランス語の発音がはっきりしなかった。アルベール役のアドリアン・エレートは、鼻母音がフランス語的だった。ソフィー役の砂川涼子は、わたしは大ファン。今回も健闘した。

 指揮者は、代役の代役でエマニュエル・プラッソン。よかったのではないかと思う。情熱の渦が巻き上がるような部分があった。半面、第1幕のウェルテルとシャルロットとの二重唱では、音楽に生気が出てこないもどかしさがあった。その他の部分では問題を感じなかった。高齢の父君よりも、かえってよかったと思う。

 来シーズンの‘新制作’も3本。自前の制作は「ルチア」だけだが、今度はモンテカルロ歌劇場との共同制作だ。期待して待ちたい。
(2016.4.13.新国立劇場)
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ロト/都響

2016年04月08日 | 音楽
 読響を振ってブーレーズやハイドンで鮮烈な印象を残したフランソワ=グザヴィエ・ロト(1971‐)が、今度は都響を振った(読響の前にはN響も振っている)。プログラムも、読響のときと同様、凝ったものだ。

 1曲目はシューベルトのピアノ曲「6つのドイツ舞曲」D820をウェーベルンがオーケストレーションしたもの。原曲は6曲の小品からなるが、ウェーベルンは大胆に構成を変えた。第1曲‐第2曲‐第1曲‐第3曲‐第1曲とつなげて前半とし、第4曲‐第5曲‐第4曲‐第6曲‐第4曲とつなげて後半とした。(※)

 各々の核となる第1曲と第4曲は、リズムパターンが似ている。しかも前半は弱音中心、後半は強音中心でくっきりしたコントラストが付いている。

 ウェーベルンの編曲というと、バッハの「音楽の捧げもの」から6声のリチェルカーレのオーケストラ版が思い浮かぶが、シューベルトのこういう編曲もあったのかと目を開かされた。しかも一筋縄ではいかない編曲。演奏も、この編曲がどんな曲を生んだのかを、的確に伝えていたと思う。

 2曲目はリヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」。絶望とか悲嘆とか、そういった感情に過度にのめり込まず、きちんと形を整えた演奏。言い換えれば、表現主義的な演奏ではなく、古典的なある一線に踏みとどまった演奏。

 終演後の静寂がすごかった。緊張感みなぎる長い静寂。その静寂がこの演奏のすべてを物語っていたと思う。

 3曲目はベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。冒頭の2回の和音が、ピタッときまらず、微妙にずれていることに衝撃を受けた。むろん意図的にやっていることだ。これはなんだ。なぜだろうと思った。直後に第1主題が提示される。速めのテンポだが、サクサクした感じはしない。流動的な揺らぎがある。しなやかなリズム。弾みがある。音も瑞々しい。飛翔するような感覚がある。弦は12‐10‐8‐6‐4の編成だが、驚くほどよく鳴る。

 仕掛けが満載の演奏。一例をあげるなら、第4楽章の、あれは何番目の変奏だろう。普通は弦楽合奏で演奏される活気ある部分が、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、各1人で演奏された。突如闖入する室内楽的な部分。意表を突かれた。譜面にはどう書かれているのだろう。どんな根拠があるのだろう。ともかく、この後どんな仕掛けがあるのか分からないと、全身を耳にした。(※)
(2016.4.7.サントリーホール)

(※)コメント欄↓もご覧ください。
コメント (3)
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モランディ展

2016年04月02日 | 美術
 ジョルジョ・モランディ(1890‐1964)は、生涯にわたって郷里ボローニャに住み続け、美術学校の教師をしながら、静物画を描き続けた。何本かの壜やカップ、あるいは水差しなど、ありふれた日用品を描いた静物画。それ以外には風景画も描いたが、量的には少ない。あくまでも静物画の画家だった。

 そのモランディの展覧会が開かれている。先述したような壜やカップ、水差しなどを描いた静物画がいくつも並んでいる。淡々とした印象。失礼ながら、最初は同じような絵が並んでいると思ってしまった。

 でも、見ているうちに、だんだん面白くなってきた。なぜだかは分からないが、言葉にならない面白さを感じるようになった。見ていて飽きない。それが不思議だった。

 本展には「終わりなき変奏」という副題が付いている。言い得て妙だと思った。垂直方向に深めるのではなく、水平方向に広がっていく変奏。壜やカップ、その他の配列の完璧なバランスを求めるのではなく、バランスの微妙な変化を楽しむ感性。変奏という言葉は音楽用語だが、音楽作品、あるいは作曲家に似たようなタイプはいるだろうか。ちょっと考えたが、思いつかなかった。

 生涯にわたってこのような静物画を描き続けたことは驚くべきことだが、それがマンネリ化しなかったことは、もっと驚くべきことかもしれない。モランディ自身が自らを戒めていたからだ。自らに対する厳しさ、その精神の強靭さが、これらの作品に表れているのではないだろうか。

 モランディの生涯は両大戦に重なっている。その影響が見られないことが気になると思ったが、よく見ると1941年の「静物」(Cat.No.49)が暗い色調で異色だった。不吉な予感に怯えたような作品。緊張して息を潜めているような作品。

 風景画も意外によかった。最初期の「風景」(1921年、Cat.No.83)は真ん中に家の側面(ただし窓はなく、壁だけの側面)が描かれ、その背後に木立が描かれている。各々の形態は単純化されている。茶褐色の家も、緑色の木立も、淡く、穏やかな色調。静物画と共通の色調だ。

 モランディは――売るためにではなく、家族や友人に贈るために――花の絵も描いた。花瓶に活けられた花々。でも、造花だ。生命がない花々。ゾッとするが、でも、美しいと思った。これらの花々は、静物画での壜やカップと等価の物だったのかもしれない。
(2016.3.31.東京ステーションギャラリー)

本展のHP
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